弱き者よ汝の名は女なり(原著者:花楽下 嘩喃さん)

「To be or not to be, that is the question」


 真っ白なワンピースも似合わなければ、ハムレットのセリフも全く似合わない。鏡に向かって笑いかけてはみたものの、あまりのミスマッチに目眩がする。その姿はちょっと背伸びしてみましたなんていう生易しいものじゃなく、ほとんど仮装コスプレだ。

 それでも仮装することで心まで装えるのならば、わたしはこの妙ちきりんな格好で出かけることに躊躇はない。だけど……今回ばかりは、演ずるってわけにはいかないんだ。


「はあああっ……」


 あいつの顔を見て、冷静に告白を切り出せるんだろうか。


◇ ◇ ◇


 愛情と相性。たった一つの濁点が付くか付かないかだけで、こんなに世界が変わるなんて思ってもみなかったんだ。好悪の感情で言ったら、わたしは別れる寸前、最後の最後まで邦彦に悪感情を持ったことがない。いや……別れてからも、邦彦を恨むとか嫌うという心境になったことはない。


 じゃあわたしは、なぜあいつの別離の提案をあっさり飲んだの? しかも「なんとなく」なんていうどうしようもない理由を突きつけられたのに。


 決まってる。わたしの愛情が、相性を上回れなかったからだ。


 弱き者よ、汝の名は女なり……そんなセリフが今頃頭の中で割れんばかりに反響している。わたしが弱かった。いや、わたしの気持ちが弱かった。邦彦の隣にいたわたしは、居心地の良さに溺れたんだ。邦彦の存在がわたしを無条件に抱きしめてくれる水や空気のように思えて、それに甘えたんだ。相性と愛情を等価にできるって、勘違いしたんだ。

 わたしの情念が足りなかった分、あいつも自分の気持ちを小出しにしかしなかった。だから……わたしたちは一度も大きな諍いをしなかったのに、いつの間にか仲が薄味になったんだ。


 シルヴァスタインの『僕を探しに』。わたしは、欠けている部分が、邦彦でぴったり埋まると思ってた。二人で一つの完全体……そんな風に思ってたんだ。


 違う。


 わたしと邦彦とは、同じところが同じだけ欠けている。相似形。だから共振して、とても心地よかった。でも、それじゃ互いの欠片を埋め合うことはできない。欠片を埋めるには、どちらかが砕けなければならないから。


「ふう……」


 もう一度鏡の前に立って、自分の滑稽な姿を凝視する。邦彦が別れを切り出す前に、わたしはもう破滅カタストロフを予測してた。この似合わないワンピースは、そのちょっと前に買ったんだ。変身は、わたしにとっては賭けだった。自分も邦彦も失笑しそうなものをあえて身につけることによって、守っていたちっぽけな自我を砕く。それを突破口にして、邦彦に踏み込むチャンスを見出す……つもりだった。

 でも、本当に必要だったのは服じゃなかった。照れや引け目を踏み越えて、想いをこれでもかと言葉にする勇気だったんだよね。


 いや。後悔をしている暇はない。こうして二度目のチャンスは来た。まるで、三年前の捨て台詞が嘘か冗談であったかのような、邦彦からの突然の呼び出し。その不遜な態度に、この野郎ふざけやがってと腹を立てることは容易い。でも、三年前には腹すら立たなかった。それくらい、わたしの情念が弱かったんだ。


 じゃあ。今なら自分の全てを砕いて邦彦に捧げられる? 否。できない。それは、プライドがどうのこうのっていう卑小な理由じゃない。わたしが邦彦に捧げる情念と同じかそれ以上、わたしに心を捧げて欲しいからだ。あの時、互いに相性と言ってごまかした心の奥底の炎。それを二人分束ねられる確信が得られない限り。


 再会は、ただの同窓会で終わるだろう。


◇ ◇ ◇


 掃除する時に開け放って、そのままになっていた窓。早春のまだ冷たい風が吹き込んでカーテンを大きく巻き上げ、ついでにわたしの貧相な体躯を容赦なく引っ掻いた。全身に鳥肌が立つ。


「ううっ。これ、春服じゃないもんね。さすがに寒い……」


 わたしの格好を見て、邦彦はすぐに肩を抱いて引き寄せようとするだろう。寒いんだろって言って。でも、わたしはその手を払いのけようと思う。その前に、何か言うことはないのって。


 三年前と同じ会話に陥るようなら、わたしはすぐに帰る。今度こそ、わたしの感情は好相性という柵から生涯出られないだろうから。でも、わたしには確信に近い予感があった。

 今度は。今度こそはうまく行く。だって、わたしの心はもっと熱くなってる。もっと濃くなってる。薄笑いでごまかすなんて、もう二度としない。


 胸の高鳴りに合わせて、心臓の位置に赤い血球がぽつり。それが、もそっと動いた。慌てて鏡を覗き込む。


「あ……なんだ、テントウムシかあ。びっくりしたあ」


 開いていた窓から迷い込んできたんだろう。指に乗せて、日差しにかざす。

 レディーバード。恋人の虫。愛情という完全球体を、真っ二つに切り分けたような形をしている。だけどテントウムシが二匹いても、真球になることはないの。それはあくまで一匹と一匹。ふふ。


 まだ残っているわたしの迷いを代弁するかのように、しばらく指先をうろうろしていた真っ赤なテントウムシ。こらこら。わたしはもう、飛び立てないほど弱くないわよ。


「翔べ! ほらもっと翔べ! さっと言えば、苦もないでしょ!」



【fin】


 原典 https://kakuyomu.jp/works/1177354054885442793/episodes/1177354054885442804

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