大津皇子の変
草壁立太子
灰色の空からは粉雪が舞い、冷たい風が体を引き締める。戸を固く閉じ、たくさんの火鉢をおいても部屋の中は暖かくならない。
六八一年二月。大海人は風邪をこじらせて寝込んでいた。布団に横たわる大海人はときおり苦しそうな咳をしている。主の病状を気遣って、浄御原宮は物音一つしない。
讃良はかたわらに座り大海人を見つめていた。
「お体の具合はいかがでしょうか」
「熱があるのに体の中が寒くてしかたがない。節々も痛い。寝汗もかいた。目覚めて横にお前がいてくれてほっとした」
「芯熱があるのです。早くよくなって
「儂が天皇に即位してから、お前はよく儂を助けてくれている。他の女では皇后の役を務めることができなかったろう。
「草壁も朝議に参加するお許しを得てから頑張って政を学んでいます」
「床に伏してると、今年の田植えや雨乞い、虫追い祭りのことが気になる。夏には
「祭りについては毎年行っていますので私も心得ています。ご安心ください。大海人様が国のすべてを担っているから心労が絶えず、床に伏せっても政で悩まねばなりません。唐国は律令に従って政を行うので、皇帝は年中行事ぐらいでは心を煩わせないそうです。皇后として朝議に出ていますので、大海人様が病気で朝議に出られないときの代わりぐらい務められると思っていましたが、裁可に迷うことが多くて困っています。
「律令については難波宮で叔父さんに教えてもらったことがある。舎人が増えるに従い冠位を整えてきたが、お前が言うように律令としてまとめるときにきているのかもしれない」
「唐国が大陸を治めることができるのも、新羅が韓半島を統一できたのも律令があったからといいます。草壁に苦労させないために律令を整えておくべきだと思います」
一昔前とは違い、浄御原宮が手狭になるほど官人の数が増え、決裁しなければならない政が多くなってきている。大海人様のように天皇になっても仕事に振り回されては、身も蓋もない。
「高市、草壁、大津と儂は良い子供を持つことができて幸せ者だ。穂積や
大海人は上体を起こした。
讃良は火鉢にかけてあった土瓶をとって白湯を勧める。湯飲みから立ち上がる白い湯気を口で吹きながら、大海人はおいしそうに湯を飲んだ。
「熱があるが、寒くて震えが止まらない」
「お酒を召し上がりますか。体が温まりましょう」
「夕餉の時に頼む。儂の悩みは律令を作ればなくなるのだろうか」
「悩みとおっしゃいますと」
「兄様の苦悩がわかってきた。儂の子供たちには一長一短ある。最年長の高市は壬申の乱で軍を率いたように統率力と人望があるが、漢籍や儀式が苦手だ。加えて、残念なことに母が胸形の娘だ。草壁は頭の回転が速く漢籍に詳しく礼儀正しいが、繊細でおとなしすぎる。大津は漢詩や和歌に優れ、馬術や弓術までして大胆で人を引きつけるが、礼儀を知らず年長者への口の利き方が悪い。他の子供は幼すぎる」
大海人様のおっしゃりようであれば、草壁がもっとも天皇にふさわしい。何も悩むことなどないのです。
「病に伏せっていると気が弱くなっていけない。自分の後を誰に任せるか悩んでしまう」
「吉野の盟約のときに、大海人様は草壁を継嗣とおっしゃったではありませんか」
「草壁に人を率いてゆく積極性があれば決まりなのだが……。
「何を言っていらっしゃるのですか。吉野の盟約以降、草壁を朝議に参加させているのは、草壁に政を教えるたでしょう」
本当に何をおっしゃるのか。私が天皇になってもしかたがないのです。
草壁が後継になることに何の迷いがあるというのですか。大海人様は年をとって優柔不断になられた。
「確かに草壁を後継と言った。草壁は几帳面で優しくてしっかりしている。
確かに草壁はおとなしい子供だけれども。能力は高市や大津に劣るものではない。
「草壁を
「お前の言うとおり、兄様が大友を太政大臣に就けたのは、大役を任せ人間を造ろうとしていたのだろう。兄様は大友の教育と補佐のために五大官も付けた。儂は若い大友が政の頂点に立つことに腹を立てたが、今になって兄様の気持ちが分かるようになった」
「経験のない草壁では不安でしたら大海人様が後見となってくださればよいのです。草壁は吉野の盟約で大海人様が後嗣にご指名なって以来、
「草壁か……」
高市や大津では天皇になれないのです。即位できるのは草壁しかいないのです。悩むことはありません。
讃良が空になった湯飲みに白湯を注ごうとすると、大海人は「いらない」といって湯飲みを讃良に返してきた。
「お前の言うように律令を作り国の形をしっかりさせるのが儂の務めであろう。律令は一朝一夕にできるものではない。儂の体が良くなるまでに律令のための人選をしてくれ」
「草壁を太政大臣にすることについては?」
「日本国を繁栄させ、皇室千年の基礎を創ることができるのは誰なのか、軽々に決めることはできない。体が良くなってからじっくりと考える」
日本が繁栄しても、皇室が後の世まで続こうとも、草壁が天皇になれなかったら意味がありません。草壁は大海人様の第一皇子です。大海人様は何に迷うのですか。
「国史について考えていることがある。我が国も国史を作って、皇室が日本を治めることの正当性を唐国や新羅に示そうと思う」
「
「
「承知いたしました。国史を編纂する人選も行いましょう。ただいまは、お心安らかに体を治すことに専念してください」
「お前がいてくれて助かる。余人には代えられないとはお前のことだ」
私にお世辞を言われてもうれしくありませんし、国史などどうでも良いのです。草壁を後継にしてくださることが重要なのです。
ゆっくりと仰向きになった大海人に、讃良は布団をかぶせた。
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