白鳳の女帝-日本草創-

しきしま

草壁皇子誕生

草壁皇子

「お産のときの苦しさが夢のよう。赤ちゃんの顔を見ていると、何もかも忘れて幸せな気分になります」

 六六二年七月、鵜野讃良皇女うのさららのひめみこ(後の持統天皇)は、滞在先の朝倉宮あさくらのみや(福岡県朝倉市)で男の子を産んだ。

 産所に当てられた部屋には、讃良さららの布団と赤ん坊のための小さな布団が敷かれてあり、おむつや讃良の身の回りの品は、きれいに整理されて部屋の隅に積まれていた。祝いの品も数点届いていて、邪鬼を祓うための弓と刀が枕元に置かれていた。

 小さな布団に寝かされた赤ん坊は、両手両足をもぞもぞと動かす。

 讃良が人差し指で赤ん坊の手のひらに触ると、赤ん坊は五本の指でぎゅっと握りかえしてくれた。

 私の赤ちゃん。

 紅葉のような小さな手。

 柔らかい指。優しい力。

 まん丸の顔。くりくりした大きな目。

 ちっちゃな口とぺちゃんこの鼻。

 みずみずしくて、ほんのりと赤いほっぺ。桃のような柔らかい産毛。

 讃良の横に座っている侍女の志斐しいは、ニッコリと笑う。

 讃良は右手を赤ん坊の下に入れた。

「まだ首が据わっていませんから、手のひらで頭をしっかり支えて下さいまし。そーっと、そーっと。皇子みこ様をびっくりさせないように」

 右手で頭をしっかりと支え、左腕を体の下に忍ばせて、生まれたばかりの我が子をそっと抱き上げた。

 落とさないように、そっと、慎重に、慎重に。

 小さく見える赤ん坊でも、両腕に余るほど大きい。

「本当に、私のおなかに入っていたのかしら」

 赤ん坊の体温が絹の産着を伝わってくる。

「赤ちゃんって暖かいのね」

 赤ん坊は腕の中でゆっくり動く。

「とっても柔らかい。壊れてしまいそう。昔、お母様にねだって子供のたけるを抱いたり、負ぶったりしたことがあったけど、こんなに華奢だったかしら」

 志斐も赤ん坊をのぞき込んで目を細める。

「よかったですね。お母様ですよ」

 赤ん坊は目を開けると讃良を見つめた。

「わたしが、お母さんですよ」

 赤ん坊は笑って答えてくれる。

「赤ちゃんがとっても愛おしいでしょ。私も初めての子のときは、お産が大変で、もう勘弁してくれと思いましたが、生まれた赤ちゃんを見たら苦労が吹き飛んでしまいました。とっても、とってもかわいくて、目に入れても痛くない、この子のためなら何でもしてやるって思いました」

「かわいらしい赤ちゃんを見ていると、いくさのために娜大津なのおおつまで来ていることが嘘みたいです」


 六六〇年、唐・新羅連合は百済の首都を陥落させ、国王一族を唐へ連行したが、唐の百済制圧は点の支配であったため、百済の遺臣達は各地で蜂起し祖国回復戦争を始めた。抵抗勢力の中で最有力であった鬼室福信きしつふくしん国に救援を求めると共に、倭国に二〇年以上滞在していた百済王室の余豊璋よほうしようを百済王に迎えたいと申し出てきた。倭国の元首である宝大王たからのおおきみ(斉明天皇)と息子で執政の葛城皇子かつらぎのみこ(中大兄皇子、後の天智天皇)は、朝鮮半島における権益回復のために、前の大王おおきみである軽大王かるのおおきみ(孝徳天皇)の外交方針を大きく転換して、余豊璋を旗印に唐・新羅連合と戦争を始めた。宝大王は、「大王が出陣しなければ、諸国の氏族は兵を出さないだろう」として、六六一年に自身の宮を、倭の岡本宮おかもとのみやから娜大津なのおおつ(福岡県)の朝倉宮に遷し、朝倉宮を大本営として、海を越えた百済、新羅の地に軍を派遣した。大王に率いられて、大王家、倭の氏族も娜大津に移っていた。

