慌ただしい一日⑤
時刻は18時を過ぎた頃、常連のお客さんが続々と顔を出してきた。カフェのある下町は夜になると飲食チェーン店の看板か地元の居酒屋の明かりに照らされている。反対側がオフィス街のせいか飲食店は少なく、仕事終わりのサラリーマンが多く立ち寄り、賑やかで昼間のとのギャップが激しい。
夜のカフェは、常連の競馬新聞と片耳ラジオを聴いている毎回コーヒーとツナサンドを頼む七十代くらいのお爺さん、仕事前のモーニング目的で通ってくれているOLさん、ノートパソコンを開いて何やら作業をしているがっちりした体格の三十代のお兄さんが僕の料理を食べに来ていた。今夜はハルさんに黒猫のハナそれに花咲さんといつもより賑やかだった。
夜11時―― 閉店
お客さんは十時を過ぎるとほとんどいなくなっていた。OLさんは、「明日もよろしくね。」と言って帰っていった。明日のモーニングは何を作ろうか、と気合の入る一言をもらえて少し胸が高まった。
花咲さんに至っては、僕が何か作るまで帰らないと駄々をこね始めたので、余っていた食材でナポリタンとコンソメスープを作って振舞った。僕が料理をするのは本当に意外だったみたいで、「すごくおいしいです。ほんとに料理作れるんですねー」なんて言って終始ご機嫌なご様子だった。
先の件が解決して安心したからなのか、食事を終えてからはマスターのコーヒーを飲みながら仕事中の僕に、ケラケラと笑いながら彼女の友人の話で独りで盛り上がっていた。
十時半頃、話も尽きたのか「じゃあ先輩、帰りますね!今日はほんとにありがとうございました。」と席を立ちお会計を終え店の出口へ向かった。扉の前で、もう一度こちらへ振り返りニコりとした表情で「また来ます。」と一言あってお店を後にした。
「君、案外モテるんじゃないの?」
今まで黙っていたハルさんが、唐突に話しかけてきた。
「気のせいですよ。ほとんどしゃべったこともない人に急に惚れるなんてことあるわけないじゃないですか。それこそ小説や映画みたいな話だと思いますよ。ましてやお宅の猫のボーイフレンドを暴いただけでモテるんなら全国の猫たちはプライベートもあったもんじゃないですよ。」
なぜか早口でしゃべってしまった。動揺でもしていたのだろうか脇から冷汗がにじみ出てきた。
「急におしゃべりになってるじゃん。結構その気があるんじゃないの?」
ハルさんのニヤけた顔を横目に洗い物をつづけた。
「そんなことないですよ。普段女性との関わりもほとんどないんで、どう反応したらいいのかわからないだけです。」
「ふーん。じゃあさじゃあさー あの子が言っていた子はどうだったのよ。」
……どの子だ?
「僕にはそんな子いないですよ。」
「あの子よ・・・確かー『鳴海さくら』さんだったかしら?」
その名前を聞いた瞬間自分の顔から血の気が引いていくのがすぐに分かった。高校卒業以来聞くことはないだろうと思っていた名前、もう会うことはない高校時代唯一の女の子の友達だった子だ。
実際にいえば友達といっても喋ったりしたのは、半年もなかったけど心の中に深く刻まれることになったのは確かだ。
だが決していい思い出だけではないのが僕と鳴海さくらの関係である。僕らは[友達]その言葉だけで片付けるには収めることはできない。これは誰にも語らない……語ったとしても誰も理解できないだろう。
「……-い。おーい君ぃ~だいじょうぶかー?」
呼吸も忘れていたようで、吐く息が見つからず咳込んでしまった。
「ゲホッ――― だ、大丈夫です。すみません。」
「ごめんね。聞いちゃいけないことだった―?もしかして昔振られたとか?」
この人はどこまで突っ込んでくるんだ。
水道の蛇口を閉め、濡れた手をふきんでふき取り洗い物を終えた。
「そんなところです。勢いよく振られたものであまり思い出したくないんですよ。」
僕は急に胸の奥が苦しくなった。ハルさんにうそをついたことでそうなったのか、彼女のことを思い出し過去の自分に対して罪悪感が芽生えているのかはわからない。ただハルさんはすべてを見透かしているような目で僕を見ている。時々その目をしたハルさんを怖くも感じた。
「それじゃあ僕はそろそろ上がりますね。マスター、戸締りよろしくお願いします。」
そう言い残すと僕はそそくさとお店を後にした。
僕を茶化してきたりペットの猫とおしゃべりしたり、普通の女性として見るのはお門違いなのは確かだ。それに花咲さんのこともだ。普段喋りもしなかったサークルの後輩がどうして僕に頼ってくるのだろう。大したことではなかったとはいえストーカーの被害であれば警察にまず駆け込むべきではないのだろうか今日は色々おかしなことがありすぎた。まずハルさんが帰ってきたこと。あの住所不定、職業不定のあの魔女は一体何をしに帰ってきたのだろう。
そして今日……なんといっても彼女のこと、鳴海さくらのことを思い出してしまった。単なる偶然にしても、もう少し前振りがあってもいいはずだ。
ふと空を見上げると、電球のように丸く明るい月が星々の明かりを遮っていた。季節も冬が明け、吹き抜ける風にも暖かな春の陽気がうかがえる。今夜の星空は、今日突如として僕の脳裏に現れた鳴海さくらという光が、僕の無数の意識のすべてを飲み込んでいるのと同じように感じさせた。
僕の心は、あの時からずっと変わらない。時間は止まったままなのだ。
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