十市皇女急死

 大海人天皇は四月七日に倉橋の斎宮いつきのみやへ行幸し朝日遙拝することを決めた。斎宮で朝日を拝むためには、夜が明ける前に浄御原宮を出発しなければならない。

 雲が空を覆い、星がない夜は吸い込まれるように暗い。山の稜線は暗い空に溶けていて見えず、夜半まで鳴いていた鹿も気配をなくし、飛鳥のむらは浄御原宮を除いて静まりかえっている。

 浄御原宮は松明が灯され、巡行の準備に人がせわしく動き回り、炊事の白い煙が、黒い闇の中をまっすぐに上っていた。

 讃良は、仮眠後の眠い頭で采女たちに手伝われながら出発の準備をしていた。

「草壁は起きましたか」

「皇子様は先ほど顔を洗っていらっしゃいました」

「澄んだ空気の中で、お日様を拝むとすがすがしい気分になりますが、眠いのが如何ともしがたいです」

 巡行や遙拝は、群臣まえつきみたちに草壁が大海人様の後継ぎであることを示す良い機会です。錦の衣を着て大海人様の後に従う草壁を、皇族や群臣、下々の者に見せ、誰が後継ぎであるかを印象づけてゆくのです。

「今日の天気はどうでしょうか。晴れてお日様が出てくれればよいのですが」

 采女が答えようとしたときに、志斐が息を切らせて部屋に入ってきた。

「皇后様。一大事です」

 志斐は次の言葉が出ない。両手を広げて深呼吸をした。

「十市皇女様が自害なさいました」

「十市が?」

 讃良が部屋を出て走り出すと、志斐や采女が従った。

 燭は灯してあるが廊下は暗くてよく見えない。

 十市皇女の部屋の前では幾つもの影がうろたえていた。

「何があったのです」

 讃良の言葉に、影たちは一斉に振り向いて立て膝になった。

「十市皇女様が、お部屋で亡くなられています。おそらく自害されたものと……」

 舎人たちは壁に退いて、廊下の真ん中をあけた。讃良が志斐を連れて入った十市の部屋は暗くて静かで冷たかった。

 部屋の中に動く物はなく、焚かれた香に、かすかに血のにおいが混じっている。

 讃良は采女に燭を持ってくるように命じた。

 燭に照らされて、部屋の中央に倒れている小さな黒い影と、両脇で立て膝になって見分しているらしい大きな二つの影が見えてきた。

「お前たちは」

「私は十市皇女とおちのひめみこ様の元で舎人をしております柿本人麻呂かきのもとひとまろと申します。こちらは同じく藤原不比等ふじわらふひと殿です」

「何があったのです」

 人麻呂は深く頭を下げる。

皇女ひめ様が御自害なされました。胸を短刀で突かれたようですが、深く刺すことができなかったようで、床に倒れ込み、お体の重みを使って刀を……」

 うつぶせになった体の下には赤黒い血だまりができていた。

「誰かの仕業ではありませんか」

「ご覧のように部屋の中はきちんと整えられています。布団はたたまれ、香が焚かれています。皇女様に争ったような跡はありません」

「ここから見える限りではありますが、短刀も皇女様の守り刀です」

「十市に何があったのです」

「皇女様は、このところ深くお悩みでした。有馬で湯治をおすすめしていた矢先に……」

 二人は同時に肩を落とした。

「高市のことですか」

 二人は首を縦に振る。

 高市は私が注意しても十市のもとに来ていたのか。もっときつく注意しておけば良かった。

 十市は大友が死んでからも大友のことを思い続けていた。生きて高市に身を任せるよりも、死んで大友と一つになる道を選んだのです。うわべだけの関係しかない私と大海人様の関係とは違う。大友を想う十市の気持ちがうらやましい。

 十市の頬は土色で唇にも生気がなく動く気配もない。

 葛野は?