 宝大王は朝倉宮に遷ってまもなくの六六一年七月に崩御する。百済支援戦争の最中で、大王の死を公表することができなかったので、葛城皇子は大王に即位することなく、実質的な倭国の元首として戦争を継続していた。

 讃良は葛城皇子の娘で、宝大王の孫にあたる。十三歳の時に、葛城皇子の同母弟おとうとである大海人皇子おおあまのみこ(後の天武天皇)の后になった。大王の娘は、格下の臣下に嫁ぐことができず、大王家一族へ嫁ぐことが慣例となっている。現代の感覚からすれば、叔父と姪の婚姻や十三歳での結婚はありえないが、白鳳時代の倭国では普通のことである。


 讃良は十八歳になった六六二年、滞在先の朝倉宮で男の子を産んだ。

「大海人様は、一回しか赤ちゃんを見に来て下さっていないの。それに、見に来たときになっておっしゃったと思います? 『やっぱり猿みたい』だっておっしゃったのよ。こんなにかわいいのに、ものすごく痛い思いをしたのに、失礼しちゃいます」

「男衆にはわからんのですよ。十月とつき、自分のおなかのなかで大きくなっているのを感じ、とってもつらい思いをして産んだ赤ちゃんの、かわいさが」

 讃良は赤ん坊を布団の上にそっと降ろし、ほおに人差し指をつけてみた。

「生まれたときの皺はなくなって、ほおはプニプニ。肌はスベスベ。桃の肌のような産毛が生えています。なんてかわいいんでしょう」

皇女ひめ様はお手柄でした。ほんとうにかわいい皇子みこ様です。こんど大海人様が、猿のようだとおっしゃったら、志斐が、父親のなんたるかを説教してさし上げます」

「志斐にかかれば、大海人様も形無しね」

 赤ん坊は両手両足を上げてむずがゆがった。

「あらあら、おしめを替えましょうか」

「違いますよ皇女様。お乳がほしいのです」

「どうしてわかるのですか」

「新米のお母様にはわからないかもしれませんが、五人の子供を産んで育てた玄人のお母さんには、手に取るように赤ちゃんの思っていることがわかるのです。お乳をさし上げましょう。まだ首が据わっていませんので、頭をしっかり支えて、そっと抱き上げて」

 讃良は志斐に促されて、赤ん坊を抱き上げると、衣の前をはだけ、赤ん坊の顔を胸に近づけた。

 赤ん坊は迷わず乳首に口をつける。

「目は開いていてもまだ何も見えないはずなのに、お乳のありかはちゃんと分かるんですね」

 くすぐったい。でも幸せな気分になれる。

 私と赤ちゃんは一体だって思える。

「赤ちゃんはお乳を飲んで大きくなるんですね。赤ちゃんにお乳を与えていると、人も獣も変わらないんだって思えてきます」

 私がお乳をあげねば、この子は飢えてしまう。

 私が守ってあげなければ、この子は邪鬼に食われてしまう。

「子猫にお乳を吸わせている母猫にすごく怒られたことがあります。母猫はきっと子猫を取られると思ったのでしょうね」

「子を思う気持ちは、身分の貴賤、人や獣の違いはありません。ほんとうに尊い気持ちです。赤ちゃんにお乳を吸われてどうですか。大海人様とはだいぶ違うでしょう」

「やだ、志斐ったら」

「赤ちゃんにお乳を与える幸せな感じは、男衆は味わうことができません。皇女様はお乳の張りも、産後の肥立ちもいいですから、立派に皇子様を育てることができますよ」

 床の上を何かが這ってきた。

「あ! 百足」

 両手がふさがっている讃良は動くことができない。

「乳の甘いにおいに誘われてやってきたのですね。皇女様はそのままにしてらしてください」

 志斐は、箒でさっさと百足を掃いて捨てた。

 志斐は戻ってきてちょこんと座ると、赤ん坊に話しかける。

「皇子様を狙う悪い百足は志斐が退治しました。めでたし、めでたし」

「あらあら、志斐は昔話を聞かせてくれるのですか」

「はいです。皇女様が小さいときに聞かせてあげた昔話を、皇子様にも聞かせてさし上げましょう」

 讃良はくすっと笑う。

「いなといへど うる志斐しいのが がたり この頃聞かずて 我れ恋いにけり」

(もう嫌だといっても、強いて聞かせてくれた、志斐の昔話。この頃聞いていないので、私は恋しく思っています)

