桑名評家
大海人皇子が六月二四日に吉野を脱出したことに始まる壬申の乱は、近江路、倭、河内で一進一退の戦闘が繰り広げられ、一ヶ月後の七月二七日、近江朝の大友皇子が
桑名評家には、讃良たちの滞在のために急ごしらえで屋敷が建てられていた。
切り出したばかりの木の香りに潮の匂いが絡み合う。太陽の光はまぶしいが、潮風が秋の気配を運んできていた。
大王家の人間が滞在するので、桑名の漁師たちは海の幸を、農夫は取れたての野菜を毎日届けてくれた。多くの人の出入りを当て込んで、評家の前には市が開かれ日に日に賑わいをましてきた。
讃良が縁側に立つと、浜辺から威勢の良いかけ声が聞こえ、大小の船が、河口を上り下りしているのがよく見えた。
同じ海でも
背後に鈴鹿山脈を、全面に伊勢湾を望む桑名は、谷間の吉野とは違って開放的である。評家の庭には野菜畑があって、数羽の鶏が遊んでいた。掃き清められた大津宮や吉野宮とは雰囲気が全然違う。
大人たちの騒ぎ声に混じって、近くに住んでいる子供たちの歓声が、塀の外を駆け抜けていった。
なごやかな桑名にいると戦をやっていたということが実感できない。
吉野を出たときには不安でいっぱいだったけれども、草壁や大津が危ない目に遭わずにすんで良かった。
縁側から部屋をのぞくと、草壁と大津が並んで手習いをしていた。
「
草壁は「はい」と屈託のない笑顔を返し、大津は練習に使っている木簡を見せてくれた。
桑名へ来たときは不安そうだったのに、今ではすっかり桑名の暮らしになじんでいる。私がまだ潮の匂いや海の音にとまどっているのに子供たちは慣れが早い。
「千字文の次の手習いは論語ですから頑張りなさい。桑名では
草壁と大津は「ええっ」と顔をしかめる。
「草壁は将来、大王様になるのです。大王様なら読み書きはもちろん、新羅や唐国の使者とも会わねばなりませんし、祭りで歌を披露しなくてはなりません。草壁が大きくなるまでに、学んでおかなければならないことはいっぱいあります」
大津が草壁を指さして笑う。
「大津も笑っていてはいけません。お父様の朝廷で働くには、読み書き算術はもちろん、馬術や舞踊、和歌や漢詩も人並み以上にできなければなりません。草壁も大津も、お父様の血を受け継いだ、できる子ですからがんばりなさい」
讃良が草壁と大津の頭をなでると、二人は笑顔になった。
小さな子供は誉めてやると、調子に乗ってどんどん伸びていってくれる。二人の将来が楽しみです。
「耳の掃除をしてあげましょう。私の膝の上に頭をのせて」
讃良の膝の上に、草壁は寝転んで頭をのせた。
「じっとしてて、動かないでね」
生まれたときは抱きかかえられるくらい小さかったのに、いつのまにか私より大きくなろうとしている。
しかし、まだまだ子供。丸い顔に、大きな目、華奢な手足。私が守ってあげなければならない。そして、大王に育て上げなければならない。
「さあ、お耳の掃除は終わりましたよ」
讃良が草壁の耳に「ふっ」と息を吹きかけると、草壁は「くすぐったい」と首をすくめる。
草壁は起き上がると、トントンと頭を叩いた。
「次は大津が来て」
大津もうれしそうに讃良の膝に頭を載せる。
死んだ姉様にも大きくなった大津を見せてやりたい。体が大きくなってきたとはいえ、まだまだ子供。草壁と同じで親に甘えたい年頃だ。
「まだ昼ですから、手習いが終わったら近くの子供を連れて遊んできなさい」
「分かりました叔母様! さっそく馬術の稽古をしてきます。なっ。草壁も一緒にやろう」
讃良の「手習いを終えてからですよ}という声を聞かずに、大津は草壁の手を引っ張って部屋を出て行った。
