第12話 掌の汗~ソウタ


 電話がかかってきたのはアヤと別れてから、すぐだった。登録していない番号に警戒と期待を持ち、いくらなんでもアヤからの電話ではないだろう。と自分に呆れるように言い聞かせ、スマホを耳に当てた。雑音がひどい。「もしもし」と口を開くも返事はない。やっぱりイタズラ電話か。期待が萎んでいく。


 もう一度「もしもし」と適当な口調で尋ねる。遠くから話し掛けているような音量で声がする。耳を澄ます。アヤの声だ。萎んでいた期待の色が鮮やかになる。


「アヤ、何かあった?」と聞き、そこでアヤ以外の声も聞こえている事に気付いた。


「――アヤちゃん、怒らないでよ」


 顔と頭が冷たくなった。


 感情が細かな泡になり、炭酸のように体を刺激する。足が違う生き物のように勢いよく地面を勝手に駆けていた。


 ハヤマさんの声だ。


 さっき通ったばかりの道を全力で戻る。早足で歩いてしまったことを後悔する。さっきの道まで、微妙に距離があった。


 急ぐ。ちゃんと進んでいるのか。足が宙に浮かんでいる錯覚に包まれ、足元を確認しバランスを崩し、転びそうになる。


 街角を曲がる。


 人通りのない道でハヤマさんとアヤが向かい合っている。


 ハヤマさんがアヤの両肩に手を当て、笑っている。怒りが全身を支配した。「アヤ!」と叫び、近付く。ハヤマさんが「ん?」と俺を見てアヤの肩から手を離した。その隙に素早くアヤの前に立つ。


「何だよ。格好いいね」ハヤマさんに笑われる。「何しているんですか?」見つめる。興奮か走ったせいか息が落ち着かない。


「アヤちゃんに用事があっただけ」


 ハヤマさんが腕を組み、眉を寄せる。


「それで? ソウタ君は何しに来たのよ?」


「アヤが心配で」


 俺の背中にいるアヤを振り返る。よほど怖かったのか、顔は俯き、両腕で自分の体を抱きしめて震えている。


「いやいや」ハヤマが大きく片手を振る。


「心配ってさ。あんた、アヤちゃんの何? あんま関わりないでしょ? 関係ないじゃん。勘違いはダサいよ」


「アヤが嫌がってます」


「は? 何で?」


「さっき店でやって、まだ懲りないんですか?」


「何を? 何もやってないって。それともソウタ君はやりたいの? アヤちゃんをそんな目で見てるの?」


「やめてください」


 頭を下げる。「もう今日は帰ってください」手を固く握る。そうでもしないとハヤマさんを殴ってしまいそうだった。


「は?」


 ハヤマさんが不機嫌な音を出す。


「お前が決めるなよ。俺はアヤちゃんに用事があるの。勘違いなお子様ソウタ君の方こそ帰ったら」


 唾が飛ぶ。タバコの匂いが漂っている。


 臭い。人として臭い。歯を噛みしめる。ぎちぎちと耳障りな音が響く。


「帰りません。勘違いでも良いです」


「は?」


 ハヤマが俺の顔を覗き込み、次に目を逸らし、舌打ちをした。ため息というよりは言葉に近い「ああ」をわざとらしく発音する。


「ソウタ君、彼氏気取りはダサいよ」


 口元を歪め、俺の後ろにいるアヤを爪先立ちで見るように鼻の下を伸ばした。


「アヤちゃんは、さっきから俺とまともに話してくれない感じだし。というか無視しているしさ。今日のアヤちゃんはダメだね」


 俺の肩を軽く叩き


「ソウタ君の熱血にも何か気分悪くなったしさ。だからお礼ね」


 腹を思いっきり殴られた。痛みが走り、息が詰まり、腹に手を当てる。


 俺の姿にハヤマさんが手を上げ、「じゃ、俺帰るわ」背中を向け歩いていく。一度だけ「あ、そうだ」と振り返り「アヤちゃん、またね」甘ったるい声で手を振り、去って行く。


 俺は腹に手を当てたまま「アヤ?」と後ろを向く。


 アヤはさっきと同じ格好で体を両腕で抱きしめていた。視線が合わない。地面を見て小声で何か話している。魚がエサを食べる時のような口の動かし方だ。力無く、機械的に唇が動いている。


「アヤ?」と腕に触り、顔を覗き込む。


 アヤの体が電気に触れたように跳ねた。目に感情が湧き、色が出る。そして俺を見つめ表情が壊れた。


「――ごめんなさい」


 泣かれた。小さい子供みたいに目の端に涙が溜まっては頬に流れていく。


「ごめんなさい」繰り返している。どうすればいいか分からず頭を撫でる。

 涙が止まらない、アヤの体は震えている。


 困惑し、躊躇し、ゆっくりゆっくりアヤの体を抱き寄せた。


 喉が渇く。顔が熱い。絶対赤くなっている。こんな所を知り合いに見られたら。という弱気な考えが申し訳なさそうに顔を出す。腹の痛みはいつの間にか消えていた。アヤの涙が服越しに伝わってきて、温かくて、そしてすぐに冷たくなった。


