大海人皇子

「大友が大臣になったと聞きました」

 讃良が部屋に入ったとき、大海人皇子はあぐらをかいて座り、火鉢を抱えるように両手をかざし目をつむっていた。讃良は戸を閉めて大海人の横に座った。

「太政大臣とは群臣の最高位の役職かと思ったのですが、大王にすると言う含みがあるとか。大海人様を差し置いて大友が大王になるなど、まったくもって、理不尽なことなので、お父様のところへ抗議にいきました」

「兄様に文句を行ったのか」

 讃良は肯く。

「お父様に、後を継ぐのは大海人様であると言ってきました」

「まるで、儂が兄様の娘のお前を使って文句を言っているようじゃないか」

「だってそうでしょう。お父様の次に大王様になるのは、大海人様しかいないでしょう。大海人様の方が大友よりも、血筋、実績、年齢、すべてが上です。伊賀の采女の子供が大王になるなんて群臣たちに示しがつきません」

「兄様はなんて答えた」

「出しゃばるなって叱られました。私の言うことなど聞こうとなさいません。大海人様は役職を与えられなかったとか。いったい何が起こっているのですか」

「宮を近江へ遷すことに反対して以来、兄様は儂の言うことを聞こうとしないし、百済人くだらびとを多く登用して群臣に不満がたまっている」

「群臣たちは、大友が大王になることをどのように考えているのですか」

「若い大友が大王になれば、自分たちの言うことを通しやすくなるぐらいに考えているのだろう」

「群臣が勝手なことをやり始めたら国が乱れるじゃないですか。国を引っ張る実力がある大海人様が大王になるべきです」

「兄様が生きているうちに、大王になるなんて言ったら謀反だぞ。儂の后のお前が言うことは儂が言ったも同然で、儂は謀反の罪をかぶせられる。儂を煙たがっている兄様の思う壺だ。面と向かって反対する儂がいなくなれば、兄様のやりたい放題。大友が大王になることが決定的になるだけだ。儂を大王にするなどと決して言うな」

「じゃあどうすればいいのですか。このまま黙って大友が大王になるのを見ているのですか」

「お前は何をムキになっている」

「もし大友が大王になったら、草壁が大王になれないじゃないですか」

「草壁はまだ十歳だ。お前は何を考えている。もういい、采女のところへ行って、酒と肴を持ってくるように命じてくれ」

「私もお相伴させていただきます」

「お前はいい。今日はむしゃくしゃしているから、一人で飲みたい。草壁を寝かしつけてやれ」

 讃良が大海人に追い出されるように部屋を出ると雪が顔を洗った。冷たい風に身が縮む。

 私は大王家の長女としてまっとうなことを言っているに過ぎないのに、お父様は怒鳴り、大海人様はやっかい払いするように部屋を追い出した。

 お父様も大海人様も怒らなくてもよい。

 大海人様を大王にすると言えば謀反になるという。大海人様に好意的な紀臣きのおみ巨勢臣こせのおみにも相談できなくなってしまった。どうしよう。

 草壁こそが大王にふさわしい血筋だというのに、お父様は大友を大王にしようと思ってらっしゃる。大海人様は草壁の将来のことを全く考えてくださらない。

 二人とも草壁のことなど、なんとも思っていないのかしら。

 雪が舞う風に吹かれると、体温が急速に奪われてゆく。讃良は衿元をしっかりと絞めた。雪に濡れて凍り始めた廊下を歩いてゆくと足の先が痛くなってきた。

 草壁も寒がっているでしょうから、采女に暖かいものを作らせましょう。

 今夜は雪が積もるかもしれない。新年の雪は縁起がよいというけれども、良いことなどありそうにない。

 どうせ、大海人様は今夜も私のところへは来てくださらない。私を追い出して、采女の誰かを呼ぶつもりなんでしょ。若くてきれいな娘の方が良いのですか。私は十人並みかもしれないけれども、大海人様の第一后。まだ二七歳で枯れてはいないのです。

 讃良のため息は、白い霧となって消えていった。

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