やれやれ、二人とも後片付けもせずに行ってしまった。しっかりと躾なければならない。
机の上の木簡を手に取った。
二人共に拙い字だ。草壁の字はこぢんまりしているが、きちんと整列させ、同じ大きさで書こうとしている。大津の字は、大きさが不揃いで縦の線も揃っていないが力が感じられる。同じように見える二人でも、少しずつ違ってきているのでしょうか。
二人には馬術や舞踊、音曲も習わせてあげたが、桑名のような田舎では良い人がいない。戦が終わったのだから、早く倭に帰りたい。
蝉の声はうるさく響いてくるが、秋を感じさせる風が開け放した扉から入ってくる。
草壁たちと入れ替わりに志斐がきた。
「瓜をお持ちしました。近くに住む
「遊びに行っちゃいました」
「仲の良いご
志斐は皿に盛られた瓜を讃良の前に置き、箸をとってくれた。
みずみずしい瓜が、甘い匂いを漂わせる。
あとで、草壁と大津にも食べさせてあげよう。
讃良は瓜を口に運んでため息をつく。
「大海人様は野上行宮へ行ったきり便りも寄こして下さいません。戦の様子は村国連から、戦捷の知らせは朴井連から来ましたが、大海人様からは何もありませんでした。大海人様は私や草壁のことをなんとお考えなのかしら」
「便りがないのは良い知らせと言います。大海人皇子様は戦の後始末でお忙しいのでしょう」
「そうでしょうか…… きっと不破や美濃の氏族から差し出される女にうつつを抜かしているんです」
吉野では毎日のように私の閨に来てくださったのに、女に不自由しなければ私などお払い箱だなんて悲しすぎる。
確かに私の器量は十人並み。二七になり娘のような若々しさはない。それでも大海人様の第一后なのです。一度くらいは野上に呼んでくれても罪はない。
山に囲まれた吉野は、退屈で貧相な暮らしだったが、大海人様と親密に過ごした日々が懐かしい。
讃良は志斐に瓜を勧める。志斐は「ご相伴にあずかります」と言って箸を付けた。
大海人様のことを考えると、ため息しか出ない。
「殿方は気が多い生き物なのです。特に女房がいないところで羽目を外したがるのです。私も夫を問い詰めたことがありますが、浮気しているときのゾクゾク感がたまらなくいいんだ、なんてシャアシャアと言いましたから、怒るよりもあきれちゃいました」
大海人様の場合は女が献上されるのだから、据え膳食わぬは恥とばかりに、おいしくいただいているのでしょう。お父様も女好きだったし、兄弟揃って女にだらしない。
草壁を、お父様や大海人様のように女を泣かせる男にしてはいけない。氏族から女が献上される年頃になったら、私がしっかり面倒を見なければいけない。
「私は薹が立つ年ではないはずですが」
「殿方は、青い実よりも熟した実の方がおいしいって知らないんでございますよ」
「私が熟してる?」
志斐は讃良を見ると大きな声でケラケラと笑った。志斐につられて讃良も笑う。
海鳥たちは空と海の境を戯れながら飛び、風に吹かれて帆を大きくふくらませた船が、海の上を滑るように河口へと向かった。空を覆っている絹雲が季節の移り変わりを教えてくれていた。
たとえ大海人様が私を召して下さらなくても、私は大海人様の第一后。他の女が手の届かない地位にいる。この地位を利用して、必ず草壁を大王にしてみせましょう。
大海人は壬申の乱が終わった一ヶ月後に乱の処分を発表する。敵対した近江朝の高官数人を死罪や流罪にした他はすべて赦免するという、一ヶ月に及んだ大乱としては非常に寛大な処分であった。
大海人から「倭に帰れ」という指示を受けた讃良は草壁と大津を連れて桑名を後にした。
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