第11話 洞穴~ユキ
バイトの時間が終わり、店員に「お先に失礼します」と挨拶をし、店を出た。目元を触り、ピリピリとした痛みにうんざりする。
アイラは役割というか、無意識に出てしまったのだと思う。おかげでハヤマに襲われずに済んだけど、ソウタの目の前で交代してしまったから変に思われたかもしれない。笑顔の仮面で誤魔化すのは得意だ。でもあたしは、笑顔以外の仮面は持っていない。
あたしは父親に虐待された記憶は一切持っていないのに、それでもアイラの持つトラウマのせいで手が震えて力が入らなかった。まさかバイト中に出てくるなんて。
後ろから「アヤ、お疲れ様」と声がした。
振り向く。ソウタがいた。店の制服ではなく私服になっている。
「あれ? バイト終わったの?」
驚きで声が震えそうになるのを抑えてソウタに尋ねる。
ソウタが照れたような苦笑いの表情で、あたしの横に並んできた。
「ちょっと用事があってさ。途中まで一緒に帰らない?」
誘われた。
本音は遠慮したい。でも断る理由が見つからない。とりあえず「用事あるなら急がなくていいの?」と心配してみる。「大した用事じゃないから」とソウタが即答する。
ならバイトを早退するな。
夕方にしてはまだ陽が高い道は人の数がまばらで、寂しさと穏やかさが弱い風に吹かれて漂っている。ソウタが、この景色に合わせたように静かに口を開く。
「大丈夫?」
「うん、平気」
何に対しての質問かは分からないまま、そう返事をする。
「そう」とソウタが仕方なくといった感じで口を閉じ「何があったの?」質問を再開する。
「別に何も」
「指、震えてたよ」
仮面の穴からソウタを見てしまう。ソウタの眼差しに無意識に目を逸らす。
「大丈夫。相手も本気じゃなかったと思うし」
「アヤがそう思っても相手がそうじゃないかも知れない」
「大丈夫だよ」
繰り返す。
心配を押し付けられても迷惑なだけだ。
「俺はアヤとそんなに話してなかったし、頼りないかも知れないけど――」
「大丈夫」
「何か放っておけなくてさ」
足を止める。
あまりのしつこさに、あたしの表情から笑顔が薄れる。仮面が取れる。
ソウタと向き合った。ソウタの眼差しはさっきと変わらない。困るくらい真っ直ぐで、実際にあたしは困った。
「ありがとう」お礼を呟き「でも」否定の言葉を言う前にソウタがメモ用紙の切れ端を渡してきた。電話番号が走り書きで記してある。
「気が向いたら連絡して。コンビニ利用するくらいの気軽さで良いからさ」
「コンビニ?」
「とりあえず、またね」
ソウタが手を振り、離れていく。呆然とし、夢を見たような、妄想に包まれた感覚になり、渡されたメモ用紙を覗き、何が言いたかったのか分からずに終わったソウタの背中を見送る。
肌を撫でる風が指の隙間から流れていき、霧のように広がっていく。
風に押されたようにソウタは一度もこちらを見ることなく、道の角を曲がり視界から消えた。
ああいうのをナルシストというのか。男は何でこうも、みんな同じで馬鹿な中身なのに勘違いをするのか――。
メモ用紙に書いてある番号に頬が緩む。
気持ちが落ち着いている事に自分でも戸惑う。
あんな簡単な言葉に安心するわけがない。自分に問い掛け、確認する。目の痛みも体の震えも少し良くなっているような気がする。気のせいだと言われれば、そんな気がする程度だけど不思議な感覚だ。
メモ用紙の番号を見ながらスマホを取り出す。番号を登録するついでに、ショートメールくらいなら送ってもいいかな。
途中まで送ってくれた事に対してお礼を言うのは当たり前な事で、特別な事ではないはず。
自分と自分の中へ言い聞かせ、ショートメールを作成しようとし、何て送ろうか迷う。
変に期待させたくはないし、素っ気なさすぎるのも悪いし。スマホの画面を鼻にくっつけそうな格好で立ち止まり、考え込む。さっき、あんな目に遭ったのに、あたしは何て能天気なんだと思う。
前方から、ハヤマ近付いてきたのに気付かなかった。
にやにやと笑っているハヤマの姿を視界で見つけた瞬間、体が固くなった。
指がスマホの画面を押してしまう。何を押したか分からない。そんなのを気にしている場合じゃない。と痺れた思考で思う。
「え」と口を開け、後ろに下がる。周りを見回す。ハヤマが「おいおい」両手を広げる。
「何もしないって。勘違いしないでよ」
「何で、ここにいるんですか?」
「何で? 待っていたに決まっているでしょ?」
ハヤマが今度は両手を上に挙げ「まいったな」と降参のポーズをとる。
「アヤちゃん、怒らないでよ」
ハヤマが近付く。笑う。気持ち悪い。目が弧を描いている。恐怖にしか見えない。
「俺はさ、謝りたいだけだよ。さっき、あんな事しちゃったからさ」
「あんな事?」
「トイレでさ、俺と付き合って。そう頼んでキスしようとした事」
「もう気にしてないですから」
頭を振る。笑わなきゃと意識する。無理だ。そんな余裕がない。
「アヤちゃん、驚いたでしょ? あんなに泣いてさ。さすがに俺もアヤちゃんを困らせたかな? とか思ってさ」
ハヤマがあたしの前で止まる。動けない。ハヤマが毒でも塗った高い壁に見える。
どうしたら逃げられるか。必死で脳を回転させる。
「そう言えばさ。ソウタ君と歩いてたよね? やっぱり付き合ってんの?」
「そんな事ないです」首を振る。
「へぇ」とハヤマが笑う。口が洞穴だ。真っ暗で引きずり込まれそうで足がすくむ。
「俺さ」ハヤマが歩いてくる。
「本当にアヤちゃんの事が好きなんだよね」
肩に手を置かれた。震える。どうしよう。どうすれば。が溢れて脳が詰まり回転を止める。
「俺、本気だからさ。試しに付き合おうよ。こんなに可愛いのに彼氏いないなんて、もったいないよ」
頬を触られた。泣きそうだ。怖い、嫌だ、助けて。
くすくす。と笑う声がした。トイレでハヤマが迫ってきた時と同じだ。目を動かし、声の出ている方向を探す。ハヤマが「どうしたの?」と舐め回す口調で聞いてくる。
「いえ」
短く否定する。くすくす。と堪えきれない声はまだ聞こえる。耳から聞こえるのではなく、あたしの中から聞こえてくるのだと、ようやく理解する。
笑い声は続く。呼吸が荒くなる。胸が苦しい。視界が歪む。
「大丈夫だよ」笑い声があたしに言う。
「もう大丈夫だよ、これはアイラの役割だから」
また? 瞼が重い。
意識が内界に引っ張られる。さっきと同じ感覚が内界に戻される事を予感させた。
誰? 抵抗できない強い力に危険を感じる。
「大丈夫。みんな、それぞれの役割をするだけだから。ユキは怖い思いはしなくていいよ」
狭くなる意識の中で一瞬、黒いワンピースを着た女の子が見えた気がした。
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