雨降る日

叩いて渡るほうの石橋

雨降る日

 聞こえるのは大きな雨粒がコンクリートに打ち付けられる音と、硬い靴がより硬い地面を蹴る音。空気は湿っているのに乾いた音だけが私の耳を研ぎ澄ます。ただいま、とも言わずに鍵を開け、ただ1人で住む家にたった1人で入る。


 突如、(それは本当に急に訪れたのだが)暗闇へと足を踏み入れてしまった感覚を覚えて立ち止まった。光輝が破片の名残もとどめず吸い込まれてしまうような暗闇。底の見えない、冷たい深海のような闇。深海などこの両の目で見たこともないが、きっと吸い込まれる物らはこういう心持ちになるのだろうと思う。何もかもが持っていかれてしまう、ついに私はこれから何も持っては行けないのだ、と。そして我々は暗闇が身勝手であることを悟るのだ。暗闇に喰えぬ物などないかのように思えるほどの重みが私の肩に乗る。金やダイアモンドでさえそれは躊躇いなく喰らうのだろう、価値を知ることもなく、ただ自らの腹を満たすためだけに。そうして全てを私から奪い取ろうとするに違いない。


 はっと我に返った私は胸に急激に形成された空洞から冷え込んで行くみたいな気持ち悪さを振り払おうと、半ば走るようにしてキッチンまで急ぐ。


 冷蔵庫を物色して今日は何を作ろうか、何であれば酒に合うかなどと考え気を紛らす。仕事から帰ると私は有り合わせの食材でつまみを拵え、ひとりで酒を飲む。これが晩飯の代わりでありいつしか日課になっていった。


 今晩はビールを飲もう、と酒を決めれば自ずと料理の方向性も決まってくる。ビールだけでは味気無いな、ようし赤ワインも少し飲んでしまおう、と酒が増えれば作る料理がより明確になる。毎晩していることだがやはり好きなことを好きに考えるのはとても爽快であり、気の悪さも多少晴れる。後日食べる量も調理しない、おすそわけするでもない、これから食べる量のためだけに時を料理に費やす。私はこの時間が堪らなく好きなのだ。私なりの贅沢と言ったところか、これをするから日々仕事に打ち込めるとも過言ではない。


 熱を帯びたフライパンで音色を弾かせる肉汁、野菜の水分。まるで焚き火をしているかのように音は心地よく跳ね、さらには香ばしさを含んだ煙が空いた腹をつつく。音の変化、火の通り具合、食材の柔らかさと様々に気を配りながら工程をつなぐ。フライパンの上で踊る彼女らに目をやりつつ、彼女らを私好みの味にしていく。目も、耳も、手に伝わる感触も駆使して単純だった素材に複雑な風味を纏わせる。ある種の征服感みたいなものが私のなかに小さくあって、料理という行為を通じてそれが膨れ上がっていくようだった。言うなればこれは私と食材による性行為なのだ。それも愛し合う恋人たちによる優しいそれではなく、私の一方的な、しかも暴力的なまでに己だけが快楽に浸るそれなのだ。


 今日は1時間を少し超えるくらいの時間をかけて3品を作った。自分のために自分で作った料理ではあるが、いやだからこそか、なんとも美味そうだ。仕上げに美しく繊細に盛り付ける。写真に収めたいほどに今日は特に華麗に盛ることができたようだ、これは酒が進んでしまうな。


 料理が冷めないうちにと急いでグラスになみなみとビールを、ワイングラスにはその中程まで上品に真紅の液を注ぐ。


 ふと、見えた。


 その色が、深い紅が、ふと血に見えたのだ。人間の体内を駆け巡る赤い血液に。


 最早ワイングラスのそれより他には目が行かなかった。隣に置いてあるビールはおろか懸命に拵えた料理にも、いまは何の感情もなかった。


 ああ、私はわかってしまったのだ。暗闇は価値を知らずに貪り喰っているのではない、価値があることを知りながら断固たる態度でそれらを食するのだと。そして全て自分のものにするのだと。その数はとどまることなく増えるのだと。


 そこまで行き着いた私は跡形もなく、料理を全て捨てた。


 欠片も残すことなく丁寧に、それでいて乱暴に無造作にゴミ袋へ投げ入れた。ゴミと化したそれ、もう人の食べるものでなくなったそれはこの世の何よりもきらびやかだった。


 可笑しくなって、グラスの中身も捨てることにした。ゴミ袋のなかでビールとワインは混ざるようで混ざりきらなかった。先程まで血だったそれは今や血ではなくなっていて、料理だったものたちに液体はゆっくりと染み込んだ。


 ついには盛っていた皿やグラス、箸をも迷うことなく捨てる。私の持てる力を尽くして美しくしたそれらは全てゴミになったが、ゴミと呼ぶのが相応しくないくらいに絢爛、壮観な眺めであった。私はこれを見るために生きてきたのだとすら思え、ぞくぞくっと背中から震えた。ワインなどという偽の血ではない、私の本物の血液が沸騰してふつふつと音をたてるように、それはそれは興奮していたのだ。


 私の作り上げたゴミと呼ばれる光とそして暗闇は、どちらが勝るだろう。やはり全てを暗闇は喰ってしまうかもしれないし、もしかしたら私の光が凍える深海に灯火をつけるかもしれない。


 しかし私にはどちらが勝とうがどうでも良いように感じられた。何も考えられぬほどの満足感が私を支配していたからだ。その支配下における私は、意図と糸で操られるマリオネットなどでは決してなかった。


 眠くなってその場に横になった。布団も無しに床では寒い、といった心配は無用である。私が寝たかったら私は寝るのだ。全ては私が決めるのだ。


 世界に自分しか存在してないのではないかというくらいの静けさが空間を満たす。


 雨は既に降ることをやめていた。

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雨降る日 叩いて渡るほうの石橋 @ishibashi

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