大海人の悩み
六七九年四月初日、浄御原宮で定例の朝議が終わった。
「どうなされたのですか。お体の具合でもすぐれないのでしょうか」
讃良の問いかけに、大海人は一呼吸してから答えた。
「悪い夢を見た。儂が死んだ後に子供たちが争い、せっかく創った
「壬申の乱のように?」
「壬申の乱よりひどい。氏族がそれぞれ好きな皇子を旗印にたてて四分五裂の争いを始める。皆にやめるように命じたが、幽霊になった儂の言葉は届かない。民は死に国土が荒れたところへ新羅が大軍で攻めてきて皇族が皆殺しにされて、日本が新羅になってしまった。浄御原宮に新羅の旗が林立し、儂は子供たちの死んだ姿を眺めていた」
大海人様の声には元気がない。年を取って力が出なくなり、気力も萎えてきていらっしゃるのでしょうか。
「夢なのですからお気に病むことはありません」
「
「大海人様の後継は草壁ですから、争う余地などありません」
「年が同じくらいで、同じように優秀な皇子が何人もいる。兄様の皇子も数えれば皇位を継ぐ資格のある者は多い」
同じくらいの年で優秀な皇子というのは大津のことなのかしら。確かに、大津の元に集まる人は多いのですが、草壁は大海人様の皇子のなかで序列一位なのです。大海人様の後は絶対に草壁なのです。お父様は、順番を変えて、大友を即位させようとしたから大乱が起きたのです。順を守って草壁を天皇にすれば戦など起こるはずありません。
讃良の元に、部屋の隅で控えていた藤原不比等と柿本人麻呂が寄ってきた。
「畏れながら、皇子様方は聡明で仲は悪くありません。互いに皇位を争い国力を落とすなどという愚かなことはしないと考えます」
「柿本臣の言うことは合っていると思うが、争いは本人だけではなく取り巻きが起こすこともある。
古人や有間は、近習にそそのかされたのではなく、お父様に陥れられたのですが……。
大海人様の声には張りがなく、本当に気に病んでいらっしゃるのだ。
「何か良い案はないだろうか」
草壁に譲位して、新天皇の後見になって下されば悩みは解決するのですが……。草壁はまだ十九歳。さすがに若すぎて天皇に即位することはできません。せめて三十くらいにならないと。
大海人様の子供で三十近いのは高市だけですが、母親が筑紫の
天皇に即位するのは、大海人様の第一皇子である草壁だけなのです。大海人様に、草壁こそが唯一の後継ぎであると宣言してもらう必要があります。
「天皇の権力は大きい。皇子たちは幼いから天皇の地位に興味がなくても、年をとれば野心も出てこよう。皇子にすり寄って出世をもくろむ者が、皇子を焚きつけることもある。何か良い案はないだろうか」
「皇子様に、誓詞を出していただいたらいかがでしょうか」
「誓文か。藤原臣は、皇子たちに何を誓わせるというのだ」
「皇位継承について争わないことを誓っていただきます」
草壁は皇位継承第一位であれば、皇位を争わないとは、草壁を次の天皇にすると同じ意味です。草壁を天皇にすると言わずに、皇位について争わないとは、藤原臣はうまいことを言います。大海人様の悪夢を解消し、次の天皇が草壁であることを群臣たちに認識させることもできます。
「誓詞か……」
「
吉野……。
大海人様との思い出の地。大海人様は吉野で毎日私を求めてくださった。幼い草壁も一緒に、親子水入らずで過ごすことができたところです。
吉野を脱出して東国に向かった日から、私と草壁の運命も変わりました。
「吉野の誓いか。よかろう、
大海人は立ち上がって伸びをしてから広間を出て行った。
讃良は頭を下げ、不比等と人麻呂は両手をついて大海人を見送る。
「差し出がましいことを申し上げました」
「藤原臣の提案に、大海人様は満足された様子です。草壁を大海人様の後継者に位置づけるという意図が私にも理解できました。感謝します」
「ですが、藤原殿。神に誓ったとして天皇様の不安は解消できるのでしょうか」
「柿本殿は壬申の乱の前に五大官が行った誓約のことを言ってみえるのか」
讃良は小首をかしげ、人麻呂は首を縦に振る。
「
人麻呂は首を縦に振り同意する。
「誓いに意味がないのならば、藤原臣は、何を目的に大海人様に進言したのですか」
「もちろん、草壁皇子様の後継を確実にするためです。天皇様は、皇子様のうち誰を後継にするかで悩んでいらっしゃいますので悪夢を見られるのです。天皇様に後継を決めていただくために誓いの儀式を行っていただきます」
「皇子たちに誓わせるのではなく、大海人様に決断させるために儀式を行うと?」
不比等は「はい」と短く答える。
「やはり、大海人様は草壁を天皇にすると決めていないのでしょうか」
「畏れながら、母親のものの見方と、父親のものの見方は違います。母親は子供がいて世の中があると考えますが、父親は国や氏族が安泰であって子供が暮らせると考えます。大海人様は、国を優秀な子に託し、他の子供はそれぞれの役割を果たせばよいとお考えなのです」
「草壁が天皇になることは誰が見ても明らかではないですか」
「畏れながら申し上げます。草壁皇子様は国を支えてゆける賢明なお方ですが、血筋の良さで他の皇子様より頭一つだけ出ているにすぎません。天皇様にご決断いただくために、盛大で厳粛な儀式を行うのです。吉野は神聖な場所であり、天皇様が挙兵された思い出の地です。誓いを立てるにはうってつけの場所でしょう。」
「皇子たちに誓わせるのではなく、大海人様の心を固めるために儀式を行うと?」
「御意です。天皇様に決心していただき、皇子様方には序列を再確認していただきます。群臣・百官にも誰が次の天皇様か知らしめます」
讃良は立ち上がり広間の外に出た。
まぶしい光が讃良の顔を照らす。
今までは草壁を育てるのに手一杯でしたが、草壁も来年には子供が生まれるほどに大人になりました。草壁を天皇にして国を創ってゆかねばなりません。
手をかざして日差しを遮ると、鋭い鳴き声を上げて、真上に飛び上がってゆく雲雀の姿が見えた。
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