大海人天皇即位
六七三年二月二七日。大海人皇子は
大海人の即位を祝うように、青い空には雲一つない。中天に上った太陽は暖かい光を浄御原宮に注いでいるが、早春の風はまだ冷たい。清純な風に吹かれて、思わず襟元をギュッと締めると、緊張感が体中に満ちてきた。
盛装をした讃良は、草壁の部屋に入った。草壁は采女に手伝われて、慣れない衣冠と格闘していた。
「いままでは
草壁は手を休めて讃良を見て首をかしげる。
「お父様は、戦で世の中が変わったことを皆に示すために、大王という称号を天皇に変えます。普段は天皇様とお呼びしますが、今日のような儀式の際には、
「
「大王を天皇と変えるのに合わせて、大后も皇后と呼ぶようにするのだそうです。国の名前も
草壁は「はい」と切れよく答える。
「草壁は、お父様の子供の中で一番年上ですから、お父様とお母さんと一緒に即位式に出るのですよ」
「えーっと。
讃良は中腰になって草壁の冠を直してやる。
「子供の序列は、お母さんの身分によって決まります。十市と大伯は女ですし、高市の母親は筑紫の氏族の娘です。お母さまは大王の娘ですから草壁が一番になるのです」
草壁は「わからない」という顔をして、首を横に傾ける。
「せっかく直した冠がずれちゃいますから、しっかりと前を向いていなさい」
草壁の両腕を水平にあげさせ、帯紐をきつく締める。後ろを向かせて、背中や腰の衣のしわを直す。
前に向き直させ、肩から腰に掛けて両手で優しく叩いてゆく。
新調した水色の衣に身を包み、冠を付けた姿はどこへ出しても恥ずかしくない。大海人様の横に立つ草壁を見れば、群臣たちは後継ぎが誰か納得するはずです。
若々しさがはじけるようで、見ていてすがすがしい。例えるならば、瀬を跳ね上がる若鮎だ。子供だと思っていたが、背丈は自分と変わらないくらいになっている。それでも、小さく見えるのは、どうしてだろう。
「冠が曲がっちゃいましたね。あごを、うーっとして」
緩くなっていた紐を直してやる。
「大王様は、群臣会議を開いて決めるのだって、お祖父様がいってましたが、お父様が即位なさるのに群臣会議は開かなくて良いのですか」
「お父様は戦に勝ちましたから、即位に反対する人はいません」
わずかな手勢で吉野を脱出し、圧倒的に優勢な大友を倒した大海人は「神」と歌われるほどの権威となっていた。
志斐が部屋に入ってきた。
「まあ、皇子様はご立派なお姿で。お母様もお喜びでしょう。志斐がお世話した甲斐があるというものです」
母の贔屓目ではない。志斐も草壁を立派な
志斐は洗い立ての一張羅を着て、髪をきれいにまとめ、椿油を塗っていた。衣からはかすかに焚きこんだ香が漂ってくる。
私は吉野や桑名の暮らしに馴染んで、お洒落することを忘れてしまった。志斐は群臣たちの前に出るわけではないのに、歌会の主賓のようにお洒落をしている。年を取っても女を忘れていない志斐に比べて私はなんということか。
私は、上等な絹の衣に錦の冠を身につけ、倭のどんな
大海人様に女として相手されない日が続き、女の力を失ってしまったのでしょうか。
「皆様がおそろいです。お出まし願います」
采女が呼びに来た。
草壁は口をきっちり結び体をこわばらせた。
私には草壁がいる。
女として相手にされなくても、私が腹を痛めて生んだ草壁がいる。私は母として草壁のために生き、草壁を必ず次の天皇にしてみせましょう。
部屋を出ると、まぶしい太陽の光に包まれた。
天照大神様のご加護の中、大海人様は即位され私は皇后になるのです。そして、草壁は
中庭を見下ろす
大海人皇子は遅れてきた草壁を見て満足そうに言う。
「草壁も盛装すると大人びて見える。早く大きくなって儂の政を手伝ってくれ」
「即位式に並ぶのは草壁だけではなかったのですか」
「皆、等しく儂の子供だ。並べてみると将来が楽しみだ」
大海人は笑みを崩さない。
高市や忍壁は田舎氏族の娘の子供。どうして晴れの即位式に並ぶことができるのでしょうか。姉様の子供の大伯と大津が大殿に出ることはしかたがないとしても、草壁は大兄として他の子供よりも一段上の扱いを受けるべきです。
子供たち全員に同じ冠を付けさせたら、年長の高市が大兄に見えてしまうじゃないですか。
遅れて
大海人は「遅いぞ」とうれしそうに二人に声をかける。
子供だけではなく、私以外の后も大殿に並ばせるのでしょうか。
氷上娘はともかく、宍戸娘にまで繍の衣に錦の冠とは、まるで大王家の人間のようではないですか。
若いから、かわいい顔立ちをしているから大殿に並ばせるというのですか。即位式は、大海人様が天皇、私が皇后、草壁が大兄になることを群臣たちに認めさせる儀式なのに。他の者は必要ないはずです。大海人様は何をお考えなのですか。
「儂の家族がそろったところで、群臣たちの前に出よう。即位の大礼を始める」
大海人は振り向くと大殿に向かって歩き出した。
大海人を中心に后と子供が横一列に並ぶ。讃良は高市の横に立った草壁の肩を引っ張って、大海人と讃良の間に立たせた。
浄御原宮の中庭で待っていた者たちは一斉に立ち上がる。
群臣たちは冠位に応じて定められている色の服を着て並んでいる。深紫、浅紫、真緋、深縹、緑、黒とよく手入れされた花壇のように見える。右手には新羅の使者の一団が新羅の盛装で並び、左手には百済と高句麗にゆかりのある者たちが、それぞれの衣装を着ている。宮を囲む塀には、所狭しと旗や幟が上げられていて、大きな吹き流しが空を泳いでいる。快晴の空から降り注ぐ陽の光が心地よく体を温めてくれる。
ゆっくりと中庭を見渡しながら、深呼吸すると、清らかな空気に体が満たされた。
皇后になるという実感が湧いてきました。
笙の音が儀式の始まりを告げると、群臣の中から、
群臣たちは高市麻呂に合わせて、二礼二拍一礼する。
高市麻呂が下がると、替わって朴井雄君が進み出て、祝詞を読み始めた。
倭国の首長連合の長という性質を持っていた大王は、壬申の乱をへて、絶対的な権力を持つ日本国の天皇に変わった。
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