「まあ皇女様ったら。おっしゃいましたね。それでは志斐も反歌を。

 いなといへど 語れ語れと らせこそ 志斐いはもうせ がたりとのる」

(私はもう嫌だと申し上げるのですが、話して欲しい、話して欲しいとおっしゃるから、志斐はお話ししたのです。強いて聞かせたなどとおっしゃるとは)

 二人は顔を見合わせて笑った。

 赤ん坊は満足したのか、乳首から口を離すと、両手で手を叩くような仕草を見せた。

「あらあら、こんなに小さくても私たちの話が分かるのかしら。手を叩いて笑っている」

「お気をつけなさいまし。子供は、たとえ赤ちゃんでも、思っている以上に大人のことを分かっていますから」

 讃良は衣を直すと、赤ん坊の唇を産着で優しく拭いてやった。

 赤ん坊は満足したのか、小さな口をめいっぱい大きく開けてあくびをする。

「お疲れになったでしょう。志斐にも抱かせて下さいまし」

 志斐は讃良から赤ん坊を受け取ると、「おおかわいい」と言ってあやす。

「赤ん坊を抱く感じがたまりません。柔らかくて暖かくて、幸せな気分になれます。志斐ももうひとがんばりして見せましょう」

「六人目を産むのですか」

「いやですよ皇女様。産むのではなく、お世話するのですよ」

 二人は再び笑う。

「ところで、お名前は決まりましたか」

「大海人様が、草壁くさかべと名付けて下さいました」

草壁皇子くさかべのみこ様ですか。良いお名前です」

 讃良の夫である大海人皇子には、讃良の他に三人の后と草壁の他に三人の子供がいた。

 大海人皇子は、鏡王かがみのおおきみの娘である額田皇女ぬかたのひめみこ額田王ぬかたのおおきみ)との間に十市皇女とおちのひめみこ、筑紫の氏族の娘である尼子娘あまごのいらつめとの間に高市皇子たけちのみこ、讃良の同母姉あねで、葛城皇子の娘である太田皇女おおたのひめみことの間に大伯皇女おおくのひめみこをもうけていた。

「草壁皇子様は大海人皇子様の後を継いで、倭国を支える立派な大王様におなりでしょう」

 倭国は双系制あり、後を継ぐためには母親の出自も重要とされる。高市皇子は大海人の長男ではあるが、母親の身分が低いことから、後継になる資格はなく、草壁が第一位の後継者となる。

 草壁は志斐の腕の中から、両手を讃良の方へ伸ばした。

「お母さんは、ここにいますよ」

 讃良の呼びかけに、草壁は「うー」と声を上げる。

 思わず笑みがこぼれる。

 お父様の後は、大海人様が大王になられる。大海人様の後を継ぐ兄弟はいないから、大海人様の後は代替わりする。

 お父様に子供は多いけれども、女の子ばかりで男の子は大友と河嶋だけ。二人の母親は国造くにのみやつこの娘だから大王になる資格はない。志斐の言うとおり、草壁は大王になる子供なのです。

 草壁は志斐の腕の中であくびをした。

「皇子様は、おねむですかな。いっぱいお乳を飲んで、いっぱい寝て、早く大きくなってくださいまし」

 志斐が草壁をゆっくりと布団に下ろし、讃良が絹の布団を掛けてやると、草壁は小さい口を大きく開けてあくびをしてから目を閉じた。

 安心しきっている。

 私が守ってやらねばならない。

 讃良は指で草壁の頬に触った。

 ほっぺはプニプニ。

 お肌はすべすべ。

 小さな鼻と小さな口。

「ほんとうにかわいい。草壁は私の宝物です」

「皇女様、何か召し上がりますか」

「いえ、子供を見ているだけで満腹です」

 志斐は目を細めてニッコリとする。

 草壁は大王になる子供なのだ。

 立派なの子に育てて見せましょう。

 倭国の大王として、皆に仰ぎ見られる人間にして見せましょう。

 暖かい日差しと甘い乳の香りが三人を包んだ。

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