第22話  再び名前~ユキ


 変わった事があって、嫌な事があってもバイトを休まないあたしは何なんだろうと思う。

 アヤの代わりに生きているうちに人の顔色を窺う癖がついてしまっている。何であたしはこんな生き方をしなくちゃいけないんだ。と思いながら目の前の客に「ありがとうございました」と笑顔で頭を下げる。何なんだ、あたしは。

 学校にアイラが出た日。授業を居心地悪く過ごし、放課後まで何とか乗り越えた時、ワンコがあたしの席に来て一緒に帰ろうと誘ってきた。ですよね。と内心、冷や汗を流しながら並んで帰る。校門を出ると、開口一番に「いつから付き合っているの?」と聞かれた。

「付き合っているというか」

「もしかして、まだ?」

「まだ?」

「まだ告白されていないの?」

「うん」

「ソウタは、そういうところダメだよね」

 ワンコが大きく息を「はぁ」と吐く。

「いや、そういう事じゃなくてね」

「でもソウタは親戚で小さい頃から知っているけど悪い奴じゃないよ」

 ワンコの顔が近い。目がキラキラしている。勢いに負けて「う、うん」と頷いてしまう。

「ソウタはどうでもいいミスとか、変に抜けている所もあるし、優柔不断だけどさ」

 ワンコが笑う。ソウタの保護者みたいな雰囲気だ。

「ソウタは単純だから、好きなものはずっと好きなままだと思うよ」

 返事に迷う。適当にも真剣にも返事ができない。今更、誤解だと言える流れでもなかった。誤解と言っても納得してもらえる言葉は用意出来ていないけど。

「アヤ、おめでとうだね。応援しているよ」

 ワンコに思いっきり手を握られ「ありがとう」と答えた自分を殴ってやりたかった。あたしは何で、こういう時に流されてしまうのだろう。もちろん、その日の夜はアヤの体を横にした後に内界に戻りホタルの部屋のドアをノックし、反応がない事に苛立ち、何回もノックした。

 いい加減ホタルの口から話を聞きたかった。起きるまでノックし続けてやると半ばヤケクソになったあたしの気持ちが届いたのか、ホタルの声が返ってきた。

「そうノックしなくても聞こえてますよ。入ってください」

 静かな、ゆっくりした口調。落ち着いた音にあたしの不満が溶けて薄れていきそうで「失礼します」とわざと大きくドアを開けた。

 薄いエメラルド色に塗装された部屋。家具と呼べる物はベッドしかなく、その上にホタルが座っていた。襟付きのシャツにフレアのスカートを履いている。柔らかく微笑む表情も含めて、お嬢様と呼ぶのが似合っている外見だ。

「ユキ、どうしました?」

 ホタルが手を前に出す。あたしの前に肘掛け付きの椅子が現れる。お礼を言って椅子に座り、ホタルと向かい合う。息を吸う。正直に言えば緊張していた。

 同じアヤの人格と言っても人格にはランクがある。会社で言う役職みたいな感じだ。基本的に古い人格は内界での力も強く、そしてホタルは保護人格という役職も持っている。あたしからすると完全に上司だ。ちなみに、あたしは両親が離婚してから産まれた人格で、役職もないただの平社員的な位置にいる。

「ホタルさん、あの――」

 口を閉じる。何て言えば一番伝わりやすいか自分の中で整理する。その間もホタルは黙って、あたしの次の言葉を待ってくれていた。

「あたし……ソウタに、学校に行く途中で多重人格の事を信じるって言われたんだ」

「そうですか」

「何で……ソウタに多重人格の事を言ったの?」

「私も正しかったかどうかは分かりません」

「じゃあ、何で?」

「疑われるよりも、知ってもらった方が負担が少ないと思いました」

「負担って? あたしは、学校やバイトでソウタと会うんだよ?」

「あの時は下手に言い訳をすると、ユキが疑われたままソウタ君が離れていくかもしれないと思いました」

「アイラも学校に出てきた」

「アイラが?」

 ホタルが意外そうに聞き返してくる。

 もしかして今まで知らなかったのだろうか。ホタルの目を丸くした顔つきにこっちが驚いてしまう。

 保護人格なのに? 何も異変を感じていなかった? あの時どこで何をしていたか疑問に思ったけど言葉にするのは諦めた。ホタルの責任追及する前にあたしの問題を解決する方が先だ。

「おかげでソウタと付き合っているみたいになっちゃうし」

「それは――」口元に手を当て「困りましたね」ホタルが考え込んでしまう。

「アイラが外に出る。というよりも男の人に自ら会いに行くのが不思議ですが、本人に聞いてみます。聞いて何か勘違いしているのなら説明しますし、何より勝手に外に行くのは遠慮してもらうようお願いしてみます」

