第17話 見えない壁~ソウタ


 ユキと呼ばないで。そう言われた。

 あたしはアヤだから。ハッキリ言われた。

 もちろん学校や他の目がある時はそうするつもりだったし、二人になった時に呼ぶ。そう考えていた。

 名前で呼ばれたくないのか。例えるなら、アヤはあだ名で、ユキが本名みたいなものじゃないか。俺が他の人の前でうっかり「ユキ」と呼ぶと思ったのだろうか。

 信頼されていないのか。昨日までは営業スマイルでも笑顔で接してくれていたのに、今日はにこりともしてくれない。あれが本当のユキなのか。

 俺なりに理解したい態度を見せたつもりが、向こうからすると余計なお世話だったみたいだ。ホタルにはお願いされたのに。

 後味の悪い気分のまま授業を受け、昼休みになった。友達に誘われ屋上で菓子パンをくわえる。

 昨日は家に帰って頭を掻きむしっていた。分かろうとする前に疑問が生まれ、その疑問を消す材料を探しているうちに疑問が増殖し脳みそがオーバーヒートしそうになった。

 大した悩みなんて経験せずに生きてきた事を自分で痛感した。

 もちろん誰もが自分の望んだ人生を選べるわけではない。産まれた場所、家族構成、金持ち、貧乏。それらは事前に選べない。箱を開けて違う商品が入っていても返却する事はできない。その商品を受け入れるしかない。いくら、その商品が理想と違っても。

 アヤも――。もしかしたらアヤもそんな感じだったのではないかと、ふと思った。想像していた生活と現実が違い過ぎて、でも生きるのは続けなくてはいけなくて。

 だから現実に合わせようとした結果、多重人格になった。

 環境に適応する為に進化するみたいな感じか。無理矢理な考えだろうか。

 息をゆっくり吐く。そもそも多重人格とは何なんだ。ネットで検索してみる。アニメや漫画が多くヒットしたが、ブログなどもいくつかヒットした。開いて読んで混乱した。精神病のページも覗いてみた。読んで疲れた。要は個人個人で症状が違うが、性格の違う人間が何人か交代で出てくる症状らしい。

 今までだったら信じる気すら起きなかったが、堂々と目の前で言われた。正直、実感はない。

 疑問の方が強い。でも信じるしかない。じゃないと話してくれたホタルとかいう人格に申し訳ない。

 スマホを取り出しメモ機能を開く。覚えておこうと思った。ホタルと、確か生活はユキ、アヤは閉じこもっていると言っていた。後は小さい子の事も紹介していたような気がしたが名前が出てこない。今のところ四人か。少し気持ちが落ち着く。

 これくらいの人数なら、まだ覚えていられる。後は実際に話をして慣れていくしかない。

 明日また学校で会う。向こうは警戒しているだろうか。ユキには何て話し掛けよう。名前を知ったからアヤと呼ぶのは失礼だよな――。

 そんな事を悶々と考えていた結果が今日のユキの拒絶だ。

 山に登ろうと足を踏み出したら道自体が消え、どこを目指せばいいのか分からない。そんな状態になった。

 友達との会話を意識の1割程度で返事をし続けたまま昼休みが終わるチャイムが鳴る。重い腰とため息を連れて、屋上のドアを開け、階段を降りた。どうしたら正解なのか全然分からない。

 話し掛けようにも無言の圧力で作られた壁がアヤの周りで張り巡られていた。ワンコもアヤの態度に気付いたのか、バイトの話を聞きたいのか何回か俺を見ていた。戸惑いと不安が混ざり、疲れが増している。大の字になって寝転びたくなる思いを引きずりながら階段を降りていく。

 アヤがいた。

 キョロキョロ辺りを見回し、俺を見つけ「お!」と言った。

 冷や汗が出た。

 明らかに口調が俺の知っているものじゃなかった。

 友達に「先に行っててくれ」と慌てて言う。友達が「分かった」と意味深な顔で笑い、去り際に片目をつぶり、肩を叩いてくる。全力で無視しアヤに早足で向かう。

 近寄ってくる俺の姿にアヤが全開の笑顔を見せる。朝の表情とは正反対の表情に「やっぱり本当だったのか」と改めて思った。本当にアヤは多重人格なのか。

 真正面から笑顔と視線をぶつけてくるアヤに、小声で「どうした?」と聞く。

「迷ったの」

 声が大きい。

 俺の体が凍る。マズイ。という文字が脳内を埋めていく。アヤが俺を指さした。

「ソウタを探してたの」

 変わらずの大きい声に何人かが振り向く。アヤの口を抑える。毛穴中から汗が噴き出しそうだ。

 口元に指を当て「しーっ」と言うと何故かアヤが愉快そうに「あはは」と笑った。

 誰だ。昨日メモに書いた内容を頭の中で引っ張り出す。

 ユキ。いつも学校で会っている人格だ。細かい部分になると自信はないけど、大体の性格なら知っている。違う。

 ホタル。昨日初めて会ったが、とても落ち着いていて、こんな態度をする人格には見えなかった。

 アヤ。たぶん違う。今までアヤだと思っていたのがユキだったわけだから、アヤの性格や雰囲気は分からない。だけど心の中にずっといたアヤが、こんな堂々と大きい声を出しながら俺に会いに来るだろうか。この目の前のアヤはどちらかというと幼い子供みたいな反応をしている。

