吉野の盟約

十市皇女

 六七八年三月十日。春になったとはいえ朝の廊下は冷たく、一足ごとに目が覚めてゆく。空から鳶のかん高い声が、地からは歌を習い始めた鶯の声が聞こえてきた。

 讃良が鶯を探して中庭の角に目をやると、梅の古木は花を落とし、横の桃の木が薄紅色の蕾を用意していた。

「皇后になってから五年たち、皇后としての職務にもようやく慣れました。新年の儀に始まり、節句、田植えの儀、虫追い祭り、雨乞い、などなど、想っていた以上に大変です」

 讃良に後ろに従っていた志斐が答える。

「天皇様は、皇后様がまつりごとを手伝ってくれるので、大助かりだと喜んでいらっしゃいます。大王おおきみ様と大后おおさき様が一緒に政を行うのが倭国の伝統ですから、皇后様は十分に役割を果たしていらっしゃいます」

「私が政を手伝うから、大海人様は余った時間で女を召し上がるのです。新田部にいたべ大江おおえまで后にしてしまった。若い女にばかりうつつを抜かして、私のことを顧みてくださいません。私は大海人様の皇后と言うよりも、左大臣ひだりのおおおみです」

皇女ひめみこ様は嫁ぎ相手が難しいですから、大海人様も考えあってのことでしょう」

 新田部や大江は私の異母姉妹いもうと。私の方がずっと年上だから私の地位を脅かすことはないでしょうが、二人とも母親の血筋がよいから、皇子が生まれれば草壁の地位を脅かすかもしれません。草壁を天皇にする道筋を確実にするために、大海人様には後継者を誰か明らかにしてもらう必要があります。

「風は冷とうございますが、お日様にあたっていると気持ちよくなって、難波津の歌が出てきますね」

 志斐の言葉に、讃良は歌を詠じた。

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

 早春に咲いた梅の花はすでに終わっている。私の「女」と同じように。

 十三で大海人様の元に来たときには、難波津の歌で手習いをしていた。あの頃の私はまだ蕾だった。

 私は三四になり、花の時期が過ぎた梅の木で、新田部や大江がこれから咲く桃の木に違いない。

 讃良が中庭に降りようとしたとき、廊下の隅の部屋から、短く「イヤ!」という声が聞こえた。讃良と志斐は顔を見合わせると、声が出てきた部屋に急いだ。

 部屋の中では、高市皇子が十市皇女とおちのひめみこの手首を握っていた。十市皇女は高市皇子を払いのけようとしているらしい。

「高市は何をしているのですか。十市が嫌がっているではないですか。手を離しなさい」

 高市は手をほどき、讃良に向き直って頭を下げる。十市は両手をついて頭を下げた。

「二人で何をしているのですか。おっしゃいなさい」

「これは……」

 高市がしどろもどろな弁解をしている間、十市は下を向いて黙っていた。

「よろしいです。このことは誰にも言いませんから、高市はさっさと部屋を出て行きなさい」

 讃良に叱られて高市はしぶしぶ立ち上がり部屋を後にした。讃良と志斐は十市の前に座る。

「何があったのです」

 十市は黙ったまま下を向いて答えようとしない。

 讃良の再三の問いに、十市が小さく答えた。

「この一、二年、高市様から声を掛けられています。高市様のお心はありがたいのですが、私は大友様を裏切ることができません」

「高市が十市を后にしたいと?」

 十市は首を縦に振る。

 十市は二五歳で高市と同年代。子を産んでいるとはいえ、娘の面影を残し、かわいくて気立ても良い。大海人様と額田皇女ぬかたのひめみこ様の子供だから血筋もいい。私が男ならば相聞歌の一つも贈りたくなる申し分のない娘です。壬申の乱の功労者で、何事も遠慮する必要がない高市が后にしたいというのは分かる気がする。

