リライト
死神の通告(原著者:陽月さん)
日常がいつまでも変化しないと思い込んでいれば、変化することを受け入れなくなる。だからこそ、彼のような役回りが設定されているんだろう。
遠ざかっていく彼の背中から目を離して振り返ると、そこには雪崩を起こしそうな膨大な書類の山。わたしはそれを目の前にして、大きな溜息をつくしかなかった。
「これじゃ、あっちと何も変わんないじゃん」
◇ ◇ ◇
ほんの少し前まで、わたしはどこにでもいる女性事務員として、繰り返される日常の中にすっぽりはまっていた。
改札を通る前に、現在時刻と、次の電車と、それまでの時間を確認する。それは、ここ数年の通勤で身についた習慣。そういえば、そろそろ二十四時間経過なんだな。不快感とともに、あの不自然なシーンが脳裏をよぎった。
昨日、いつものように改札を通った所で、後ろから突然声を掛けられたんだよね。低い、押し殺したような声だった。
「桑原真澄さん」
自分の名前を呼ばれたら、誰だって無意識のうちに振り向くでしょ。名字だけ、名前だけでも反応するのに、フルネームならなおさら。たとえそれが全く聞き覚えのない声だったとしてもね。だから、わたしもそうしちゃったの。ちゃらい男のナンパならいやだなあと思いつつ、でもそんな声のトーンじゃないよねと訝りながら。
声の主は、黒尽くめの服を着た長身の人。わたしの知り合いではなさそうだ。中折れ帽を目深にかぶっている上に、長い黒髪が顔を覆っていて容貌や表情が分からない。背の高さと声のトーンから男の人だと思ったんだけど……。
それにしても、全身真っ黒けっていうのは異様だ。スーツ、靴、帽子だけでなくて、カッターも黒。その上黒の手袋までしている。おそらく下着も黒なんだろな。まるで黒尽くめの見本市みたい。身長は180センチ以上あるのかな。でも、男性にしては細身で圧迫感はない。
「桑原真澄さん」
変な人に声をかけられている。そういうわたしの嫌悪と警戒の表情を確かめた彼は、もう一度わたしをフルネームで呼んだ。彼が何か勘違いしているのではなく、わたしを特定して声をかけていること。わたしもそれをはっきり認識した。私服警官かしら?
「あの! わたしに何か用ですか?」
わたしの刺々しい詰問にひるむことなく、帽子を取った男が髪をかき上げた。そこに現れた顔はやけに肌の色が白く、不釣合いな唇の赤さが、わたしの意識を彼の口元に集中させた。
何一つ表情を作り出さない唇が、言葉だけを無機的に並べた。
「私は死神です。桑原真澄さん、あなたに死期を伝えに参りました」
「はあ?」
何を言われているのか、とっさには理解できなかった。むしろ、どこからわたしの名前と顔の情報が漏れたのかと、そちらの方に意識が行った。わたしの困惑をよそに、彼が一方的に話を続ける。
「あなたの命はあと二十四時間です。どうか良い最期の一日をお過ごしください」
理解が全く追いつかない。
それではと、再び帽子をかぶった男がわたしに背を向けた。ちょっとちょっと! なにがなんだかわかんないわよ! 慌てて呼び止める。
「ちょっと待ってください! それって、どういう意味ですか」
男は改めてわたしに向き直ると、帽子を取ることなく答えた。
「そのままの意味です。あなたは明日のこの時刻に、命を落とします」
「もっと、ちゃんと説明してよ!」
「それはかまいませんが、聞いても楽しくないですよ」
「楽しい楽しくないの問題じゃないでしょ?」
男はわたしの不躾なリクエストを無視せず、苛立ち混じりの詰問に丁寧に答えた。彼とのやり取りを要約すると、こういうことらしい。
死神は、間もなく生命が途絶える者に死期を伝える役割を担う。ずっと連絡が無っ方人から連絡があったと思ったら数日後に亡くなったとか、死期を悟ったような行動をとる人がいるのは、その通告があるためだと。
彼の言葉を信じるも信じないも、残りの時間をどう過ごすかも、全てはわたし次第だと。
