阿部皇女

 讃良の部屋に志斐が草壁皇子を連れて入ってきた。

 みずあさ色の衣を着た草壁皇子は、「なんですか」と讃良の前に座ると、梅雨の晴れ間のさわやかな風も、いっしょに部屋に入ってきた。

 草壁のことを子供だと思っていましたが、充分に立派な青年です。若さがはじけるようで、水浅葱の衣が似合っています。后を迎えるには十分な年頃です。

 讃良は軽く咳払いをしてのどを整えた。

姪娘めいのいらつめから娘を草壁にもらってほしいという話が来ました」

 草壁は「ええ!」と驚きの声を上げ、顔を真っ赤にした。

 かわいい。体は大きくなっても、まだ子供なのです。そして、脈はある。藤原臣の作戦が功を奏しているらしい。

「娘は御名部皇女ではなく阿陪皇女のほうです。私は阿陪が草壁よりも一つ年上だからいかがなものかと思って断ったのですが、母親よりも娘の阿陪が乗り気なので、何回も話を持ってくるんです」

 草壁が、私に気取られないよう、精一杯うれしさを隠しているのが手に取るように分かっておもしろいくらいです。

「私は阿部よりも山辺のほうが器量が良く草壁よりも年下ですし、何よりも元気なので、草壁の后にふさわしいと思うのですが」

女子おなごは見た目より心根です」

「但馬や紀も年下で血筋が良いと思うのですが」

「但馬たちは子供です」

「お母さんとお父様ほど離れていませんよ」

「年が離れすぎていては話が合いません。后にもらうのならば同じくらいの年が……」

「阿陪は大王様の娘だから嫁ぎ先に困っているのです。そして、女は打算的ですから、身分が低い群臣まえつきみのところへいくより、大兄おおえである草壁のほうが将来性があると考えているのでしょう」

「阿陪皇女は、そのような嫌らしい考えをする人ではありません」

「阿部ではなく、采女の中から歌が詠めて笛や琴も堪能で、器量が良い娘を柿本臣に探してもらっているのですが、なかなか良い娘がいなくて」

「琴なら阿陪皇女もできます」

「阿部の琴を聞いたことがあるのですか」

「ええ、屋敷へ行ったときに……」

 草壁は顔を赤くしてうつむいた。

「なるほど。姪娘が何回も話を持ってくるわけです。私は阿部よりも他の娘をと探しているのですが、草壁が気に入らない娘を探してもしかたがありません。草壁の気持ちはどうなんですか」

「阿陪皇女なら……」

 真っ赤な顔の草壁は言葉を継ぐことができない。

「阿部と草壁の気持ちが合っているのなら話を進めましょう」

 草壁は真っ赤な顔をして固まっている。

「阿陪では不満なのですか」

 草壁は顔を上げた。

 耳まで赤くして恥ずかしがっている様子がかわいらしい。女なら見境なく食べてしまう大海人様に見せてあげたい。

「阿陪皇女なら……」

「男ならはっきり最後まで言いなさい」

「阿陪皇女と夫婦めおとになりたいです」

 草壁に言わせた!。してやったりです。自分が選んだ娘を后にするのですかrさ、草壁は浮気などしないでしょう。

 草壁の後ろに控えていた志斐が目で笑っている。

「さっそく姪娘のところへ遣いを出して阿陪を呼びましょう」

 草壁は「ええっ」と大きな声を上げる。

「今日から一緒に暮らそうというわけではありません。本人の気持ちを確かめるために呼ぶだけです。倭の男衆ならば娘のところへ行くのでしょうが、草壁は大海人様の大兄で将来の天皇ですから、おいそれと出かけることはなりません。私も阿陪の琴を聞いてみたいですし」

 志斐が一礼して部屋を出て行った。

「草壁も姪娘や阿陪の前で恥ずかしくないよう着替えていらっしゃい」

「お父様には……」

「私が話しておきましょう。蘇我の本家にも遣いを出しておきます。柿本臣や藤原臣に命じて婚礼の儀の準備をさせましょう。草壁は将来の天皇らしく堂々としていれば良いのですよ」

 すでに根回しは終わり、婚礼の準備も整っています。

 それにしても、自分から選んだと思い込ませなければいけないとは、男という生き物はめんどうなこと。柿本臣や藤原臣を舎人にしておいて良かった。私と志斐だけだったら、后を押しつけていました。