 葛野はまだ十歳。一人では生きてゆけない。親がめんどうを見てやらないと何もできない年頃です。熱を出したときに誰が看病するというのでしょうか。誰が礼儀や生き方を教えてやるというのでしょうか。十市は死ぬときに残される葛野の事を考えたのでしょうか。

 ひとりぼっちになって悲しむ葛野。大人の間で右往左往する葛野。頼る人がいなくなって泣いている葛野を十市は想像したのでしょうか。

 大友を想い続ける心はうらやましいが、子供を残して死んでゆく十市の心は理解できません。私なら、仇に体を奪われようとも草壁のために生きる道を選びます。草壁のためならば仇だって利用してみせる。

 廊下が一斉にざわついた。「何事です」という讃良の問いに、

「葛野皇子様がおいでになりました」

 と采女の一人が答えてくれた。

「葛野のような小さい子供に、血だまりに倒れる親を見せてはなりません。柿本臣かきのもとのおみは葛野を連れて行きなさい。十市をきれいな体にしてもがりの準備が整うまで葛野を遠ざけておきなさい」

 人麻呂は、「はっ」と短く答えて部屋から出て行く。人麻呂の影がうつぶせに倒れている十市を横切る。

藤原臣ふじわらのおみは、大海人様に事の次第を報告してきなさい。そして今日の斎宮行きを取りやめるように進言しなさい」

 十市の体はピクリとも動かず、ときおり揺れる燭の光が血だまりに反射する。

 廊下から「キャー」という大きな声が聞こえてきた。

「今度はなんですか」

 廊下に顔を向けると、暗闇から高市皇子が現れてきた。

「何をしに来たのですか」

 讃良のきつい口調に高市がひるむ。

「十市が死んだと聞きました。この目で確かめるまでは信じられない」

 部屋の中に入ろうとする高市を、讃良は右手を横にあげて制止した。

「何をされるか」

「あなたが、何をしたのかです。十市がなぜ死ななければならなかったのか。あなたは分かっているのですか」

「俺が十市を殺したとでも言うのですか。俺は何もしていない。ただ……」

「ただ、何ですか」

 高市は、血だまりにうつぶせている十市を見て棒立ちになった。

「嫌がる十市を自分のものにしようとしたのではないですか」

「それは……」

「あなたは十市の夫であった大友を殺した」

「俺が殺したんじゃない」

「瀬田橋の戦いで総大将を勤めたでしょう。十市は夫の仇であるあなたが許せなかったのです。言い寄られてどうしようもなくなった十市は、死んであなたから逃げ、大友の元へ行ったのです」

「瀬田橋の戦いなど六年も前のこと」

「六年しか経っていないのです。問答無用。高市は下がって、自分の屋敷で沙汰があるまで謹慎していなさい。藤原臣は舎人と一緒に高市皇子を送りなさい。大海人様には私から話をします」

 高市は讃良の腕をはねのけて、十市の元へ行こうとした。

「高市!」

 讃良の大きな声に高市は立ち止まる。

 すかさず、不比等と二人の舎人が高市を部屋から押しだす。

 讃良は成り行きを見ていた舎人や采女に指示を出してゆく。

 十市は仰向けにされ、持ち込まれた戸板に乗せられた。うつ伏せになったときについた血が、きれいな顔を汚していた。衣も血で真っ赤に染まっている。

 小さな体が讃良の前を通り過ぎてゆく。水を汲んだ桶を采女たちが持ち込み、汚れた床を拭き始めた。

 今頃、葛野は柿本臣から母親の死について聞かされているだろう。幼い葛野は母親の自殺をどのように思うのでしょうか。大人たちの愛憎を理解できる年ではないのに……。両親を失って一人ぼっちになってしまった葛野が不憫です。

 仇に体を許すくらいなら死を選ぶ。私には考えもおよばない一途な想いですが、私は絶対に草壁を一人にしません。何をされても、どんなことをして草壁のために生きます。

 一番鶏が数回鳴き、人の顔が分かる明るさになった。

 朝焼け……。十市の血の色に似ている。

 大海人様に報告しなければなりません。

 讃良はため息をついた。

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