第15話 飲み込めないもの~ソウタ


 アヤが穏やかな表情のまま口を開いた。

「いきなりの話になります。混乱させてしまうと思います。ごめんなさい」

 申し訳なさが皆無の涼しい表情でアヤが言う。

「ソウタ君は多重人格というのは知っていますか?」

 クイズのように聞かれた。

 漫画やゲームで名前くらいは知っている。確かこの前そういう番組をテレビでやっていた気がする。

「……一応は」

「アヤがそれです」

「それ?」

「詳しく言うと解離性同一性障碍と呼ばれているのですが、一般的には多重人格の方が有名みたいですね」

「え? かいり? え?」

「アヤは多重人格です」

 アヤを、恐らくはアヤではないアヤを見つめる。

 私は宇宙人だ。と似た発言に返事を見つけられない。

「アヤが?」

「はい」

「ええと、多重……人格なの?」

「はい、そう言いました」

 返事は変わらず短く淡々としている。冗談を言っているように聞こえない雰囲気に言葉が出るのが遅くなってしまう。

「……もしかして冗談とか例えとか、そういう意味の多重人格?」

「いえ」

 短く首を振られる。「残念ですが違います」そう否定される。頭痛が起きそうだ。妄想の話を真顔で言われ、脳が止まりそうになる。

 こめかみを押さえる。「話、理解できそうですか?」とアヤに心配された。

「たぶん、何とか……その。多重人格って病気なんだっけ? 病院で言われたの?」

「小さい頃、病院でそう診断されました。ユキ――生活担当として産まれた人格がいるのですが、そのユキが早い段階で役割に慣れ、生活をうまくこなしてくれるようになったので、病院には行かなくなくなりました」

「ごめん。その……ちょっと難しいかも」

 正直に降参する。アヤが頷いた。

「そうですよね」

「いくら、その……人格? と言うのかな? 人格が代わりに生活出来たとしても、母親には分かりそうなもんじゃないか」

「もちろん、異変を感じたから病院に連れて行かれたのでしょうね」

「ああ」と返事を漏らす。俺の返事を予想していたのか、すぐにアヤが口を開ける。アヤは俺と違って軽やかに話す。

「でも、多重人格と診断されるとは思わなかったのでしょう。最初に病院に行った日から、私達はより注意し、疑問を持たれず生活できるよう努力はしましたが、結果としては――母親が信じようとしたことが、治療に繋がらなかった一番の原因だと思います」

「信じようとしたこと?」

「娘が笑顔で、大丈夫。もう何ともないから。と言えば母親としては信じたい気持ちが強くなるのが当然だとは思います。やっぱり多重人格なんかじゃなかった。もしくは、治ったんだ。そう信じて楽になりたい気持ちがあるでしょうから。アヤの母親は多重人格という病気を受け入れなかった――というよりは、理解できなかったんだと思います」

