壬申の乱

新体制発足

 白村江の敗戦から八年後の六七一年一月五日。新年を祝う雰囲気の中で、葛城大王かつらぎのおおきみ(天智天皇)は、実弟の大海人皇子を朝廷の役職から外し、自身の息子で二四歳の大友皇子おおとものみこを、次期大王の含みを持たせて、太政大臣おおまつりごとのおおおみに据える人事を発表した。

 大友皇子は、葛城大王の第一皇子で、唐の使者である劉徳高りゆうとくこうに「風采、骨柄が倭国の人に似つかわしくなく優れている」、漢詩集である懐風藻に「立派な体つきで、風格、器量共に広く、目は鮮やかに輝いている」と高く評価され、将来を嘱望されていた。ただし、倭国わこくでは兄弟相続が一般的であること、母親が伊賀采女いがのうねめ宅子娘やかこのいらつめと身分が低いことから、葛城大王の後継は、同母弟おとうとである大海人皇子であり、大友皇子は大王に即位できないと誰もが考えていた。

 大海人皇子を放逐し、大友皇子を後継に据えることで、すきま風が吹いていた葛城大王と大海人皇子の仲は決定的に悪くなった。


 新年の行事も一段落し近江大津宮おうみおおつのみや(滋賀県大津市錦織)に音はなかった。朝から空は灰色の雲に覆われていて、気温はさっぱり上がらず肌寒い。部屋に火鉢を一つくらい置いただけでは寒さは防げない。

 讃良は、大津宮の自室で、大友皇子が太政大臣に任命され、大海人皇子が失脚させられたという話を志斐から聞いた。

「大友が将来の大王ですと? 白村江の戦いから一緒にまつりごとをしてきた大海人様をないがしろにするとは何事ですか。自分を支え、苦労を共にしてくれた同母弟おとうとよりも子供を重んじては国が乱れます」

 お父様の次は大海人様が大王になることが倭国の習い。大海人様の次は第一皇子である草壁が大王になるのが自然な流れなのです。だいたい、大友の母親は伊賀の国造くにのみやつこの娘で身分が低すぎます。大王の母は大王家の女か、蘇我や阿部といった倭の大氏族の娘と決まっているのです。大友が大王に即位すれば、草壁は大王になれない。

 大友の評判が良く、優れた人間であることは認めましょう。臣下として活躍するならともかく、大王になるなんて断じて許せません。お父様にひとこと申し上げる必要があります。

 讃良が部屋から廊下に出ると、琵琶湖を渡ってきた冷たい風が吹きつけてきた。

 空を覆い尽くす灰色の雲は、日が暮れる前だというのに、大津宮をすっかり暗くしている。粉雪が混じる風は、讃良の衣と長い黒髪を揺らし、一気に体温を奪う。廊下の冷たさが、素足からじんわりと伝わってくる。

 讃良は、大王の部屋に入ると、木簡を整理している葛城大王の前に座った。

「お父様にお話があります」

 お父様には今日の人事を取り消していただかなくてはなりません。

 讃良の気合いに、葛城を囲む三つの燭が揺れる。

「大海人様を政から外したと聞きました。白村江の後に水城みずきを作ったり、庚午年籍こうごねんじやくでお父様と一緒に苦労したりした実の弟ではないですか。大津宮に遷るときも、大海人様が氏上うじのかみたちを説得しました。お父様は、なぜ、自分を助けてくれた大海人様を政から遠ざけたのですか。近頃、お父様と大海人様の仲が悪いと聞きます。倭国を支える同母兄弟きようだいが不仲では、群臣まえつきみたちが動揺します。大海人様を大臣にして二人で政を行って下さい」

「大海人は大津宮へ遷ることに反対だった。大津宮へ遷ってから、ことごとく俺の政に文句を付けている。昔は俺によく協力してくれていたのに失望している。奴がまったく俺の政を理解しないのに対して、大友は俺の意図をよく理解し、思った以上の働きをしてくれる」

「大友を大臣おおおみにすると伺いました。しかもお父様の後を継がせ大王にするおつもりだとか。いったい何をお考えなのですか」

「大友は俺の子供の中で一番優秀な上だ。政にも歌にも長けていて、群臣からも一目置かれている。倭国を背負ってゆける人間だ」

「本気で大王にするおつもりですか。大王は群臣会議まえつきみかいぎの推戴を受け、天神あまつかみから寄さしをいただいて即位するものです。大友が群臣会議で選ばれるとでもお考えですか」

「大友の優秀さは蘇我赤兄そがあかえや、中臣金なかとみのかねら有力者も認めるところ。問題ない」

「お父様の後を継ぐのは、大海人様ではありませんか。だいたい倭国は、兄弟で大王を継いでゆくものです。倭の氏族だって、兄弟で氏上を相続しています。順番や伝統を乱すと争いの元になります」

「政は難しい。唐国と新羅の連合は、高句麗を滅ぼしたまでは良かったが、今では仲違いして互いに我が国に助けを求めてきている。舵取りを間違えないような人間が大王にならなければならない」

「大海人様は舵を間違えて、大友ならばうまく船を進めるとでも」

「大海人は直情すぎて群臣たちの信を失っている。内外に問題を抱えるときには、優秀な人間が国を率いてゆかねばならない」

「大友の母親は伊賀国から来た采女ではありませんか。采女の息子が大王になるなんてあり得ません」

宅子娘やかこのいらつめは采女だが、大友は紛れもない俺の息子だ。大王になっても問題はない」

「私だってお父様の娘です。お父様の子供の中で最年長です。大友が大王になれるのならば、私だって大王になれます」

「寝言は寝て言え!」

 葛城は讃良をじろりと見る。讃良も負けないようにしっかりと見返した。

「お前は朝議に出ておらず、政の経験などないではないか。俺のところへ何を言いに来たのか」

「大友を大王にするのはおかしいから、やめて下さいと申し上げに来たのです。舵取りを間違えるといけないとおっしゃいましたが、白村江で大敗したのはお父様の舵取りが間違っていたからではないですか。今度も大友を太政大臣にして舵取りを間違えるつもりですか」

「たわけ!」

 部屋中に響く葛城の声に、讃良は思わずのけぞってしまった。

「俺に意見するな! 俺の決定に異を唱えるものは、たとえ娘であろうと許すことはできない」

「大海人様も、お父様に反対なされたから放り出したのですか」

「そのとおりだ。お前もさっさと出て行け。出て行かねば舎人を呼んで宮から放り出すぞ。さっさと帰って子供の面倒を見ておれ」

 葛城大王の剣幕に負けて讃良は部屋を出た。

 お父様と喧嘩になってしまった。私は正論を言っただけなのに、あんなに怒らなくても……。

 廊下の冷たさが、足を伝って体の芯を冷やしてゆく。粉雪は本降りの雪に変わっていた。

 讃良は思わず衣をギュッと体に押しつけて、大海人の部屋に向かった。

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