慌ただしい一日⑥

 電車で二駅。歩いて十五分の距離に僕の住んでいるワンルームマンションがある。親元を離れこちらへ引っ越ししてくる際になるべく学校に近いところを条件にして借りたマンションなだけに周囲の住宅には学生が多い。


 僕はカフェの最寄駅から停車駅までの間、彼女のことが頭から抜けなかった。

酔えば忘れるだろうと、駅前のコンビニで適当なつまみとビールを買い込み、帰路へついた。

 コンビニから自宅への道中の坂を上り終えると一本の大きな桜の木がある。以前、この辺りは公園だったらしい。その名残なのか、住宅地となった今でも堂々とした趣でその木は僕の帰りを待ってくれていた。


 春の夜風に吹かれ、まだ咲くには早い桜の花びらが僕の目の前を横切った気がした。一瞬軽く目を瞑り、ゆっくりと目を開け桜のほうを確認した。するとそこには……


「有馬君。久しぶり。」

僕は自分の目を疑った。


 いつからそこにいたのだろう…… どうしてそこにいるんだ?

僕はあの日以来一度も望んだことも無い。

会わないほうがお互いにとって幸せだと思っていた。

でも、彼女の姿を一目見た瞬間からその否定はどこかへ消え失せてしまっていた。


「久しぶり。鳴海さん。」


 何年振りにその姿とご対面というシチュエーションの中で、僕は意外と冷静を保っていた。

実は、ディナーの料理を作っている最中花咲さんから結構彼女の話をされたりしていた。もちろん深く話せることはなかったので適当に流してはいたが、まさか今日の今日でご本人とご対面することになるなんで思いもしていなかった。しつこくされていたおかげである程度の耐性がついていたのだと思うとハルさんと花咲さんに少し恩義を感じた。


 腰まで伸びた漆黒の髪が月の光に照らされて、とても煌びやかだ。

「あら?驚いた表情の一つもないのね。五年ぶりだってのに……もっと驚いてくれると思ったのだけれど。」

なるほど。やはり彼女にとってはサプライズであったのだろう。それは申し訳ないことをした。


「実は今日、仕事先で鳴海さんを知ってる人が来たんだ。それで話に出て何となく耐性がついたというか……頭から離れなくなって」


「ふーん。私を知っている人ねー。誰だったかしら。」

「大学のサークルの後輩がね……。それにしても鳴海さ―――!」

――ん?

 突然、彼女は僕の胸に顔を当て、静かに腰へ手を回してきた。密着した彼女の長い髪からは、懐かしい石鹸のいい匂いがした。

女の子の柔らかい感触が、僕の前半身に伝わってきて心臓が張り裂けそうになった。

慌てて僕は彼女の両肩に手をやり引きはがした。

「少し強引すぎましたね。ごめんなさい。」

「そんなことはいい。僕が帰ってくるまでずっとここで待っていたの?」

「いいえ……今来たところよ。」

なんだよそれ。彼女は昔から少し抜けているところがあった。

おそらくそれは、同級生の中でも僕しか知らない鳴海さくらの一つなのだ。

「そんなわけないだろ。僕は毎日帰る時間はランダムだし……というか何でここに住んでいること分かったんだよ。」

少し怖くなって、そう尋ねていた。

「有馬君の友達に聞いたのよ。確か津田君って名前の。」

 彼女は、この僕に納得させるには十分な名前を出してきた。津田……『津田 雅彦』は、僕の地元の幼馴染だ。彼とは小学校三年の時からともに毎日遊んでいた、僕の唯一気の許せる友達だ。彼とは高校卒業以来会ってはいない。学生時代は月に一度ほど連絡を取り合っていたが、彼が地元の企業に就職してからは連絡が途絶えてしまっていた。


 当然彼も僕と鳴海さくらの一件は、知っている。そのことを知りつつも僕と距離を置くことは一切せず、普段通り友達として接してくれたことには、感謝してもしきれない。高校を卒業して僕が上京した時に、引っ越し先の住所を教えたのは、両親と祖父・それから津田雅彦だけだった。彼女がいかにして彼から僕の住所を入手し、何の目的で訪ねてきたのか……それは彼女に聞くとして、彼自身にはこの状況に至るまでの経緯を問い詰めなければならない。


「はあ……雅彦のやつ……とんでもないことしやがって」

「あら、ご迷惑だったかしら」

彼女は困ったような表情で右手を口元に当てた。

「いや、まあ来てしまったものはしょうがない。立ち話もなんだし僕の家すぐそこだから上がっていくか?」

ここでは学生たちの目につくしな……それに……

「あら、女性を簡単に自宅に上げるなんて、ずいぶん成長したのね。驚いたわ。」

……キャラがブレブレじゃないか…

彼女がクスッと笑みを浮かべた。

「それもそうね。あの有馬君だもんね。」

きみが今の僕の何を知っているんだ。と口からこぼれそうになった。

「何にせよ、上がるつもりで来たんでしょ?」

僕らは公園の名残の桜を通り過ぎ、自宅マンションへと向かった。


 その道中は緊張が戻ってきたのか、お互いに口を開くことはなかった。


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