 言い方に少し怒りが滲んでいる感じがした。アヤの顔は変わらず微笑んでいる。

 俺の目線に「良く分からない」という意味が含まれていると思ったのかアヤが「そうですね」と顎に手を添えて呟いた。

「例えば――。さっき、いつもと違う感じはしませんでしたか?」

「さっき?」

「ハヤマという男に言い寄られた時です」

 ハヤマという名前に唇を噛む。自分への不甲斐なさとハヤマさんへの嫌悪が喉の奥から這い上がってきそうになる。

 バイトをしていた時間から今までに起こった出来事を掘り起こし並べ替え、整理してみる。

「いつもというか。凄い怯えていたし、泣いていたからかもだけど――」

 言葉を探す。「だけど?」と催促された。

「雰囲気が違う気がした。俺の知っているアヤは、たぶんだけど泣いてもあんな泣き方はしない」

 あの泣き方は、何度思い出しても小さい子供の泣き方にしか見えない。女の子だとしても高校生の泣き方にしては違和感がある。「後は」と俺は言葉を続けた。

「アヤじゃない違う名前を言ったりしていたし。それに」

「はい」

「そのことを無理に誤魔化そうとしているというか、隠そうとしている感じがした」

「そうですか。ちなみに私は?」

「口調というか、あなたも雰囲気が違う」

「正解です」

 合っていたらしい。やはり、これはクイズなのか。

「アヤの代わりにいるのが私達で――先程言いましたが、いつも学校で会っているのがユキ。私はホタルという」

「いや、ちょっと待って」

 そのまま続きそうな話に手を広げ、一度中断してもらう。

「どうしました?」

 ホタルというアヤの眉が動く。

「ユキって生活担当? だっけ? ……そうか、学校も生活か。それで、その学校で会っているのはアヤじゃないの?」

「アヤは閉じこもっています」

「どこに?」

「心の中に」

 ホタルがトントンと胸を叩く。

「心?」

 何だ、それは。

 いつの間にか開いていた口を慌てて閉じる。

 全ては心次第と言うのか。メルヘンみたいなファンタジーな世界だ。

「現実を拒否し、心の中に逃げたままです」

「逃げたって、どうして?」

「良くある話かも知れません」

 ホタルが笑う。その笑顔は本当に笑っているのだろうか。ふと、そんな事を思った。

「アヤの父親……あ、今は離婚していませんが、昔アヤが小さい頃、父親に暴力を振るわれ続けました」

「え?」

「暴力です」

 俺の疑問にホタルが笑ったまま「暴力」という単語を繰り返す。

「暴力?」

 つられるように呟く。ホタルが頷く。

「文字通り、暴れる力ですね。あれは凄いですよ。別の意味で感心します。そんな感じで家で父親が熊のように良く暴れるものですから幼いアヤには逃げる場所が必要だったのでしょうね」

 淡々と。聞いた事を話すようにホタルが俺を見ながら話を続ける。そこに何の気負いも熱もない。

「アヤは生活する上で身体を守るよりも心を守るために現実を否定しました。こんな思いをしているのは私じゃないって」

「どうして?」

「何が、ですか?」

「どうして、その、身体より心を優先したの?」

「どちらの傷が治りにくいか考えた……と言うより単純に生きる為でしょうね。皮肉な事に」

 その瞬間、一瞬だけホタルから笑顔が薄れた。ホタルの口が言葉を繋いでいく。

「そしてアヤは心に世界をつくり、そこに逃げた。その時からアヤの身代わりになって虐待を受けていたのがアイラという人格で、それと同時に、私もアヤを守るという役割を持って産まれました。ユキは両親の離婚後に産まれた人格で、虐待の記憶を持ってはいませんが、怯えが無意識的に、絶対的に体に刷り込まれています」

 ホタルの言い方は、自分の体の事なのに憐れんでいるような言い方に聞こえる。

「怯え?」

「トラウマを持っていないユキでさえも、男性にいきなり触られる事が怖いんです」

 朝、アヤの肩を触った時の驚いた表情を思い出した。小動物のようなリアクションには、詳しく言うと驚きだけでなく恐怖の感情も混じっていたのか。

「……そうなんだ」

 自己嫌悪の波が打ち寄せてくる。知らないうちに俺はアヤに嫌な思いをさせていた。自分のお気楽さに落ち込む。顔を下げ「という事は」と顔を上げた。

「アヤって今まで付き合った事がないのか?」

 俺の質問が不意打ちだったのかホタルの表情から力が抜けた。俺の口調に何かを感じ取ったのか「ああ」と息を漏らす。

「今までも何人か仲良くしようと頑張ってくる男子がいて、その度にユキが対応してくれています」

 相変わらず淀みなく話すホタルに「仲良く?」と続けて聞いてしまう。

「はい。アヤの見た目は悪くないみたいですね。告白? と言うのでしょうか? 好きだとか、付き合って欲しいとか、良く言われました」

 ホタルが他人事のように楽しそうに目元を和らげた。

 ユキはその時、どう返事をしたんだろう。どんな気持ちになったんだろう。ユキは告白を全て断ったのだろうか。それとも誰かとデートくらいはしたのだろうか。デートした奴はアヤが多重人格だと知っていたのだろうか。