 アヤの頭を撫で続ける。「大丈夫だよ」と言いながら撫でる。


 アヤが泣いている。幼い子供のように声を上げて。


 何も知らない時の優しさは向こうからすると自分勝手なはずなのに、俺自身は満たされていた。


 アヤが顔を上げる。濡れた瞳を正面から見つめる、綺麗だった。


「ごめんなさい」


「大丈夫だよ」


「ごめんなさい」


 この会話はいつまで続くんだろうと思いながら「大丈夫だよ」を繰り返し、頭を撫でる。アヤが「もう――」と違う言葉を紡いだ為、撫でていた手を止めた。


「アイラは痛いのは嫌なのに」


 アヤの目が閉じる。体の力が抜けた。糸の切れた人形になって俺に体重を預けてくる。「え」と自然に声が出る。足に力を入れ、アヤを落とさないように体勢を整えた。


「――アイラ?」


 呟く。


 聞き間違いかも知れない。ただ聞き間違いと自分を納得させるには色々違和感が積み重なっていた。アヤの体は細く、柔らかく、簡単に壊れてしまいそうで。少しずつ手の位置を変え、両手で抱える。お姫様抱っこの格好だ。道の脇に木製の古びたベンチがあった為、ガラス細工のように丁寧にアヤを置く。


 まだ目を閉じたままのアヤの隣に座る。体に溜まったままの感情を抜くように大きく息を吐き、空を見上げる。濃い色が一面に広がり、垂らし過ぎた絵具のようにだんだんと黒に近付いていくのが分かる。視線を下げると気の早い街灯がポツポツと顔色を窺うように暖色の光を灯し始めている。


 殴られた部分を服をめくり確認する。赤くはなっているが薄い。もう一時間もすれば赤みも消えそうだ。


 ハヤマさんに次会ったらどうしよう。


 本当に面倒くさい。どうせ気まずい思いするなら、さっき殴ってやれば良かった。知らない間に握っていた自分の拳を開く。汗をかいていた。興奮からくるものではない事くらい分かっていた。俺は小心者だ。


「あれ? ベンチだ」


 アヤがゆっくりと目を開け、飛び起き、呟いた。周囲を見回し、様子を確認している。「起きた?」と声を掛ける。


「うん。心配かけてごめんね」


「大丈夫?」


「何が?」


 アヤはさっきまでの号泣が嘘のように落ち着いている。


「泣いていたから」


「泣いてないけど」


 また嘘を吐かれた。バイトで泣いていた時と同じ返答だ。さっきは、ハヤマさんを遠ざける為の演技かと思った。でも今回は違う。本当に怯えていた。ハヤマさんが去ってからも、気絶するほど怯えて泣いていたのに――。


「……覚えてないの?」


「何が?」


「泣いていた事」


「ああ……うん。大丈夫。平気だから」


 答えにならない返事をし、いつもの営業スマイルを浮かべる。俺の中で疑問と不安の混ざった塊が産まれた。


「怖かったみたいだね」


「うん……まぁね」


 アヤの目がゆっくり泳いだ。そのぎこちない動きを見つめて俺はわざとらしく、ため息をついた。


「噂には聞いていたけど、あんなしつこい人だとは思わなかった」


「え? ああ。本当だね」


 アヤが慌てて同意する。感情の見えない言い方に疑問が強くなる。息を吸う。緊張が膨らんでくる。


 試してみようと思った。


「あ、でもさっきはごめん」


 苦笑いを浮かべて謝る。アヤは止まりそうな表情なまま「何で謝るの?」と流す。


 俺は頭を下げた。


「アヤを抱きしめたから、その……ごめん」


「え」


 アヤが固まった。俺を無表情で見て、指先同士を忙しく擦っている。


「抱きしめた?」


 言葉の意味を確認するように聞いてくる。


「やっぱり嫌だった?」


「どうして、あの――」


「アヤが泣いていたから」


「泣いていたからって」


「覚えてるよね?」


 アヤが黙る。口を閉じ、息を吸い込み、飲み込んでいる。


「……覚えてる」


 不満が体中から溢れそうな態度で頷く。俺の中の感情の塊が大きくなる。


「アヤ、嘘だよ」


 笑いを浮かべる。アヤと同じ営業スマイルだ。


「嘘?」


「抱きしめたというのは嘘だよ。アヤをからかっただけだよ」


 アヤの表情が軽くなった。不満というガスが抜け、いくらかすっきりした顔になる。


「だよね。ソウタがそんな事をするはずないし」


「それも嘘だよ」


 感情の塊に違和感が追加され、堪えきれなくなる。「嘘?」と混乱しているアヤに向けて、疑問を吐き出す。


「抱きしめてないというのが嘘なんだ」


「うん……」


 アヤが苦笑いと焦りを混ぜた声を出す。目線が落ち着いていない。


 普段なら馬鹿馬鹿しい質問をあえてする。


「アヤだよね?」


「ソウタ、何言ってるの?」


 俺に向けて「ふふ」と笑いかけ、俺が真顔のままだと分かると、また黙った。「えーと」とこの沈黙から逃げるように顔を上げ、


「何言っているの?」


 アヤが何故か泣きそうになっている。


 俺はアヤから目を離さないまま「アヤは」一度言い掛け、唇が乾いている事に気付き舌で舐めて湿らせた。


「アヤは誰――?」


 アヤは黙っている。苦痛に耐えるような表情で体を強張らせている。


 止まった時間を動かすようにゆっくり瞬きをする。目つきが柔らかくなった。体の緊張が解けたように深く座り直し、両足を揃えた。


「――その前に」


 アヤが言う。さっきまでとは違う迷いのない通る声だ。


「あなたの名前はソウタ君と言う名前で良かったですか?」


「は? ソウタ――君?」


「はい。私はあなたと会うのが初めてなので、自己紹介をしようと思いまして」


 アヤが微笑む。大人びた空気に俺は唾を飲み込み、自分の手を強く握った。


 会話を続ければ何かに関わる。そんな気が何故かした。


 関わる覚悟があるのか。


 目の前のアヤにそう聞かれている気がした。


 息を深く吐く。逸らしたくなるアヤとの目線を我慢して合わせる。


「俺はソウタ」


 言った後で語尾が震えてなかったか気になった。アヤの雰囲気は相変わらず落ち着いていて静かだ。


 握っていた手をゆっくりと開いた。

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