近江宮退去

 六七一年、秋も深まって霜の便りも届く頃になった十月十七日早朝。大海人皇子は葛城大王から群臣会議に出るようにとの呼び出しを受けた。

「お父様の体の具合がすぐれないと聞きます。大友や五大官では頼りないので、大海人様に政を任せようというのでしょう」

 と、送り出した讃良は、戻ってきた大海人を見て目を見張った。

「大海人様、そのお姿はいったいどうされたのですか」

 会議から戻ってきた大海人は剃髪していた。短くなった髪の毛が寒々としている。

「仏門に入るのですか」

 大海人皇子は一言「そうだ」と、苦虫をつぶしたように答え、そのまま自室に向かおうとした。讃良は大海人の後ろに従っていた村国男依むらくにのおよりに事の次第を尋ねた。

 男依は立て膝になり頭を下げて讃良に答える。

大王おおきみ様は大海人皇子様に位を譲るとおっしゃいました」

「やっと大海人様の時代が来たのですね」

「お前は何もわかっちゃいない」

 大海人はいっそう不機嫌な顔をする。

「皇子様は、大王様の申し出が罠であることを察せられ、倭皇女やまとのひめみこ様を大王様に、補佐を大友皇子様にするように申し入れられ、自らは大王様の平癒を願うために仏門修行するとして、宮の仏殿にて法体になられたのです」

「お父様の具合が悪くて政に支障をきたすようなら、大海人様が大王を譲ってもらっても良いではないですか」

 大海人様が大王になれば、第一皇子の草壁が大海人様の次の大王に決定する。お父様が位を譲るとおっしゃるのならば、何を迷うことがあるのでしょうか。

皇女様ひめさま。単純な話ではありません。皇子様が大王の位を譲り受けることを承知すれば、大王様は謀反の疑いを掛けて、皇子様を処分するおつもりでした」

「お父様が、実の弟である大海人様を殺すのですか」

「政は時として非情です。高句麗が滅びたのは、国王をめぐる内紛に、唐国と新羅が付け入ったからです。百済や新羅でも国王が変わるごとに王室や臣下がぎくしゃくしています。我が国も例外ではなく、昔から何回も大王様の位をめぐって争ってきました。大王様は病を得て気弱になっていらっしゃいます。大友皇子様を太政大臣に就け五大官を補佐にして体制を固めたものの、大友皇子様を次の大王様と仰ぐことに不満を持つものたちが大海人皇子様を担ぐことを恐れているのです」

「お父様は、有間の変を繰り返そうとしているのですか」

「大王様はおおらかな方ですが、武断な面もお持ちです。乙巳いつしの変、古人皇子様の変、有間皇子様の変、蘇我石川麻呂様の謀反など大王様が仕掛けた事変は多くあります」

 大海人様が陥れられたら草壁はどうなるのですか。草壁は大王になるどころか、一生、大王家で日陰者扱いではないですか。悪くすれば一緒に殺されてしまう。

 しかし、大海人様が大王になれば、草壁にも大王への道が開ける。

「お父様と、お祖母様ばあさまは、軽大王かるのおおきみ様から強引に大王の位を奪いました。お父様が大海人様を陥れるつもりならば、力ずくでお父様に隠居していただき、大海人様が大王になっても良いでしょう。無実の大海人様を陥れることなど許されません」

「皇女様が言われることは謀反そのものです。滅多なことをおっしゃってはなりません。軽大王様から宝大王様に交代されたときには、葛城大王様の周到な用意がありました。いまの我らには何の用意もなく、兵を挙げれば、飛んで火にいる夏の虫のごとく潰されて終わりです」

