吉野出立

 昼前に吉野宮を出発する準備が整った。

「これから山を越えて伊勢へ行きます。くれぐれもお父様とはぐれないようにしなさい」

 草壁は笑って「大丈夫です」と答える。

 この子は大丈夫かしら。花見や水遊びにでも出かけるつもりなのではないかしら。

 十一歳の子供であれば事の大きさがわかっていなくてもしかたがないかもしれないけれども緊張感がない。

「草履の緒はしっかり結びましょう」

 讃良は腰をかがめて、草壁の草履をきつく締める。

「お母さま痛い。烏皮履くりかわのくつではいけないの」

「履が山道で脱げてしまっては大変です。悪い道のときは、足にしっかり着く草履の方がいいんです。衣もしっかりと紐を締めて。山で凍えるといけないから、もう一枚羽織りましょうか」

「お母さま。もう六月も終わりですから、寒くないですよ。もう一枚着たら暑くてたまりません」

「空模様からすると今夜は雨になるかもしれません。濡れると冷えてしまいます」

「夜になっても、吉野宮へ戻ってこないのですか」

「美濃国は、吉野から二、三日行ったところにあります。もう吉野宮には戻ってきません」

「ええ! もう戻ってこないのですか」

「よいですか。これからお父様は戦を始めます。草壁は小さいので戦に出ることはありませんが、ここにいては危ない目に遭うかもしれません。お父様といっしょに、伊勢へ行くのです」

「お父様は戦に勝てるのですか」

「お父様は必ず勝ちます。草壁はお父様の長男で、将来は大王にならねばなりません。大王は群臣まえつきみの前で威厳を持って座っていなければなりませんから、不安な顔を皆に見せてはいけませんよ」

 草壁はコクリと肯く。

「皇女様、皇子様。おにぎりを作ってきました。召し上がって下さい。輿と馬の用意もできたようです」

 志斐は讃良と草壁に真っ白な握り飯を渡してくれた。草壁は握り飯にかぶりつく。

 讃良は草壁の手を引き吉野宮を出た。

「いよいよ出立ですね」

 大海人は東の空を見て「ああ」と空返事する。

「馬は二頭しかない。馬には草壁と忍壁おさかべを乗せる。お前は輿に乗れ。残りは歩きだ」

「草壁に馬を操って峠越えをさせるのですか」

「草壁と忍壁には、朴井雄君えのいのおきみ県犬養大伴あがたいぬかいのおおともを付ける」

 馬の手綱を取っていた雄君と大伴は、立て膝になって頭を下げる。

「大海人様はどうなさるのですか」

「儂は歩く」

「貴人が歩くものではありません。忍壁はまだ幼いですから力のある舎人に負わせて、大海人様が馬に乗って下さい」

「幼子につらい思いをさせるわけにはいかない。儂が歩く。早く出ないと雨が降りそうだ。ところで、懐剣は持っているか」

 讃良は首を横に振る。

「物見遊山の旅ではない。道中何が起こるか分からない。持ってろ」

 讃良は大海人が差し出した懐剣を受け取った。

 もしもの時は、この刀で自害せよと? 勝ち目がない戦だと言うのでしょうか。

 大海人と讃良のまわりに、二十人の舎人と十人の采女が集まってくる。

「大海人様。これだけですか」

 東の空を見ていた大海人は、再び「ああ」と空返事した。

「この人数では戦はできません。弓や槍を持っているのは三人だけではないですか。山賊にでも遭ったらひとたまりもありません」

「心配するな。途中で兵と合流する手はずになっている」

 大海人は「でも……」と続けようとする讃良を制して、「出発する」と号令を掛けた。

 讃良は雄君といっしょになって、草壁を馬に乗せる。

「馬は賢い生き物です。主人の心を敏感に感じ取ります。怖がってはいけません。草壁は馬の主人として堂々と手綱を握っていなさい」

 草壁は手綱を握ると、うれしそうに笑った。

 草壁は大丈夫なのでしょうか。急な坂道で馬から落ちてしまわないかしら。私と一緒に輿に乗った方が良いかもしれません。

「朴井連は草壁に怪我などさせないようしっかりと馬を牽きなさい」

「畏まりました。責任を持って皇子様のお供をします。大海人皇子様は、お発ちになるようですので、皇女様も輿にお乗り下さい」

 雄君は頭を下げると、草壁を抱きかかえるように、草壁の後ろに乗って手綱を取った。

「草壁に怪我などさせないように、くれぐれも申しつけます」

 雄君は「承知しました」と頭を下げて、手綱を打った。

 私の力の及ばないところで戦が始まってしまった。

 大津宮には権力と権威がある。多くの群臣をかかえ、兵を動かすことができるのに対して、大海人様の元には弱小氏族しかいない。

 徒手空拳の大海人様に付いてきたのは間違いだったかもしれません。吉野に残るわけにはいかないけれども、美濃国で展望が開けるのでしょうか。

 灰色の雲が空を覆い、湿った空気が吉野の谷を上ってくる。いずれ雨になるだろう。

 山の峰は東へ延びて終わりが見ず、大きな木々が茂る森には、道があるか定かではない。

 最悪の場合、私が身を挺して草壁を守る。大海人様に頂いた懐剣で……。

「皇女様も輿にお乗り下さい。大海人皇子様に遅れないように出発しましょう」

 舎人に促されて、讃良は輿に乗った。

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