「遠慮って」

「アイラなら分かってくれると思います。純粋な子ですから。学校生活は大丈夫そうですか?」

「そんなの……分からない。今までよりは、やりにくくなるとは思うけど」

「何かあったら教えて下さい。一緒に協力していきましょう」

「ソウタには勝手に打ち明けたのに?」

 ホタルの表情に僅かに影が出来る。あたしに丁寧に頭を下げ「ごめんなさい」と謝ってくる。

「本当に、あの時は時間が無かったものですから」

 ホタルに。

 自分より立場が上の人格から、きちんと謝罪され腹の底で煙を上げていた怒りが鈍い音を立てて鎮火し始める。冷静な視点が生まれ、自分の一方的な訴えに恥ずかしさが芽生えてきた。

「あたしも……ごめんなさい。言い過ぎた」

 ホタルのお辞儀よりもさらに深く頭を下げ、ホタルの返事を待たずに部屋から出た。

 その後の生活は何も進展していない。学校では時々ソウタとの関係を聞かれ、曖昧に否定し、ソウタともなるべく関わらないようにした。ソウタも同じ考えだったらしく、ここ数日はほとんど会話する事なく過ごし、今日同じバイトの仲間として顔を合わせている。

 ソウタは何も悪くない。ハヤマの時に走ってきてくれた事を思い出しても、感謝しなければならない存在なのだろう。

 だけど何故か、ソウタがむかつく。これがアヤの真似でないあたしの本来の性格なら、あたしは性悪女だ。

「あの――」

 しかも今日は何の偶然か嫌がらせか、ソウタがあたしと同じレジカウンターの担当になっていた。

「ちょっと?」

 あたしの秘密を知っている、あまり接したくない男が隣で客相手に元気の良い挨拶をしている。仕事を効率よく回している姿にイライラが増えていく。

「聞いてるの?」

 視野が狭くなっていた。ソウタという存在を気にして仕事に意識を向けていなかった。

 目の前に客が立っていた事に気付くのが遅れた。不機嫌の染み込んだ声に「あ」と顔が赤くなり「すみません」と客に焦点を合わせる。表情も雰囲気もブルドッグに似た婦人が立っていた。

 不満を遠慮なく漂わせている態度に「すみません」と再び謝る。婦人が「あなたねぇ」と厚みのある唇を開いた。

「何回も声を掛けているのに無視するってどういう事?」

「はい、その……」

「バイトだと思って気を抜いているんでしょ? 上の人はちゃんと指導していないのかしら。若いからって、ちやほやされているのかしらかねぇ」

 婦人の言葉は止まらない。しつこい文句にあたしは俯き、唇を噛んでいた。

「あなたと違って、私は忙しいの。それなのに、目の前で何度話し掛けても返事をしないって、どういう事? 気分が悪いわ。お客を馬鹿にしているとしか思えないわ」

「すみません」を相槌代わりに繰り返す。婦人が鼻穴を膨らませた。

「適当に謝って済まそうとしなくていいわよ。謝って欲しい訳じゃないから」

 じゃあ、どうして欲しいのだ。

「私はね。あなたにちょっとした態度でもお客を不快にさせる場合があるという事を知って欲しいだけよ? 分かる? 仕事の責任感という意味よ?」

 婦人の不満は収まりそうにない。むしろ、どんどん興奮しているようにも見える。普段だったら、理不尽なクレームは流せる余裕があるけど、今回は完全にあたしのミスだ。

 どうしよう。あんな事があったせいだ。学校生活もバイトも、あたしが望んでしている訳でもないのに何で、あたしだけ嫌な目に合わなくちゃいけない? 何でこう何もかもがうまくいかない――。

「お客様」

 すぐ隣でソウタの声がした。目だけ動かし確認する。ソウタが婦人に笑顔で手を上げている。

「こちらのレジへどうぞ」

 婦人があたしとソウタを交互に見比べ「もうあなたのせいで無駄な時間を過ごしたわ」とあたしを睨み、ソウタのいるレジに大股で移動した。縄張りを荒らされた犬みたいな目つきだ。

「お待たせして申し訳ありませんでした」

 ソウタが頭を下げる。婦人が頷く。顎に付いている肉も一緒に揺れた。

「本当に不愉快だわ」

「すみません。遠くから来ていただいているのに、不快な思いをさせてしまいました」

 婦人の顔色が変わった。

「あら? あなた、私の事を覚えているの?」

「先週も来て下さいましたよね。その時にご自宅が遠いと話されていたので」

 ソウタが微笑む。婦人の表情の険しさがみるみるうちに溶けていく。

「あなた、若いのにしっかりしてるわね」

「そんな事ないですよ。あ、DVDお受け取り致しますね」

 婦人からDVDを受け取り、「この映画の俳優、格好良いですよね」と話し掛け、「そうなのよ。私、このシリーズは全部観たくて」「分かります。分かります」という雑談もスムーズにこなしていた。

