5.

 日が落ちると、急に空気が冷たくなった。鳥が羽ばたきに移る。だが、柚香は身体を起こしたままでいた。

 白く冴えた満月が、左から姿を現す。その下に広がる森は、黒々とした影になる。吐いた息は白かった気もするが、あっという間に風が連れていった。

 ああ、と、柚香は小さく歓声を上げた。

「星が……!」

 まるで、紺碧に銀砂をまいたように、無数の星が瞬いていた。

 彼女の知る空とは違うようで、見知った星の並びもなければ、天の川も見当たらない。名前がわかる星は一つもないけれど、今はそのことも、いっそう彼女の心を躍らせた。

「闇の中を泳いでいるみたい……」

 月の光に浮かびあがるのは、鳥と自分だけ。光射す水面のように、天上は星と月の影で明るい。

も、同じことを言っていた」

 鳥が、独り言のように呟いた。柚香は怪訝な顔をする。

「私……貴方に、名前教えてましたっけ」

 鳥は不思議そうに返した。

「それはどういうことだ」

「だって、『柚香』って私の名前ですよ?」

 不意に、羽ばたきが止んだ。一瞬体勢が崩れたが、すぐに鳥は風に乗った。

 空の上は、急に静かになる。

 柚香は不安げに揺れる声で尋ねた。

「ねえ……どうしたんですか?」

 鳥は、何かを考えているようだった。しんと光る星明かりの下、二人はしばらく無言でいた。

 ずいぶんと間が空いてから、鳥は、ゆっくり口を開いた。

「そなた、最初に、私の背に乗った者について問うたことを覚えているか」

「ええ」

 柚香は、話の行方が見えないまま答えた。

「貴方が、私が静かだって言ったから、私が、他に誰か乗ったことがあるのって訊いたんですよね。たしか、一回だけあったって」

「そうだ。その、かつて乗せた者の名が、『柚香』だ。……もう、ずっと昔の話だ。あの者は幼き少女であった」

(ずっと昔、小さい頃……)

 柚香はぎゅうっと眉を寄せた。

 私はすでに、この風景を知っているの? 風が走る空の深さを、夕映えに浮かぶ雲の輝きを、目も眩むような星の色を?

 ──膝をくすぐる羽毛。飛ばされてしまいそうに強い風。穏やかに語りかけてくる声。伸ばした小さな手が月に照らされて──

「『ばいばい。またね、ラスラ』」

 思わず声に出していた。霞がかった残像の断片は、夢を見た時の記憶のようだ。曖昧だけれど、忘れることはない。

「貴方は、ラスラ……?」

 鳥は、くぐもったような声で答えた。

「いかにも。私が、ラスラだ。……久しいな、柚香」

「ちっちゃかったから、あんまり覚えてはいないんですけどね」

 冗談めかして言うつもりだったのに、最後は泣き笑いになった。

「私、またここに来られたんだ……」

「そうだな。柚香は約束を守ってくれた」

 ラスラの声には、まぎれもない喜びがこもっていた。

「柚香、帰り道を覚えているか」

「……流れ星を、三つ数える」

「その通りだ。見逃さぬようにな」

 柚香は頷いて、ごしごしと潤んだ目をこすった。

「あっ!」

 すい、と、やや右上の方を光がよぎった。

「一つめ。──帰りたくない、な……」

 柚香は呟いた。ラスラがため息をつく。

「あちらにも、同じものを眺めたいと思う者がいるのだろう?」

 否定することはできなかった。

「柚香がそう思う者がいるのなら、柚香と同じものを眺めたいと思う者もいるだろう」

「そう、ですか、ね」

 一言ひとこと確かめていたら、返事はたどたどしくなってしまった。

 下の方で、光が流れる。

「あ……二つめ。──二回ここに来られたんだから、三回目もありますよね」

「ああ、必ず」

 ラスラの揺るぎない答えに、柚香は微笑んだ。

「私、絶対また来ますから。待っててくださいね」

「無論。柚香も、もう私を忘れるな」

「はい」

 両手と両足に、ラスラの体温が伝わってくる。星の海は果てしない。

「あ……!」

 正面に一筋、光が落ちていった。

「行け、柚香」

 ラスラは大きな声で促して、ぐいと、真上に飛行の角度を変えた。

「またね、ラスラ!」

 柚香は一瞬、ぎゅっとラスラにしがみついてから、その手を離した。

 闇と光の中を、どこまでも落ちていく。彼女の世界に向かって。




 ――ラスラ?

 ――わたし? 柚香よ。

 ――ひとりぼっちで、さみしいの?

 ――じゃあ、おなじものを、いっしょに見にいこう?

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世界間落下フライト 音崎 琳 @otosakilin

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