 ホタルが俺の顔を見て「分かりやすくて良いですね」と小さく吹き出した。

「ここまで来ると純粋さは長所ですね。ソウタ君はもしかして心配していますか?」

「心配? 何を?」

 ホタルの余裕のある視線を見る事が出来ずに、足元、空、街灯に目を動かす。

「この体が誰かと付き合った事があるか。……知りたいですか?」

「いや、そんな。でも……付き合った事くらいはあるんじゃない?」

「どうしてですか?」

「……いや、何と言うか」

 アヤの顔に、可愛いから。と直接言うことに躊躇ってしまう。

「大丈夫ですよ。誰とも付き合った事はありませんから」

 簡単に俺の予想を否定するホタルに「どうして?」と聞き、「分かりません」と返ってくる。

「返事をしたのは私じゃありませんから」

 微笑む。その返事は単純で、分かりやすくて、困る。

「という事は返事をしたのはユキなんだ?」

「正解です」

 また合った。俺は今、ポイントがいくつなんだろう。

「ユキは、その……誰かに支えて欲しいとか、思わなかったのかな?」

「どうでしょう」

 ホタルが曖昧に流す。

「ユキが誰かに対して恋愛感情を持ったことがあるのかは分かりませんが、ああ見えて彼女は真面目です。アヤの代わりという意識が強いのかも知れません。その意識のせいで、アヤを好きだと言ってくる人の気持ちをアヤじゃない自分が受け取るのは、おかしい。そう思っている気はします」

 ユキはアヤの代わり。ということは、アヤが心の中から出てきたら、ユキはもう出て来なくなるのか?

「アヤは……いつ出てくるの?」

「さぁ?」

 ホタルが首を傾ける。表情が変わらないせいか、マネキンの顔がバランスを崩したような印象を受ける。

「それは私達にも分かりません」

「アヤの代わりなのに?」

 矛盾を追及するように質問を投げる。

 私達は、アヤの中にいる他人ですから。

 淡々と異常な事を。非現実的な事を、原稿を読むような感情のない説明に呼吸を忘れる。

 本当に?

 と言うか、どこからどこまでが本当?

 ホタルが髪を掻き上げる。茶色い柔らかい髪が細い指の隙間から流れる。

 それだけの仕草なのに、つい見とれてしまう。

「この話を信じなくてもいいです。信じても関わりたくないと思うなら、それでもいいです。ただ誰にも言わないで下さい」

 ホタルが俺の目を覗き込む。普段見慣れた目より、落ち着いた目つきは俺の思考まで見透かそうとしているみたいで少し怖い。

「もし誰かに言ったらアヤは恐らく自殺します。小さい頃のアヤだったら出来なかったでしょうが、今は破壊人格と協力して死ぬ選択肢もありますから」

「じ? 破壊?」

 むせた。唾が気管に入ったらしく激しくむせた。咳を繰り返しながら「自殺?」だけを何とか言う。

「自殺するって、アヤは心に閉じこもっているんじゃなかったの?}

「閉じこもっていたとしても、何も出来ない訳ではありませんよ」

 この体も心も本来はアヤだけのものですから。何もしない振りをし続けているのかも知れません。胸に手を当てホタルがそう説明する。

「こんな訳の分からない事に関わらせてしまって、ごめんなさい」

 ホタルが頭を下げる。同時に立ち上がる。

「もし聞きたい事があったら連絡してください。私はそろそろ帰りますね」

 親が心配するといけないですから。

 そう言って歩き出す姿は、さっき気絶したとは思えないくらいしっかりしている。

「あ、そうだ」

 ホタルが振り返る。

「話を最後まで聞いてくれて、ありがとうございます」

 微笑んだ。

 街の光に浮かぶ笑顔は幻想的で現実的には思えなくて。

 俺はただ片手を上げて見送った。

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