2.
どさり、と、まるでベッドに倒れこむ程度の衝撃で、柚香は、どこか柔らかいところに着地した。
(は?)
着地した場所は、柔らかいだけではなかった。ふさふさで、温かい。そして何より、激しく動いていた。革靴の下、膝の下、腕の下、頬の下で、力強く、波打つように。
と思ったら、すっと動きが小さくなった。柚香は、クリーム色の絨毯のような、ふさふさしたそれをしっかり掴んで、おそるおそる上体を起こした。
途端に強い風が吹きつけてきて、思わず叫び声を上げる。何かを握る手に、とっさにぎゅっと力を込めた。目の前に広がっていたのは、晴れわたった大空だった。
(な、なに……?)
歩道橋で転んだ自分が、なぜ、空の中にいるのだろう?
自身の左右に目をやって、彼女はさらに驚愕する。
そこには、悠々と風に乗る翼があった。
柚香がいたのは、クリーム色の、大きな鳥の背なのだった。バスよりも大きな鳥の背中。掴んでいたのは、鳥の羽毛。
自分は夢を見ているんだろうか。この、目にしみるような空の青さも、ショートカットの髪を引く風の強さも、全て幻なのだろうか。
柚香はぶんぶんとかぶりを振った。とても、これが夢だとは思えなかった。
鳥は再び羽ばたきをはじめた。彼女は振り落とされるのが恐くて、身体を鳥の背にぴったりと寄せた。いつもよりずっと近くにある太陽が、燦々と陽を浴びせる。
いったい、どこに運ばれていくのだろう。
(……どこでもいいや)
頬を羽毛にこすりつける。行きたいところなんてない。べつに、家に帰れなくたって、いい。
柚香は思考を放棄して、飛び続ける鳥に身を委ねた。
おもむろに、低い声が響いた。
「客人よ、そなたは随分と静かなのだな」
「え?」
柚香は這いつくばったまま、弾かれたように顔を上げた。
「誰?」
底抜けに明るい空に、人影はない。
「そなたを乗せている者だ」
声は──鳥は答えた。
柚香は目を瞠った。私が乗っていることなんて、知らん顔で飛び続けているこれが、私に、話しかけた?
だが、信じられないことなら、もうじゅうぶん起こっている。私はこんなに大きな鳥を知らないんだから、それが言葉を話したって不思議はないのかもしれない。
柚香は、鳥が話しかけてきたという事実を受け入れて、問いを返した。
「『そなたは』って……他にも、誰かを乗せたことがあるんですか?」
「かつて、一度だけ」
鳥は抑えた口調で答えた。彼女は触れられない何かを感じて、それ以上は訊かなかった。
「そうですか」
しばらくの間、二人は黙ったままだった。
「私がどこへ向かうのか、問わないのか」
「興味ないですから」
「私の行き先は、すなわちそなたの行く先であろう」
「ええ。別に、どこ行ったっていいです」
「行きたい処はないのか?」
柚香は、何のためらいもなく言いきった。
「ありません」
鳥はしばらく黙っていたが、ぽつりと訊いた。
「行きたくない処ならあるのか」
「どこにも行きたくはないですよ」
答えた口が、心もち尖る。鳥は、羽ばたきを止めて気流に乗った。安定した背中の上で、柚香はわずかに前に這って、鳥の首にしがみついた。
「どうした」
「羽を掴んでるより、安全かなって」
「それはつまり、落ちたくはないということか」
柚香は呆れ声で言った。
「当たり前じゃないですか。落ちたら死んじゃいますよ」
「しかし、そなたには行きたい処もないのだろう」
「それはそうですけど……」
ゆったりとした上下の動きに鳥の呼吸を感じながら、柚香は、ゆっくり言葉を紡いだ。
「今の私は、なんにもしたくないんです。死ぬことすら、めんどくさいっていうか、気だるいっていうか……。ここから、一歩も動きたくない気分なんですよ」
鳥の返事はなかった。彼女も、返事を期待していたわけではなかった。
期待も希望も、湧いてこないのだから。
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