「ご質問は以上でしょうか。では……」
返事をしない……いや返事なんかできないわたしに会釈した彼は、くるりと背を向けると雑踏の中へ溶け込んで行った。
そのあとすぐに、人々の話し声や足音なんかがどっと押し寄せてきた。そういや、さっきまでやけに周りが静かだったな……。
非現実を突きつけられた人間は、現実に逃避するって聞いてた。現実から想像上の非現実に逃げるんじゃなくて、その逆。なにバカなこと考えてるの。そんなの現実にはありえないよ。そう考えちゃう。そして、わたしも間違いなく現実に逃げたんだ。
「くっそ忙しいのに、たちの悪いドッキリ仕掛ける人がいるんだなあ。まったくぅ!」
電車。乗ろうとしていた電車は、もう行っちゃったかなあ。腕時計を確認する。
「あれ?」
時間が経ってない。思っていたほどというレベルでは無く、あれだけ会話していたのに一分も経っていない。わたし、白昼夢でも見てたのかなあ。
◇ ◇ ◇
その出来事からだいたい二十四時間。わたしはいつも通り、代わり映えしない一日を過ごした。相変わらず、能率の悪い書類作成に朝から晩まで追いまくられて。世の中いろんな作業が電子化されているのに、どうしてこういう非効率がいつまでものさばってるのかしらとぶつくさ文句を言いながら。
それは、いつもならばうんざりを一日分積み重ねるだけのこと。でも、彼の異様な通告を聞いてしまったわたしにとっては、そのうんざり感が間違いなく安定剤になっていた。
もし彼の言葉を信じて羽目を外したら、予告がうそっぱちだった時に取り返しがつかなくなってしまう。持病もないし自殺なんか考えたこともないわたしには、自分の死がとても遠いところにあったんだ。だからわたしは、自分の日常感覚の方を信じることにした。
「あ、そろそろ電車が来る」
いつものように、降りる時にちょうどいい乗降位置に移動する。そこは階段裏になることもあって普段から並ぶ人が少ない場所なんだけど、今日はわたしが先頭だった。
しばらくして、電車が入線するので白線より下がってお待ち下さいというアナウンスが入った。
電車が来る方をぼーっと見る。アナウンスからしばらくして、電車が見えた。電車がホームへと入ってくる。
わたしが電車に飛び込むこともなく。誰かに突き落とされることもなく。電車はいつものようにわたしの前でドアを開いた。
「何も起きないじゃん」
異様な緊張から解放されたわたしは、電車に乗り込もうとして。
「あれ?」
目の前でドアが閉ざされた。そのまま、電車が行っちゃった……。
「おっかしいなあ」
「おかしくないですよ」
わたしの真横で、うんざりしたような男の声が聞こえた。
「そろそろ、電車に乗ってもらえませんかね?」
「え?」
「あなたは電車に乗れないんじゃなくて、乗らないんです」
「え……と」
「あなたの記憶は、死去したところで止まっています。その先の記憶はもう作られないんです。最後の二十四時間を何度リプレイしても、どうにもなりませんよ。書かなきゃならない書類がどんどん増えるだけです」
男が背後を振り返った。そこには、うずたかく積み上げられた書類の山、山、山……。
「あなたは、冥府に行ってから山のように書類を書かなきゃならないんです。戸籍課、管財課、評価課、資料課、審問課、労務課、福祉課、知財課……全部書類を書かないと、あなたの処遇が決まらないんです。作業開始が一日遅れるごとに、その理由書も書かなければならないので、いくらでも書類が増えていく。あなたの転籍がどんどん不利になりますよ」
【 了 】
原典 https://kakuyomu.jp/works/1177354054885330674/episodes/1177354054885330681
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