「ならば、大海人皇子様はどうなさるおつもりですか」

「吉野へ行く」

「吉野?」

 倭の南。山奥の何もないところ。猿や鹿が家の近くまで下りてくるという辺鄙な土地。

 大海人様は山に引きこもって世捨て人になるつもりなのでしょうか。大海人様が大津宮を出てしまうのならば、私や草壁はどうすれば良いのでしょうか。

「今日の難儀は切り抜けたが、兄様はいつ儂を陥れようとするかもしれない。兄様の平癒を願って仏道修行をすると大見得を切った手前もある。吉野に籠もって政から身を退く」

「政から身を退いてしまったら、大海人様は大王になれないではないですか。吉野など行かずに、大津宮で再起を図ってください。でないと、草壁がかわいそうです」

 大海人は鼻で笑った。

「大津宮に儂の居場所はないのだ」

「草壁はどうするのですか。大海人様の大兄おおえ(王位継承権を持つ長子)なのですよ」

「草壁より儂の方が危ない。儂は生きている限り吉野に逃れても安全ではない」

「では、どうするのですか? 山奥の吉野で挙兵するつもりですか」

 村国男依と目が合うと、男依は肯いて返してきた。

 やはり、吉野行きは政から身を引くためではないということですか。

やまとこそが大王家の本貫の地である」

 讃良は自信を持って言う大海人を見つめた。

 大海人様はお父様に兵を挙げるつもりでいらっしゃるが、勝ち目はあるのでしょうか。

 私と草壁は、お父様と大海人様のどちらに付けば良いというのでしょうか。

 大王であるお父様の方が有利に思えますが……。

 お父様に付いていれば、草壁はお父様の孫として安全かもしれませんが、諸王となってしまい大王に手が届かなくなる。

 大海人様に付いて行って、大海人様が勝てば、草壁が大王になる道が開けかもしれませんが、兵も臣下もいない大海人様に付いて草壁は安全なのでしょうか。もし、大海人様が負けるようなことがあれば、草壁も殺されてしまうかもしれません。

「草壁をどうするおつもりですか。私はどうすればよいのですか」

 草壁の父親である大海人様が、祖父であるお父様に反旗を翻す。多感な年頃の草壁はどのように感じるのだろうか。大海人様が勝てば、草壁はお祖父さまをなくす。お父様が勝てば草壁は実の父を亡くす。どちらも草壁にとって悲しいこと。村国連むらくにのむらじは政が非情であると言うが、情けなさ過ぎる。

「今日のうちに大津宮を発つ。お前は付いてくるのか」

 草壁の人生は私が守ってやらねば……。

「ええ、大海人様について行きます」

 とっさに、大海人様について行くと答えてしまったが良かったのか。大海人様が勝たないと、草壁が大王になれない。しかし……、 大海人様は勝てるのでしょうか。

「謀反の疑いをもたれないように、高市たけちと草壁、大津を残しておく。村国は朴井雄君えのいのおきみ和珥部君手わにべのきみてを呼んできてくれ」

「何ですか。草壁と大津を人質にするのですか? 草壁はまだ十歳、大津は九歳です。一人で残しておくことなどできません」

「儂が家族を全部連れて行けば、朝廷から独立すると思われ、兄様に謀反だという口実を与える。三人は残してゆく」

 草壁も大津も幼くて私が面倒を見てやらなければ暮らしていけないし、私の目が届かないところでは何をされるか分からない。二人を大津宮に残しておくことなどできない。

「絶対に二人を連れて行きます」

「二人ともはだめだ。どちらか一人にせよ」

 大海人様は何て冷たいことをおっしゃるのだ。二人とも血を分けた自分の子供ではないですか。

「皇女様。草壁様と大津様は大海人様の跡を継ぐ皇子様です。二人を同時に連れて行ったら、間違いなく謀反の罪を着せられます。今回はどちらかお一人、時期を見て残された皇子様を吉野へお呼びください」

 村国連も情けないことを言う。男はどうして冷たいことを平気で言うのだろうか。

「それでは、草壁を連れて行きます」

 草壁を吉野に連れて行くと言ってしまったが、残す大津にもしものことがあったら、姉様に顔向けができない。

 大海人皇子は屋敷の奥へ向かう。

 棒立ちになっている讃良に、男依が声をかけてきた。

「大王様の気が変わらないうちに、我々は出発します。皇女様もご準備くださいませ。今から出れば日が暮れる前にやまとへ、明日には吉野へ入れると思います。草壁皇子様もお連れするのならば、合わせて支度を願います。私は高市皇子たけちのみこ様や朴井連えのいのむらじ殿の元へ行きますので、この場にてご無礼いたします」

 男依は一礼して走り去った。讃良に背を向けて大海人は屋敷の中に消えようとする。

「大海人様!」

 大海人は「なんだ」と振り返る。

 讃良は返事に窮した。

「大友が大王になることだけは許せません。草壁のためにも、大海人様が大王になるべきです」

「儂も、そのつもりだ。吉野へ着いてくるなら支度せよ」

 今日中に倭へ着くというのならば、すぐに出なければならない。着物も供の者も最低限で良い。

 草壁はどこ? 草壁を探して準備させなければ。大津や大伯にも良く言って聞かせねば。

 屋敷を出ると、冷たい風が讃良の体に吹き付けてきた。太陽は燦々と降り注いでいるが、全く暖かくない。琵琶湖は風にあおられて大きく波を打ち、小さな船が波に揺られていた。漁師は網をたぐり寄せようとしているらしいが、波と風に阻まれてうまくゆかない。

 私と草壁も、大海人様とお父様の争いに翻弄され始めている。

 讃良は草壁を捜すために走り出した。

 大海人皇子が吉野に退去してから二ヶ月後、六七一年十二月。葛城大王は崩御した。

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