朝日遙拝

 六月二四日に吉野を立った大海人の一団は、菟田評うだのこおり(奈良県宇陀町)を過ぎ、大野(奈良県宇陀市室生村大野)で日没となったが、そのまま進み、夜半に隠評なばりのこおり(三重県名張市)、伊賀評家いがのこおりのみやけを通り、翌二五日朝に莿萩野たらの(滋賀県甲賀市信楽町)に着く。休みを取りながら鈴鹿峠を越えて、鈴鹿評すずかのこおり(三重県鈴鹿市古厩)、三重評みえのこおり(三重県四日市市東坂部町)を通り、二六日の朝暗いうちに朝明評あさけのこおり(三重県三重郡朝日町縄生)に着いた。

 讃良は菟田評で揺れの激しい輿から馬に乗り換えていたが、二日間、昼夜を通しての強行な旅に体が悲鳴を上げていた。

 大海人の休憩の号令と共に、一団は止まった。

「皇女様、お顔の色が優れませんが」

 手綱を取る舎人に声をかけられるが、馬の上でぐったりしている讃良は答えることができなかった。

 半乾きの衣が体に張り付いて体温を奪い、海辺から漂ってくる潮の匂いで吐き出しそうになる。

 讃良は馬を下り、舎人が敷いた茣蓙ござの上に座り込むと、朴井雄君が暖をとるために火を持ってきてくれた。

「草壁は?」

「皇子様は元気でいらっしゃいます」

 雄君に付いてきた草壁は、「お母様、大丈夫ですか」と、のぞき込んできた。

 子供に心配されてしまった。負うた子に教わるとはこのことだ。

「お母さんは馬に揺られて少し気持ち悪くなりましたが、草壁は大丈夫ですか」

 草壁は胸を叩いて「大丈夫です」と答える。

「もうじき采女が暖かいものと乾いた衣を持ってきましょう。大海人皇子様の元には各地の氏族が馳せ参じております。皇女様もご安心ください」

 人々のざわめきや鎧がこすれる音が聞こえてくる。震えが止まらない体で辺りを見回した。

 鎧を着込んだ兵は五百を越えているであろうか。馬も三十を下らない数がいるらしい。

「草壁もよく見ておきなさい。わずか三十人足らずで吉野を出たのに、二日も経たないうちに大軍団になりました。大王様になる人の元には人が集まるのです」

 讃良が茣蓙に横になろうとしたときに、采女が寄ってきた。

「大海人皇子様が日の出に合わせてあまてらすおおみかみ様を遙拝する儀を行われるそうです。迹太川とおかわまでいらして下さい」

 よろけて立ち上がった讃良は采女に支えられる。

「皇女様はお顔の色が大変優れません。大海人皇子様に、皇女様が遙拝の儀に出られないと知らせてきましょうか」

「お母様……」

 草壁が不安そうな目で見つめてくる。

 草壁に心配を掛けさせてはいけない。

 休憩で張りつめていた気を緩ませたからよろけたまでのこと。気力を振り絞れば頑張れる。

「心配ありません。大海人様が天照大神様を拝まれるのであれば、后の私も一緒に戦の必勝を祈りましょう。朴井連えのいのむらじは遙拝の前に、草壁に暖かいものを食べさせてやってください」

「お母様」

「心配いりません。輿に揺られていたときの疲れが残っていただけです。もう大丈夫。朴井連に暖かいものを食べさせてもらって、お父様と一緒に朝日を拝みましょう」

 草壁は雄君に連れられていく。讃良は采女に体を支えられながら、川岸に設けられた祭壇まで、ゆっくりと歩いた。

 大海人皇子は遙拝の準備に忙しいらしく、讃良をちらりと見ただけで、声も掛けてこない。讃良は大海人に挨拶すると、舎人が用意してくれた床几に腰を下ろした。

「大海人様の隣にいる鎧を着た武人は、高市たけちですか」

 讃良は白湯を持ってきた采女に聞いた。

「高市皇子様は昨日、積殖つむえからご一緒です。大津宮をお出になり、鹿深かふかの山を越えられて来たそうです」

 高市が一緒になっていたとは知らなかった。

朝明評家あさあけのこおりのみやけから衣を借りてきました。評家ゆえにみすぼらしいので申し訳ありませんが、濡れたままではお体に障ります。体を拭いて、お召し替えをお願いします。お脱ぎになった着物はすぐに火にあてます。日の出まで時間がありますので、遙拝までに乾くかもしれません」

