川は流れる(セルフリライト)
昨夜から降り続いていた雨が上がった。六月に入ってあったかくなったのはいいが、代わりに湿っぽくなって気分が滅入る。腹の古傷が疼くんだよ。
降ったり晴れたりはお天道様の気分次第だが、今日ばかりは雨模様の方がありがたかったな。お天道様をまともに拝めない俺に、文句の言える筋合いじゃないがな。
俺の周りをちょろちょろ嗅ぎ回っていた連中を巻くのに、細い田舎道を縫うように走っていたんだが、やっと諦めてくれたようだ。川端の藪のなかに小汚い軽の頭を突っ込んで、目立たないように停める。助手席の窓から、日差しを受けて輝き始めた川面がちらりと見えた。その光から反射的に目を逸らす。光は要らない。
ひどく濁った川水が、あちこちで雄叫びを上げている。雨のもたらした混沌。そいつが、今日は俺の味方になってくれる。
ゆっくりと車から降り、堤防を少し下ったところで慎重に辺りを見回す。
人影はない。
まだ天気が落ち着かないうちは、出歩くやつがいない。堤防をうろうろすれば、俺だけが目立っちまう。さっさとポジションを下げよう。
膝上まで茂った濡れた草をかき分け、ダミーのデジカメ片手に排水溝の近くまで降りる。それから川上から川下に向かって、姿勢を変えながら何度もシャッターボタンを押す。俺の姿は、汚い川を撮りに来た物好きなアマチュアカメラマンに見えるだろう。だが、俺がそうするのは人の気配や動きを察知するためさ。
ぎしっ。デジカメが嫌な音を立てた。
「はん。曲がってやがる」
実際に撮っているわけではないからどんなポンコツでも構わないんだが、伸びたズームレンズの筒が微妙にひしゃげている。これじゃあ、何を撮っても俺の根性のように万事曲がるだろう。万一に備えて、中のSDカードには別のカメラでまともに撮った川の画像が入ってる。どちらもへぼ画像には違いないが、見せない画像に文句をぶちかますやつはいない。それでいい。
「不動川、か」
不動明王が来れば、俺なんざ真っ先に血の池へ叩き落とされるだろうな。だが、あいにく俺の前に流れて来るのは、だらしなく濁った川水だけだ。そいつは、俺を流し去ることも、俺の濁りを洗い去ることもできない。世の中ってのは、本当に不公平にできてるのさ。そう思うよ。
薄笑いを川面に投げつけ、草の間に腰を下ろす。今はまだ、目立つわけにはいかない。
◇ ◇ ◇
下見で何度も通い詰めたが、何度来ても川は川に過ぎない。
夏の渇水で涸れて地に潜り、梅雨や秋の長雨で
川面から目を離して、周囲を見回す。
「大丈夫そうだな」
この川は天井川だ。周囲の集落よりも高いところに流路がある。ここの堤が洪水で切れれば、下はえらいことになるだろう。だが、実際にはきっちり堤防が築かれ、砂防ダムが入って理水が徹底されている。これっぽっちの雨なら、河原が没するほど水嵩が増すことはない。ほぼ年中使える。それに、河原を俯瞰できる場所も施設もないから、悪天を選べば、下の集落の住人から見咎められる心配がない。うるさい連中をやり過ごすには格好の隠れ場所なんだよ。
「人生は川のようなもの……か。確かにそうだな」
小川だろうが大河だろうが、一度雨を受ければ川は泥で濁る。どんな清流であっても、ずっと清流のままってのはありえないんだよ。そして、人は常に清流に目を向け、濁りを忌避する。澄んだ流れに見えても水には泥が混じってるんだが、どいつもこいつもその事実から頑なに目を逸らす。だから俺みたいな汚い泥人形でも、川のほとりに潜めるってわけだ。くくく。
ぴるるるる。胸ポケットに入れていた携帯が突然悲鳴をあげて、ぎょっとする。
「ちっ。マナーにしてなかったか」
自分のドジならどやしようがない。まあこれだけ水音が大きければ、着信音が誰かに覚られることはないだろう。携帯で時刻を確認する。そろそろだ。
声を潜めて、電話に出る。
「俺だ」
「特売のギョーザ、二箱買っていいか?」
「だめだ。まだ純度が分からん。ガセを掴まされたら破滅だぜ」
「ああ。じゃあ、一箱」
「箱だけでなく、袋を確認しろ。札束と同じで、上っ端だけ実物入れるふざけたヤツがいるからな」
「分かった」
「もしブツがガセだったら、その場で始末しろ」
「うす」
ぷつ。
川が俺の前をしらっと流れていく。そうさ、何があっても川は流れるんだ。
川端にいるのが、糞でも屍体であってもな。
【 了 】
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