件の館
第1話 小説家の卵
エンジン音がやけに響く車内だ。殆どこの場所を訪れる人なんていないのだろう。子連れのくたびれたような女が一人に、老婆が一人、そのバスには乗っているだけである。
相当標高が高いのだろうか、耳抜きをしないと耳が中から押されるような感覚がある。小さな旅行カバンを膝につくねんと乗せた彼は、窓の向こうに目を向けた。
眼下には田舎町が広がる。今から彼が向かう白鷺高原は、紅葉のシーズンとなると素晴らしい紅蓮の山並みが見られ、夏になれば紫や薄い青色の
彼の名は
どことなく坊ちゃん然とした色白の青年。齢は20代の後半か、高く見積もっても30を二つ三つ越えたくらいであろうか。
黒々とした質の固そうな前髪を垂らし、いかにも何か頼りなさそうなハの字眉の下にはアーモンド形の目がくっついている。
職業は、物書きだというが何せ世間に認知もされていない。探偵小説が流行っている昨今であっても、この九龍頭の名前は知られていないのである。
因みに、この風体に似つかわしくないたいそうな名前は、ペンネームではなく、本名だという。
「あっ、す……すいません降ります!」
手荷物程度のサイズの革のカバンを手にすると、九龍頭はシートから腰を上げた。憮然とした表情でちらと運転手は九龍頭を見ると、ゆっくりブレーキをかけて停めた。
「あっと、すいませんすいません」
その言葉しか知らないかと誤解されるかのように九龍頭はすいませんを連呼した。ポケットに突っ込んだ小銭入れから小銭を取り出すと、ソフトを頭にちょんぼりと乗せて九龍頭はバスを降りた。
白鷺高原
九龍頭がその場所降り立ったのは、別に旅行が目的な訳ではない。くどいようだが、九龍頭光太郎の職業は探偵小説家である。
小説のヒントを得る為の、今でいうフィールドワークというものだ。
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