Re:死神の通告(原作:陽月@luceri)

原作:https://kakuyomu.jp/works/1177354054885330674/episodes/1177354054885330681



「桑原真澄さん」


 連休明けの朝、東海道本線のホームに上がるエスカレーターでのことだった。欠伸をかみ殺しながら、うつらうつらしていると、後ろから名前を呼ばれた。はっとわれに返る。振り向くと、寿司詰めになったエスカレーターのすぐ下の段に女が立っている。狐のような女だった。どうらんでも塗りたくったような細面に、三角眉の下で重たげに伏せられた一重瞼。夕顔柄の浴衣に兵児帯を締め、手には巾着を提げている。縁日にでも行くのだろうか。周囲が学生服やスーツで埋め尽くされる中、明らかに浮いた格好だった。


「どこかでお会いしましたか?」わたしは言った。


 女は首を横に振る。


「では、わたしが何か落とし物でも?」


「桑原真澄さん」女は繰り返した。「あなたに死期をお伝えに参りました」


「はあ?」


「二四時間」女は涼しげな声で続けた。「それがあなたに残された時間です。家族と過ごすなり、遊蕩の限りを尽くすなり、このままいつも通り出勤するなり、好きにお過ごしください」


「待ってください。あなたはいったい誰なんですか」


「これは申し遅れました」女は頭を軽く下げた。「わたしは■■■■■■■■


 よく聞き取れないまま目が覚めた。どうやら、エスカレーターで立ったまま寝ていたらしい。ほんの一瞬だったようだが、それにしては長い夢だった。さり気なく後ろを窺うが、そこに立っていたのは壮年のサラリーマンだった。そのさらに後ろにはスーツと学生服の長い列。まさかこんなところで寝てしまうなんて。「ラッシュの横浜駅で将棋倒し」そんな見出しが脳裏をよぎり、冷や汗が流れた。連日の家族サービスで休暇どころではなかったとはいえ、そこまで疲労がたまっているとは思いもしなかった。


 ほどなくしてエスカレーターがホームに達した。八番線乗り場にはすでに長い列ができている。その後ろに並び、満員の電車に押し込まれ、品川駅までの二〇分間を物言わぬ荷物となってやり過ごすのがわたしの――そう、桑原真澄の日常だ。


 でも、どうしてそんなことをしなければならない?


 不意に浮かんだ疑問がわたしの足をその場に縫い付けた。後ろから、人がぶつかってくる。「死ね!」若いサラリーマンがわたしを睨みつけながら追い抜いていく。周囲の視線が一瞬だけわたしに集まり、また離れた。立ち尽くすわたしを避けるようにして人の流れが動きを変える。


 ここはどこだ?


 慌ただしく動く人の波。ぴかぴかと光る文字。電車の発着を告げる機械的な音声とと電子音。乗客を吐き出し、そして飲み込む鉄の檻。見慣れたはずの場所が遠い異国のように、SF映画のセットのように、現実感を失って見えた。この五年間、毎朝利用していた駅のホームで、わたしは遭難した。


 わたしは誰だ?


 その数分後、わたしは横須賀線の上り電車に乗っていた。考える時間が必要だと思った。品川駅に、職場に着くまでもう少し時間が欲しかった。しかし、新川崎を過ぎたあたりから荷物のように運ばれることが耐えがたくなり、武蔵小杉で下車した。改札を抜けたときに、おかしなことに気づいた。定期券区間外で降りたというのに、Suicaの利用額が〇円だったのだ。まだ悪夢の中にいるのだろうか。息が苦しくなり、わたしは南口から駅舎の外に出た。真夏のような日差し。眩しさのあまり俯き、ネクタイを緩め、腕時計を外す。できることなら、着ている服を全部脱いでしまいたかった。しかし、それはできない。ベルトが腹を万力のように締め付け、わたしを拘束する。胃の底から酸っぱいものが込み上げてきて、わたしはその場に嘔吐した。


「桑原真澄さん」


 また名前を呼ばれた気がした。われに返ると、わたしはランニングウェアのような格好で南武線の下り電車で吊革につかまっていた。ポケットの腕時計で確認すると十時半を回っている。始業の時間をとっくに過ぎていた。会社から着信があったはずだがどう対応したのか覚えていない。自分がどこを目指していたのかも。