 讃良の「さあ」という催促に草壁は喜んで部屋を出て行った。

 親の手のひらで踊らされているとは思っていないでしょう。草壁は、まだ子供なのです。

 讃良は「くすっ」と笑う。

 私は、お父様の「行け」という言葉だけで大海人様の后にならざるを得なかった。十三歳の何も分からない娘のとき。四人目の后として……。

 好きな娘と一緒になれる草壁がうらやましい。

 私も相聞歌をやりとりするような恋がしたかった。


 志斐が阿陪皇女を連れて部屋に入ってきた。

 阿陪は草壁の薄紫の衣に合わせるように薄桃色の衣を着ている。金糸、銀糸はおろか染め柄さえない無地の衣は、衿元から裾に向かってゆっくりと色が濃くなっている。

 育ちの良さ故に背筋はしっかり伸びていて、腰まで伸ばした黒髪は艶っぽく光っている。鳩胸で腰は締まっているが、お尻はやや大きい。

 清楚で、着飾らないところに、内面の堅実さと教養が表れてくる。うつむいて、はにかむ仕草もかわいらしい。

 阿陪は、讃良や草壁から少し離れたところに座ると、両手をついて挨拶した、

 かすかに香が漂ってくる。

 美人ではないが、控えめなところが草壁に合っている。

「離れたところに座ってないで、こちらへ来て草壁の横に並んでみなさい」

 薄紫と薄桃色の衣はよく似合うが、二人とも、ぎごちなく固まってしまった。

 初々しくてかわいらしい。二人が意識し合っていること伝わってきて、見ている方が恥ずかしい。

「草壁の后になってくれますか」

「草壁様は私にはもったいないお方です。私のような不作法な者でもよろしければ幸せに存じます」

 阿陪は再び両手をついて頭を下げた。

 讃良と志斐が笑みを漏らす。

「それでは決まりです。草壁のめんどうをよく見てやってください」

 阿陪は顔を上げ、横に座る草壁を見ると真っ赤になってしまった。

 草壁はすました顔をしているが、心の内は小躍りしたいほど喜んでいるはずです。草壁に后を迎えることができて、母親としての務めを果たすことができました。阿陪ならば、年齢も血筋も草壁の妃に申し分ない。でも、草壁を阿陪にとられるような気がするのはなぜでしょう。男の子とはいえ、子供が手元から離れてゆくのが寂しい。

「阿陪皇女様はお琴をよくなさるようです」

 志斐の声に采女が琴を持ってきた。

 阿陪が弾く琴の調べがさわやかな風に乗る。

 弾き終わって阿陪は頭を下げた。

「騒がしゅうございました」

「上手な琴でしたね」

 草壁が「はい」と答えた。

「感じ入って聞いていたのですから、もっと褒めておやりなさい」

 草壁は頭をかいて笑う。

 琴が下げられ、代わりに麩菓子ふかしと白湯が出された。白湯の中で、塩漬けの桜の花びらがゆっくりと開いてゆく。

 ほんのりとした甘みの菓子に、塩気のある白湯が良く似合う。

「阿陪にお祝いの品を上げましょう」

 志斐が畳んだ衣を阿陪皇女の前に置いた。

「贈り物を広げることは作法に反しますが、今日は内々の話ですから、衣を持って立ち上がってみてくれませんか」

 阿陪は一礼してから、衣を持って両手を水平に広げた。水色から赤紫に変わってゆく生地に、川の流れのように、白い梅の花が抜いてある。細かな花模様が上品さを醸し出し、所々に使われた金糸が豪華さを演出する。

 讃良と草壁、志斐は同時に「おお」と声を出した。

 若い娘に華やかな衣を着させると美しく立派に見えます。草壁も気に入ってくれたようです。

「よいですか、草壁は将来天皇になります。草壁が天皇になれば、あなたは皇后です。しっかりとそのときに備えておきなさい」

 阿陪は小さな声で「承知しました」と答えた。

「婚礼の儀については私の方で手配します。私や志斐がいては話もできないでしょうから、二人で草壁の部屋にでも行ってらっしゃい。そうですね、婚礼の儀が終わったら二人の屋敷を持たねばなりません。岡の地に良いところがありますから、今から手配させましょう」

 草壁と阿陪が退出すると、志斐が顔いっぱいに笑顔をためていた。

「ようございました。初々しい二人を見ていますと、自分の事のようにうれしゅうございます。私も若返った気分です」

「后が決まって良かったです。でも阿陪はずいぶんと緊張してましたね。私、怖かったかしら」

「姑様の前ですから」

 志斐のコロコロ笑う声につられて讃良も微笑んだ。

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