慌ただしい日々は続く――
気づけば時刻は早朝4時を回っていた。普段であれば目覚まし時計が鳴るはずであったが鳴った気配がない。とりあえず日課であるランニングへ出かけようとベッドから体を起こそうとするが体が重く持ち上がらない。それに何か羽毛布団が盛り上がっている気がする。
布団を一枚めくると、そこには真っ黒で長い髪と色白で張りのある肌がそこにあった。
「そういえば……そうだった。」
ゆっくりと上体を起こそうとしたが右腕ががっちりホールドされている。抵抗すればするほど、彼女のふくよかな胸は僕の右腕に暖かな感触を残してくる。
理性と戦うことに慣れていない僕はすぐに抵抗をやめた。彼女の絶え絶えしく静かな寝息が僕の右腕に降り注ぎ、これもまた僕の理性に針を刺してくる。
だんだんと心拍が上がり、彼女に気づかれてはなるまいと必死になるが、それもむなしく彼女の右腕が僕の上半身を抱くような姿勢へと変わっていった。
「本当は……起きているだろ。僕をもてあそんで楽しい?」
すると寝ているはずの彼女からクスッと鼻息と笑みがこぼれた。
「ばれちゃったか。有馬君おはよう。」
そういって上体を起こし天井に両手を伸ばした。
ふむ。さすが学校一の美少女だっただけはある。大人になりさらに豊満な胸とくびれ、臀部にかけてのラインは芸術作品ともいえる代物だ。
さらにスタイルだけではなく顔も良いときた。そんな完璧超人が一晩僕の部屋で、しかも同じベッドで寝たと来た。しかも全裸だ。
同級生が聞いたら発狂して僕はボコボコにされそうだ。
「有馬君。私の裸を見ながら何を考えているのかしら?やっぱり男の子なのね。」
しまったと思った。「ごめん」と左腕で視界を隠す。
「傷……だいぶ薄くなったでしょ?」
彼女の前身には左肩から右の腰に掛けて大きな傷が残っている。これは彼女の夢を奪った傷でもあり、本来僕自身が負うはずだった傷だ。
「うん。綺麗だ。」
とっさに出た言葉だった。やってしまった!と慌てて彼女のほうを確認した。
「ご、ごめん。」
彼女は顔を背けて傷を隠すように腕で覆っていた。
「……か。」
そして、そそくさと浴室へ向かってしまった。
その後は、彼女が作った朝食を二人で食べ、彼女はそのまま仕事へ向かった。
結局、僕の家に住む話はうやむやのままになってしまったが、時間のある時にきっちり話をつけよう。
やはり僕と彼女の関係は、これからも切れることはない。彼女の胸の傷が見えなくなった後も心にはざっくりとした傷として残っているからだ。
この傷は癒えない。きっと彼女は僕を本心で許すことはないだろう。また、僕も僕自身を許すことは一生ありえないだろう。
だからこそ彼女ともう一度ちゃんと話さないといけない。今までのことも、これからのこともすべて……
彼女自身もまた、彼女自身を許すことはないのだから。
僕はそう決意を改め、制服のシャツをクローゼットから取り出し袖を通した。いつも嗅ぎなれているコーヒーの香ばしい香りはなく、かすかに石鹸のいい匂いがした。
――――
鳴海さくらが僕お家に居候を始めてひと月がたった。僕とは基本的な生活リズムが違うため、朝晩の食事や洗濯はすべて彼女がやってくれている。休日も基本的に日曜日しか合わず、今後の話し合いすらまともにできていない。
彼女が住み始めて二~三日たったある日、突然花咲さんから僕の家に鳴海さくらが来ていることを問いただされた日には、花咲さんからの説教やハルさんからの茶々がやむことはなかった。
唯一の救いだったのが、マスターが一言もそのことに触れてこずしつこい花咲さんとハルさんを静止してくれたことだ。ちゃんと彼女とも話さなきゃいけないことは分かっている。けれど人間というものは、今度今度といって一度優先度を下げてしまったらそこから実行するのはとても億劫なことなのだ。
ましてや、毎日見る彼女がいつも笑顔で接してくれている。そんな彼女を見るたびに僕は罪悪感が消え安堵してしまう。
これは僕の身勝手な甘えだ。
今日も朝から常連さんたちにモーニングを振る舞う。料理をしているときは、集中しており雑念は一切入ってこなかった。しかし今日の店内の話題は、朝のニュースで有名プロ野球選手の引退や連続暴行事件の犯人が逃走中などさまざまなな情報が飛び交う中、僕が彼女と同棲を始めたという話題が独占されていた。
ツナサンドを食べる常連さんからは、「子供はいつだ」なんてしつこく聞かれるし、OLさんからは、「若いっていいわね。」とか「私より早く結婚なんて……」と深いため息をつかれてしまった。
モーニングが終了しやっと心休まる時間がやってきた。ここひと月は花咲さんがほぼ毎日のようにやってきては、僕と鳴海さくらの話をしてくる。どうやら鳴海さくらを知っていた花咲さんの知り合いとは、部活の競技が同じでインターハイで顔見知りだったようだ。彼女が大会で見かけるたび男子に告白されていたなど事細かに聞かされたそうだ。
さすが校内一の美少女なだけある。
しかし、そんな話をひと月の間ずっと聞き続けたのだ。さすがにそろそろ無心になりたかった。
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