 讃良は采女に連れられて、近くの粗末な小屋で着替えをした。

 讃良は、評家の下女が出してくれた粥を飲んで、一息つくと小屋の外に出た。

 真っ黒だった鈴鹿の山々が色を持ち始めた。不要になった松明が消されていく。讃良が下女に支えられて、大海人の元に着くと、朝日遙拝の準備はすっかり整っていた。

 東を向いた祭壇の前に、大海人と讃良が並んで立ち、二人の後ろに、高市皇子、草壁皇子、忍壁皇子が立つ。

 吉野から供をしてきた舎人と采女、参集した氏族と兵が祭壇から下がって並んだ。

 太陽が顔を出すと、神々しい光が空一面に広がり、蒼かった空は瞬く間に白くなる。川と海は日の光できらめき、人々の顔は輝いた。

 大海人が祝詞を上げ始めると、人々は一斉に頭を下げた。朝日と共に、祝詞が人々の間を通り抜けて平野に広がる。鳥や馬も鳴くのをやめて、大海人の祝詞を聞く。

 大海人が長い祝詞を終え、柏手を打って遙拝の儀は終わった。

 讃良は近くにあった床几に腰を下ろし、采女が差し出した手ぬぐいで油汗を拭いた。

 草壁が不安そうな顔をして寄ってきた。

「お母さんのことは心配しなくて良いですよ。遙拝の儀はすばらしかったでしょ」

「すっごくすばらしかったです。お父様は威厳があって、朝日は神様みたいで。お父様みたいに、すばらしい人にならなくっちゃって感動しました」

「お父様は今回の戦に勝って大王様になられます。草壁もお父様を見習って立派な大王になるんですよ」

 集まっている兵の後ろのほうで騒ぎが起こった。讃良が止めようとするより先に、草壁は走り出してゆき、すぐに戻ってきた。

「大津が来たようです」

 草壁の弾んだ声と同時に人垣が開き、大津皇子が五人の舎人を連れて現れた。

 大海人は大津を抱きしめる。

「良く無事でここまで来た。高市が追いついたのにお前が来ないので、捕らえられたのではないかと思っていた。夜通し歩いて疲れたろう。鈴鹿の峠は難儀したのではないか。高市に次いで大津を得たので、儂は何の憂いもなく戦ができる。朝日を遙拝した後に、大津に会えるとは、天照大神様の御加護があったからに違いない。我々は戦に勝てるぞ」

 大海人の涙声につられて、舎人や采女が泣き出した。

大分恵尺おおわけのえさかは近江までゆき、よく儂の命を実行してくれた。感謝する」

 大海人から肩に手を掛けられた恵尺は、声を震わせて感謝の意を述べた。大海人は大津の舎人全員に声を掛けて回る。

 私も近江に残してきた大津のことが気になっていたから、大津が無事で良かったと思うのだけれども、大海人様は、苦労して吉野から一緒に来た私や草壁には何も言って下さらないのに、なぜ、大津に涙されるのか。大海人様は草壁など眼中にないのでしょうか。草壁にも声をかけてやって欲しい。

 大海人は高市と草壁、忍壁を呼び寄せた。大海人を中心に四人の子供が兵や舎人の前に並ぶ。年かさの高市に比べ、草壁、大津、忍壁は子供じみて見える。

 大海人様は草壁のことも、ちゃんと気にして下さっていた。

 大海人は、右手を草壁の肩において、

桑名評家くわなのこおりのみやけを本営にし、近江に向けて兵を繰り出す!」

 と宣言した。兵たちは「オウ」と大ききな声で応えた。

 草壁も右手を高く上げて「オウ」と叫ぶ。

「さっそく高市は朴井連と兵二百を持って不破の道を塞いでくれ。村国連は湯邑へ行き、邑長と共に美濃国に集められている兵を我がものとせよ。残りは儂と一緒に桑名評家へ行く」

 安心したら、どっと疲れが出て、頭から血が引く。

 右手で口を押さえ前屈みになった讃良を采女が支えてくれた。

 草壁と大津が一緒に讃良の元に来た。

「叔母様。体の具合が良くないのですか」

「大津の無事な姿を見ることができたので力が湧いてきました。近江では怖い思いをしませんでしたか」

 大津は元気な声で「いいえ」と笑って答える。草壁も半年ぶりに大津に会えたのがうれしいのか、はしゃいでいる。

 大津が無事だったので姉様にも顔向けができる。

 半年見ないうちに大津は一回り大きくなったような気がする。草壁と大津は本当の兄弟のように、体格も顔つきも似てきいる。

「采女が朝餉を作ってくれます。二人で暖かいものを食べてきなさい」

 大津は「叔母様にも食べるものをもらってきてあげます」と明るい声を上げる。

 讃良が二人の頭をなでると、草壁と大津は照れくさそうな仕草をした。草壁の「行こう」という声に、二人は走り出した。

 子供は元気だ。なのに私は……

 激しい悪寒に讃良は座り込んでしまった。

 大海人は、桑名評家を拠点にする予定であったが、不破に行った高市の要請で、不破と目と鼻の先にある野上(岐阜県不破郡関ヶ原町野上)に行宮かりみや(仮宮)を作り本営とした。

 疲労で倒れた讃良と、戦では役に立ちそうもない草壁、大津、忍壁は桑名評家に残された。

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