 津田山。久地。宿河原。登戸。中野島。稲田堤。矢野口。稲城長沼。南多摩。府中本町。分倍河原。西府。谷保。矢川。西国立。立川。


 瞬く間に終点に着いた。乗客が一斉に吐き出され、車内は一瞬、わたしだけになった。折り返しでまた川崎に向かうらしい。それからすぐに、車内は乗客で満たされた。折り返しで降りもせず、ランニングウェアに革鞄を抱えた男がいたところで誰も気にかけない。間もなく電車が発車するところで腹が鳴った。何も食べる気分ではなかったが、よろよろと電車を降り、駅の中をさまよった。青梅線のホームに降りたのは、だから、まったくの偶然だった。目についた電車に乗り込むと、空いた席に座り、気づけば終点の奥多摩駅だった。


「間もなく一番線に電車が参ります。黄色い線までお下がりください」


 奥多摩駅の閑散としたホームに女声の接近放送が響く。島式の、わずかに湾曲したホームだ。線路のすぐ向こうに日吉川が流れ、市街地の奥には奥多摩の山々が屋根を連ねている。東京最西端にして、最高点に位置する、青梅線の終着駅。その標高は東京タワーとほとんど変わらない。


 間もなく午前八時。


 何気なく目をやった電光掲示板で久しぶりに時間を意識した。あれから二四時間が経ったのだなと理解する。


 昨日、奥多摩駅に降り立ったわたしは駅前でバスに乗り、小河内神社の前で降りた。五〇〇〇円札を賽銭箱に放ってこの悪夢が終わるよう祈り、ドラム缶の浮き橋を渡ると、山のふるさと村に入った。レストランやませみで蕎麦をすすり、森と湖畔を歩き、夜はテントを借りて泊まった。都会の喧騒を離れたおかげだろうか。目覚めると、少し頭が冷えていた。日付が変わる前の遁走劇が信じがたい思いだ。鳥のさえずりが落ち着いてきた頃、テントを畳み、バス停で次の便を待った。奥多摩湖のフェルメールブルーに心洗われる。昨日の自分は景色を気にかける余裕さえなかったのだと気づいた。バスで奥多摩駅へ向かう。駅に着くと、ハーフティンバーの瀟洒な構えに思わず感嘆が漏れ、不意に写真が撮りたくなった。スマートフォンの電源が落ちていたことに気づいたのはそのときだった。ホームに向かいながら、電源を入れる。家と会社からの着信でいっぱいだった。


「はい、はい、申し訳ありません……」


「すまない。本当にすまなかった……」


 ひたすら謝り通して、わたしは電話を切った。何気なく顎に手をやると、ひげが伸びていることに気づいた。服装はランニングウェアのままだ。武蔵小杉駅で降りた後、スーツをどうしたのか思い出せない。


「桑原真澄さん」気づくと、隣の椅子に昨日の女が座っていた。「最後の一日はいかがでしたか」


「ありがとうございます」わたしは言った。「あなたに名前を呼ばれたとき、わたしは目覚めました。自分が、悪い夢を見ていたことに気づきました」


「そうですか」女は目を細めた。「それならこちらも通告した甲斐があろうというものです」


「最後にもう一度、あなたの名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」


「それはじきにわかります」女は赤い舌を覗かせ言った。「わたしがあなたの命をいただくときに」


 接近放送で目が覚めた。女はいない。スーツと学生服がまばらに立っているばかりだ。電光掲示板の時計は午前七時五六分を示していた。


 横浜まではどのくらいかかるだろう。調べるのも億劫で、わたしはまたスマートフォンの電源を切った。その瞬間、手の力が抜け、スマートフォンが床に落ちた。


 からん。


 わたしは立ち上がる。黄色い線の内側に立つ。踏切警報機の音が鳴る。駅の前で、線路が緩いカーブを描いている。四両編成の電車が速度を緩め、ゆっくりとホームに入ってくる。


 電車が来る。

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