 魔法みたいだった。

 婦人は嬉々といった様子で料金を支払い、ソウタが婦人の手に添えるようにお釣りを渡すと頬を緩め「私、今度からあなたのレジに並ぶ事にするわ」と商品を受け取り、鼻歌混じりに帰って行った。

 婦人の背中を最後まで見送った後、あたしは口を薄く開け、閉じ、少し唇を尖らせてから「ありがとう」とソウタにお礼を言った。

 ソウタは「あのおばさん、目つき怖かったな」真面目な顔で胸を撫で下ろしていた。さっきのあたしを助けた時の雰囲気と全然違っていて、ちょっと笑ってしまった。

「もしかして怖かったの?」

「噛みつかれるかと思ったよ。ブルドッグに似ていたしさ」

「あたしは噛みつかれたよ」

「飼い主がちゃんと指導していないんだろうね」

「まぁ、あたしが悪いんだけどね」

「ごめん。俺……余計な事したかな?」

「対応上手かったよ」

「そうかな?」

 頭を掻いている。照れた仕草をしたまま、あたしを見て笑う。

 気持ちが風に吹かれた。小さいゴミや塵が転がり、どこかへ消えて行く。

「ソウタ、おばさんに好かれるよね」

「だろ? おばさんは任せてくれ」

「うん、次も来たらお願いね」

「え? 本当に?」

 笑う。

 自然な表情のままあたしは笑っていた。戸惑い、うまく整理出来ず、でも気持ちは悪くなかった。客がまたレジに向かってくるのが見えてソウタとの話を終わりにする。その後はミスする事なくいつものように仕事が出来た。

 単純だ。

 あたしの気持ちは赤ちゃんのオモチャと同じくらい単純な構造になっているのかも知れない。

 ホタルの事もアイラの事も学校の事も厄介で面倒で、まだ腹立たしい部分は残ってはいるけど、あたしの役割は変わらない。

 ソウタにあたし達の秘密がバレたのも、いつかどこかで起きる事の一つで。

 だとしたらソウタに知られたのは幸運の部類に入るんじゃないかな。今の所、誰にも言い触らしたりしてないみたいだし。仕方ないと受け入れるのも解決の方法なのかな、そんな事を一人で考え始めた。

 客の一人が今流行りの映画をソウタのレジに並び借りていき、客の流れが途絶えて一段落した。店内のBGMが繰り返し流れ、耳にこびりついていく。

 ソウタが「あれ、俺も観たいんだよな」と零した。

「何を?」

 暇潰し程度に聞く。

「さっき客が借りて行ったあの映画さ。ラストの夜景のシーンが綺麗らしくてさ、観たいんだよね」

「ソウタは夜景が好きなの?」

「好きというか。……夜景って、いつもと違って別世界の景色に見えたりしない?」

「ふーん」と鼻を鳴らす。

 あたしは夜には日中の疲労ですぐにでも寝たい人なので、夜にわざわざ動き回るのは考えられない。それに夜景を見るには高い所に行かなくちゃいけない。想像しただけで疲れる。

「そういえば映像じゃないけど、うちの学校の屋上から見える夜景も結構良いんだって」

「屋上から? 夜は校門に鍵かかっているんじゃないの?」

「裏門の入り口から入れるんだって。最近は屋上への扉の鍵も壊れて、かかってないんだってさ」

「ソウタは行った事あるの?」

 ソウタが短く首を振った。

「行きたい気持ちはあるんだけど……一人で行くにも男友達と行くにしてもさ。何か虚しくなるっていうか」

「ふーん」とまた鼻を鳴らす。

 学校の屋上であればさほど疲れもしない。

 夜の学校の雰囲気にも興味があるし、それに何よりソウタがさっき言った「いつもと違った別世界の景色」という言葉が気になった。

 内界に来たような感覚が外の世界にいながら味わえるのだろうか。

「それってバレないの?」

「先生に? 大丈夫じゃないかな? 今まで何人もやっているみたいだし、中には宿直の先生と一緒に夜景を見た人もいるみたいだよ」

「うちの学校、緩いね」

「魅力の一つだよ」

「今度行く?」

「え」

 深い考えがあって提案したつもりじゃないのに、ソウタの目が見開き、顔色がどんどん赤くなっていった。「も、もちろん」ソウタが言葉を噛む。

「い、いつにする?」

「そのうち。天気予報も確認したいし」

「そうだね」ソウタが頷き、「楽しみだな」と呟き「ユキは夜景が似合うよ」と歌でも口ずさみそうな口調で言った後に、しまったという顔をした。

 あたしの感情に怒りが戻る。

 ソウタが慌てて「ごめん、ユキ。そういう意味じゃ」と二回も名前を言い、あたしは周りが誰もこちらを見ていないのを確認してからソウタの頭を全力で叩いた。

「ユキと呼ばないで」

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