 しかし、男の理屈です。

 志斐も「いかがなものか」という顔をしている。

 高市は壬申の乱で、十市の夫である大友を討ち取ったときの将軍。いわば、十市の仇ではないですか。壬申の乱が終わってまだ六年しかたっていない。十市は幼い自分の子供を見ては大友を思い出し、他の男と恋することなどできないのでしょう。まして仇に身をゆだねることなどもってのほか。察して余りあります。

 高市は十市のことを戦利品と思っているのでしょうか。十市にしてみれば、未だ許すことができない仇なのに。他の女なら知らず、十市に関しては高市の傲慢です。女の気持ちを男の理屈で折ることなど許されません。

 高市には后として御名部と但馬がいて、子供も何人かいたはず。二人も后がいながら、さらにもう一人后にしたいというのでしょうか。男という生き物は気が多いことか。

 そういえば、大海人様は、壬申の乱が終わってからも次々と若い女に手を付けているし、氏族から献上された娘は鷹揚に受け取っていらっしゃる。子供を生ませた女だけで十人。子供の数は…… よく分からない。お父様も、子供のいる后だけで指折り数えて九人。高市も大海人様の血を受け継いでいる。大王家の男どもは女にだらしがないから困ったものです。

「迷惑していると」

 十市は小さく肯いた。

 讃良は「ふっ」とため息をつく。

「十市は大友のことをまだ愛おしく思っているのですね」

 十市は下を向いたまま「はい」と小さく答えた。

 はにかんだ答えがかわいい。

「高市には私からよく注意しておきます」

 大友が死んでから六年。声も聞かず肌も合わせることもないのに、なんという一途な想いなのでしょうか。私は大海人様に十市のような想いを抱いたことがないので、十市と大友の仲が羨ましい。

 お父様が大友の才能を愛し、大海人様に引き継ぐ大王の位を、無理筋で大友に与えようとなさったからいくさが起きた。倭国を二分する戦で大友は死に、十市と子供の葛野かどのが残された。順番を乱さねば、大友も十市も皇族として仲むつまじく暮らせたろう。十市と葛野は敵の大将の后と息子として浄御原宮では肩身が狭い思いをしている上に、仇に言い寄られている。罪作りな男たちです。

「ときに、葛野は元気ですか」

 十市は顔を上げ、笑顔を見せた。

「十歳になりました。元気すぎて困っています」

 十歳頃なら母親の後をうるさいくらいに追い回す時期です。草壁も大きな声を上げて私について回っていました。静かにしていてくれと思うときもありましたが、自分に付いてきてくれることが、かわいくて楽しかった。

 十市も私と同じで子供が生き甲斐なのです。

「男の子なら遊び盛り、やんちゃし放題でしょう」

「それはもう、手を焼いて手を焼いて……」

 十市は葛野のことをうれしそうに話しだした。

 壬申の乱では敵味方と分かれていました、男の起こす争いなど関係ありません。同じ女として、子を思う母として十市の力になってやりたい。

 讃良は十市の話を遮る。

「これからも高市に言い寄られて迷惑するようなら、私に言いなさい。きっと力になります。葛野は草壁の弟と思ってめんどうを見ましょう」

 十市の「ありがとうございます」という声を聞きながら、讃良と志斐は部屋を出た。

 廊下はあいかわらずひんやりとして冷たい。雌を求める鶯の声がうるさい。

「男衆は女子おなごの気持ちを分かっていなくて困ったものです」

 志斐の言うとおりです。お父様や大海人様は女の気持ちを全く分かっていない。

 草壁を、女にだらしない男にしてはいけない。草壁には天皇になっても、地位や権威に思い上がって多くの女を侍らせるのではなく、一人の女だけをかわいがり、子供を一緒に育てる幸せな人生をおくって欲しい。

「今度、高市が十市を困らせるようなことがあればきつく懲らしめてやりましょう」

 志斐は「ごもっともです」と同意してくれた。

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