大津皇子

 讃良が草壁皇子を産んだ翌年の六六三年七月。讃良の同母姉あねである太田皇女おおたのひめみこは二人目の子供となる大津皇子おおつのみこを産んだ。

 讃良は歩き始めたばかりの草壁を抱いて、太田の産所を訪れた。

 部屋の真ん中に敷かれた大きな布団に太田が、横の小さな布団に赤ん坊が寝ている。二人の枕元には、螺鈿細工が施された箱、錦の袋に入れられた守り刀など、皇子の誕生を祝う品が数多く届けられていた。部屋の隅でおしめや産着をたたんでいた四人の采女は、讃良が部屋に入ると一斉に頭を下げる。

 讃良が赤ん坊の横に座ると、太田は体を起こそうとした。

「姉様は寝てらしてください。お産の後の一番大切なときですから」

 太田は「ありがとう」と力なく答えて再び横になった。

 産後の肥立ちが悪いと聞いていたけど、姉様の様子は思っていた以上に悪いようです。

 白く柔らかそうな布団の上に、よく練られた絹の産着を着て、大津は気持ちよさそうに寝ていた。

 讃良は、抱いている草壁に話しかける。

「草壁の異母弟おとうとですよ。分かりますか。かわいいですね」

 讃良は、草壁が赤ん坊をのぞき込めるように、後ろから両脇を抱えて持ち上げた。草壁は赤ん坊を指さして喜ぶ。

「赤ちゃんがかわいいのですか」

 讃良の問いに草壁は笑って返す。

 草壁を床に下ろすと、トコトコと歩き布団に躓いて大津の上に倒れ込みそうになった。

 あわてて草壁の体を支える。

「もう歩くようになったのですね。子供は大きくなるのが早い」

「はい姉様。歩き回ってそこら中に頭をぶつけるので大変です。大伯も大きくなりましたね」

 讃良が、采女の膝の上で遊んでいた大伯を手招きすると、大伯は飛んできて抱きついた。

 大伯は草壁より数段重い。

 大伯は内側に花の絵が描かれた貝殻を、「あげる」と言って讃良に差し出してくれた。

「あらあら、私にくれるの。それではお返し」

 讃良は、薄紫に染められた絹を懐から取り出し渡した。

「わーすべすべ」

 大伯はうれしそうに布きれを顔にこすりつける。

「とってもいい匂いがする」

「お香を焚いてあるのですよ」

 大伯は、母親の元に寄ると、うれしそうに布を見せた。

「姉様にはいっぱい祝いの品が来ていますね」

「倭の氏上うじのかみの方々や、筑紫の評造こおりのみやつこ邑長むらおさからも来ているの。祝いの品よりも、大海人様が来てくださって、『よくやった』って誉めていただいたことが一番うれしい。大津の枕元に置いてある守り刀は大海人様からいただいたの」

 草壁の時に、大海人様は『猿のようだ』っておっしゃったし、祝いの品などいただかなかったのに……。大津の方が草壁より上みたいじゃないですか。

 姉様は年上で、私より大海人様に早く嫁いだからかもしれないけれど、草壁は大海人様の長男。大海人様は何を考えていらっしゃるのかしら。

「大海人様は、毎朝、毎晩大津を見に来てくださるの。百済の戦が大変なときですから、政に専念してくださいって言ったのですが、大海人様ったら、『子供の顔を見ていると、政の煩わしさを忘れることができる』っておっしゃるの」

 大海人様は草壁よりも大津の方が大事なのでしょうか。草壁のときは、ほとんど会いに来てくださらなかった。草壁を生んでからも大海人様はほとんど私の閨に来てくださらないのに。

 大伯は讃良からもらった絹の布を右手に持ったまま、太田の布団にうつぶせになって寝始めた。太田は寝たままで、優しく大伯の頭をなでる。

 草壁を連れて倭に帰りたい。

 娜大津のような不便なところ、狭い朝倉宮よりも、倭の広い岡本宮のほうがいい。

 草壁が讃良に抱きついてきた。

「お異母姉ねえさんからいただいたのよ」

 大伯からもらった貝殻を草壁に見せると、草壁は目を輝かせて受け取った。

 大津が目を覚ましてぐずりだしたので、讃良はそっと抱きかかえてあやした。

 赤ん坊のぬくもりが、頭を支える左手から伝わってくる。

 小さくて弱々しい。大人が守ってやらないと邪鬼にさらわれてしまう。大津は草壁が生まれたときにそっくり。丸い顔に、クリクリした目、おちょぼ口。異母弟きようだいだから似るものなのでしょうか。

 草壁が小さな指を大津の手のひらに当てると、大津はしっかりと握りしめた。草壁はニッコリと笑って讃良を見つめる。

「私が死んだら、この子たちを…… 大伯と大津をお願い」

「姉様、不吉なことを言わないでください」

 讃良はゆっくりと大津を布団の上に下ろして、差し出された太田の手を握った。

 冷たい! 病人は普通熱があるものなのに、姉様の手は石のように冷たく、かさかさに乾いている。これではまるで……。

 讃良がびっくりして采女たちに目をやると、采女たちは一斉に頭を下げた。

 姉様の容態は明日をも知れないというのか。

「気を確かに持ってください。姉様は大伯と大津を育てなければなりません」

 太田の顔をよく見ると、目の下にはうっすらと隈ができ、唇は青紫になっていた。頬も土色で生気が失せている。

「自分の体のことはよく分かっています。大伯の時に比べて今度のお産は難産で…… 子供たちが大きくなってゆくのを見ることができそうに……」

 太田は力なく笑いながら、目に涙を浮かべて讃良の手を握ってきた。

 ぎゅっと握り返すと、手から体温が奪われてゆくのが分かる。

 かわいい盛りの大伯、生まれたばかりの大津を残して、姉様が逝ってしまうなんてあり得ません。

「大津をお願い」

 讃良は首を縦に振った。

 大伯は讃良からもらった絹をしっかりと握りしめ、うつぶせになったまま気持ちよさそうに寝ている。大津は目をパチパチさせながら盛んに手足を動かそうとしている。

 何も知らない子供たちが不憫だ。姉様にもしもの事があったら、私が二人の親代わりになって、立派な大人に育ててみせる。

 讃良の体温で、太田の両手が温まると、太田は笑みを浮かべた。

 いつの間にか日は傾き、ねぐらへ変える鳥の声が騒がしくなっていた。

 太田皇女は産後の肥立ちが悪く、大伯、大津の姉弟を残して亡くなる。


 六六三年八月。倭・百済の連合軍は、白村江はくすきのえ(朝鮮半島、錦江河口)で、唐・新羅連合軍と衝突し大敗する。白村江の敗戦により、百済は反抗拠点である周留城するじようも陥され完全に滅亡し、倭国は四世紀以来持っていた朝鮮半島での権益と繋がりを失ってしまう。

 倭国の大王代理として戦争を指揮した葛城皇子は、敗戦により失脚するはずであったが、倭国内に対立相手がいなかったことや、唐国が倭国に侵攻してくるという緊張感を作り出すことで、失脚を免れた。

 葛城皇子は、朝鮮半島から引き上げてきた倭国軍、百済の亡命者をまとめてやまとに帰よう臣下に命じた。讃良は草壁と大伯の手を引き、大津を抱いて帰還の船に乗った。

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