朴井の知らせ

 朝の静寂を破って吉野の山に馬のいななきがこだまする。

「大海人皇子様はどちらにいらっしゃるか」

 男の大声に山鳩が驚いて飛び立つ。

 六七二年六月二四日早朝。大海人の命で美濃国へ行っていたはずの朴井雄君えのいのおきみが、吉野宮よしののみやに慌ただしく帰ってきた。

 雄君の大声に、大海人皇子は慌てて寝所から土間に出た。讃良も大海人の後に続く。

 雄君は大海人と讃良を見ると立て膝になって頭を下げた。

 雄君の衣には真新しい裂け目があり、髪は乱れ、顔には木の枝でひっぱたかれてできたみみず腫れが数本浮かんでいる。

「美濃国から急遽戻りました。美濃国、尾張国の国司は朝廷から命じられたとして人夫を集めておりますが、それぞれに武器を持たせています。表向きは、先の大王様の陵墓を造ることとなっていますが、墓を造るのに武器はいりません。武器を持たせる理由があるとすれば一つだけ。大海人様を討ち取るためでありましょう」

「儂たちの企てが漏れたというのか」

「私は不破の道を抜け、近江路を通ってきましたが、街道の要所に監視がいましたし、宇治橋では、美濃の安八磨評あんぱちまのこおりから来る大海人様の米や絹を止めていました。我々の企てが漏れたのかどうかは分かりませんが、大津宮が一手打とうとしていることは確かです」

「兄様が死んで、大友は気兼ねなく動けるようになったと言うことか。人夫の数はどのくらいだ」

「国司の配下に聞いたところ、美濃、尾張それぞれに一万人ずつとか。宇治橋の様子を見て事が切迫していることを悟り、急いで皇子様の元に来ました。企てを煮詰めている時間はありません。今すぐ美濃国へ出立願います」

「吉野は山に囲まれた狭いところ。二万もの兵でなくとも、百人の兵があれば制圧できる。大津宮は何を考えているのか」

 大海人皇子は深呼吸する。

 鳥の鳴き声が止んだ。

「朴井が言うように、先手をとられては儂たちに勝目はない。ただちに美濃国へ向かおう」

 早朝の馬の鳴き声を聞きつけて、村国男依むらくにのおより大分恵尺おおきたのえさから大海人の側近たちが駆けつけてきた。男依たちは雄君の後ろで立て膝になって頭を下げる。

「大津宮は儂をなきものにしようと動き出した。黙って死ぬわけにはいかない。村国連むらくにのむらじ和珥部臣わにべのおみ身気君むげのきみは今すぐ美濃国へ向かい、安八磨の多品治おおのほんじ湯邑ゆのむらの兵を集めるよう命ぜよ。美濃国の国司には儂の命だと言って不破の道を塞がせよ」

「不破の道を塞ぐのですか」

「美濃や尾張には儂に同心してくれる氏族が多数いる。大津宮からの命令を断ち、儂が美濃国に入ったときに、美濃や尾張で集めている兵をそっくりいただく」

「先ほど申し上げましたように、倭から宇治橋、近江路を抜ける道は監視の目があります。皇子様はどのようにして美濃国まで行くおつもりでしょうか」

「駅令を使おう。大分君おおわけのきみ黄書造きふみのみやつこ逢臣あうのおみは三人して倭の高坂王たかさかのおおきみのところへ行き、駅鈴を求めよ。駅鈴を使えば宿場の馬を使うことができるし、大手を振って街道を通ることができる。逢臣は駅鈴を借りることができたかどうか報告しに戻ってこい。大分君はそのまま大津宮へ行き、高市と大津に宮を抜け出し伊勢で落ち合うようにと伝えよ。黄書造は倭の大伴馬来田おおとものまぐた吹負ふけい兄弟に、儂が東国で挙兵するのに合わせ倭で兵を挙げよと伝えよ。準備万端とは言いがたいが戦を始める。皆、急げ」

 男依たちは一礼してから、土間を飛び出していった。

 大海人と讃良の後ろには、騒ぎを聞きつけて志斐や采女たちが集まっていた。

「お前も付いてくるのなら準備をせよ」

 言われなくとも大海人様について行きます。

 吉野には兵がいません。残されたら誰が草壁を守ってくれるというのでしょうか。

「戦に勝てるのですか。草壁は大丈夫でしょうか」

 大海人様が大津宮を出るときに、私は大海人様に草壁の将来を賭けた。草壁のためにも大海人様には戦に勝っていただかなければならない。

「付いてくるなら、つべこべ言わずに、子供や采女たちをまとめよ」

 閨を出るといつも素っ気ない。少しぐらい草壁のことを気遣って下さってもよいのに。

 大海人様は準備万端でないとおっしゃる。もし、戦に負けるようなことになったら、私や草壁はどうなるのでしょうか。

「大分君たちには、駅鈴を借りるよう言いつけたが、倭の高坂王は優柔不断だ。大津宮を気にして駅鈴を貸さないかもしれない。逆に儂らを拘束するかもしれない。駅鈴があったとしても、大津宮の目と鼻の先である宇治橋を通ることはできないだろう。伊賀、鈴鹿峠を越えて伊勢へ出て美濃国へ入る」

「山越えですか! 小さな草壁に山越えは無理です」

「宇治橋で捕まりたいのか。ついてこられなければ置いていくぞ」

 問答無用というわけですか。

 讃良は、控えていた志斐や采女たちに命じる。

「志斐は草壁を起こし山越えの準備をして。他の者たちは大海人様と私の手伝いを」

 讃良が采女たちに言い終わる前に、大海人皇子は奥へ引っ込んでしまった。

 いくさが始まってしまう。もし戦に負けたら、大海人様は殺される。大海人様に従う私や草壁は……。幼い草壁が殺されるようなことはないと思うのですが……。

 お父様は、古人皇子から娘の倭皇女やまとのひめみこをもらっていたにもかかわらず、古人皇子を殺した。軽大王様の息子であった有間も、左大臣ひだりのおおおみまで勤めた蘇我のお祖父さまも殺した。

 因果応報。

 お父様が殺した人の報いが私たちに回ってくる。草壁が大海人様や大友の争いに巻き込まれて殺されるようなことがあってたまるものですか。狭くて兵がいない吉野は、攻められればひとたまりもない。山越えでも何でもして吉野を抜け出さなければならない。

 東国へ行くのも不安ですが、十人程度の舎人と采女だけで伊賀の山道や鈴鹿峠を越えられるのでしょうか。

「皇女様。私たち年寄りには山越えができません。倭から近江路を回って伊勢に向かいとうございます」

「大海人様でさえ近江路は通れないというのに、志斐たちは大丈夫ですか」

「私のような年寄りを誰が気にしましょうか。物取りでさえ無視します。大回りになりますが大津宮の様子を探って皇子様にお知らせします」

 志斐はニッコリと笑う。

「よろしいでしょう。志斐たちは無理のないよう旅をしなさい。でも、先ずは私たちの出立の準備を」

 志斐たちは頭を下げると一斉に動き出した。

 山際から顔を出した太陽が吉野宮を照らしはじめる。あたりが明るくなると同時に、鳥や蝉が鳴き始め、宮の中も騒がしくなった。

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