 もしかしたら、あの、泣いていた時に出ていた小さい子か。

 俺の真似をして「しーっ」とやり返してくるアヤに「名前は?」と尋ねる。

「アイラだよ。お腹すいた」

 宣言するかのような口調。お腹に両手を当て、しっかりアピールもしている。周りの生徒から笑いの漏れる音がする。その音に呆れや嘲笑が混じっている気がして俺の顔の温度が上がる。

「とりあえず分かった。あのさ――アイラ? 授業始まるから、ユキいるかな」

 耳に口を寄せ、囁くように聞く。

 アイラと名乗った子の頬が勢い良く膨らんだ。

「お腹がすいたの」

 声が先程より大きい。口を塞ごうか迷い、手を広げ、周りの目線がまだある事を思い出し、何も出来ずに無駄にアイラの前で手をひらひら振る。

「いや、その前にユキをさ」

「お腹がすいたの!」

 訴えが繰り返される。頑固だ。この場から逃走したくなる。昨日のホタルの説明が無かったら、訳が分からなくて逃げ出した自信がある。

 頬を膨らませたままのアイラに「ちょっと声を小さくしてね」とお願いする。

「どうして?」

 アイラの口が尖る。機嫌は悪いままだ。

「ええと……大きい声で話すと周りが、その……驚いちゃうと思うんだ」

「どうして?」

 アイラの怒涛の質問がループになりそうな予感がする。廊下を歩いている生徒達の様子が気になる。廊下の真ん中で話しているというのもあるが、アヤが男と話しているという光景は興味を引くのだろう。通り過ぎた生徒から、「いいな」と勘違いの呟きが聞こえる。

「大きい声だと、変と言うか、小さい子みたいと言うか……何と言うか」

 頭を掻く。どう言えば、傷付けずに伝える事が出来るか迷ってしまう。アイラが「小さい子?」と聞き返してくる。

「うん……小さい子と言うか」

「アイラはまだ背は小さいよ?」

「うん、そうだね」

 アヤの現在の身長の事なのか、アイラの本来の身長の事なのか分からず曖昧に頷く。アイラが「赤ちゃんみたいって事?」と丸い瞳で聞いてくる。

「いや、赤ちゃん……みたいと言うか」

 本音をストレートに言われ、変な汗が出てくる。そうじゃないよ。そうだよ。どちらの返事が正しいか舌が咄嗟に動かなかった。アイラの口が小さく開いた。

「アイラは赤ちゃんじゃないから声を小さく出来るよ」

 小声よりは大きめな声だが、最初の声よりは随分小さくなった。間違いなく怒ると思っていたのに、アイラの表情は得意気な顔つきに近い。赤ちゃんではないというプライドが高いのかも知れない。

「ありがとう、アイラは偉いね」

「うん、アイラは偉いよ」

 迷いなく頷くアイラに、アヤとは違った可愛さを感じてしまう。

「さっき、アイラはお腹空いていると言っていたけど」

「うん、そうだよ」

「お昼ご飯、食べなかったの?」

「何で? 近くにソウタがいないから探したんだよ」

 答えになっていない答えに「ええと」と視線を迷わせる。

「どうして?」

「ソウタとご飯食べるの」

「うん?」

「アイラはソウタとご飯食べるの」

「ご飯?」

「うん、ソウタと」

 アイラが笑う。

 時間が気になった。スマホを取り出す。間もなく昼休みが終わる時間だった。

「今は無理だよ」

「どうして?」

「俺もアイラと食べたいんだけど、もう時間がないんだ」

「どうして?」

「どうしてって……授業がそろそろ始まる時間だから」

「じゅごう?」

 アイラが怪獣の名前みたいな単語を口にする。

「じゅぎょう、ね。授業。お勉強する事」

「お勉強じゃ、お腹いっぱいにならないよ?」

「いや、そうだけど」

「アイラはお腹が空いた」

「うん、そうだね」

「アイラはお腹が空いた」

 アイラの主張は変わらない。疲労が一気に襲ってくる。表情や態度に出そうになるのを深呼吸して抑える。小さい子に不満を見せるのは高校生として恥ずかしい。

 アイラの唇が尖っている。「お腹が無くなっちゃうよ」という意味不明なクレームをぶつけてくる。小さい人格に理屈で説明するのは無理だと実感した。

「分かってる。分かってるけど、せめて学校が終わってからじゃないと」

「学校終わらないと食べれない?」

「うん。悪いけど……そうなるかな?」

「学校終わったら一緒に食べてくれる?」

 渋々と納得してくれそうな様子に安心する。

「ああ。……学校終わってからだったらいいよ」

「ならケーキ」

「え」

 聞き返す。

「アイラはケーキが良い!」

 声が再び大きくなる。脅されるように俺は両手を広げ「分かった、分かったから」と繰り返した。

「学校終わったらケーキね」

「本当? 約束だよ」

「約束。後でケーキ食べさせてあげるから」

「本当?」

「本当。だから」

「ソウタは話が分かる男だね。アイラも良い子にしてあげましょう」

 俺の腕に絡みつき、満足気な表情で見上げてくる。

 周囲から好奇な視線を飛ばされ、この危険な状況に冷や汗を垂れ流し、アヤの体に密着されている状態に鼻穴が広がりそうになるのを我慢する。。時間と場所が違えばもう少し、味わっていたかった。深呼吸を何度かし、欲望を胸の奥に押し込む。アイラの機嫌を損ねないように頭を撫でながら

「アイラは良い子だもんね」

「そうだよ」

「だからね? そろそろユキに」

「アヤ?」

 呼ばれた。顔を上げる。

「ひっ」と悲鳴が出そうになる。

 ワンコが俺達を見つめ、何故か感動と喜びが混じった表情を顔中に塗りたくっていた。

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