第10話 瞑想と回想~ホタル
内界とは心の世界。
呆れるほど繊細で簡単な世界。想いが全てに作用し、想いが全てを決める。
それは私達の想いも同様で、感情により呆気なく内界を混乱させる。一般的な人間関係と同じで感情で決まり、感情で変わる。おかしい事ではない。
私は、守るという役割を持って一番最初に産まれた。大体、人格は大なり小なり何かしらの役割を与えられている。役割と言っても強制的ではないのだが、私は律儀に役割を仕事のように守っている。
小さい頃のアヤには父親がいた。今は離婚して、一緒に住んでいないがダメな父親だった。
酒に酔ってはアヤの母親やアヤに暴力をぶつけていた。子供だろうが女性だろうが容赦なかった。気が弱い男だったようで、仕事や人間関係でうまくいかない事を酒で誤魔化し、酒で気が強くなったと思い込み、酔った勢いで八つ当たりでしかない拳を握りしめていた。
大人である母親も辛かっただろうが、小さいアヤにはどうだっただろうか。
地獄そのものだ。体が宙を舞った事もある。人間の体というのは本当に吹っ飛ぶのか。と感心したくらい軽々と飛んだ。
一度火が付くとなかなか興奮が治まらないのが父親の性格で、泣いても、謝っても、叫んでも許してくれなかった。むしろ、こちらが必死に謝れば謝るほど興奮していたように見えた。
アヤは諦めていた。何が正解かも分からず。自分が産まれてきた意味が理解できなかった。
恐怖は体の中の神経へと刷り込まれていく。大声や不意に触られる手には過剰に反応を示すようになった。全部、父親が原因だ。おかげで、この体は恐怖に敏感になり、その反応に父親がますます苛立つようになっていった。
その日は父親の気分が最悪だった。家に入った瞬間から声を荒げていた。酒に酔っていたのはいつもの事だが、この日は酒の匂いがきつかった。足音を派手に鳴らしアヤの母親に跨り、拳を振るっていた。父親が何かを叫んでいたが、どういう内容かは分からなかった。とにかく殴られている母親を助けようと必死だった。
アヤが父親の腰に抱き着き、母親から引き剥がそうとし、逆に父親から吹っ飛ばされた。それでも何度か、父親を引き剥がそうと痛みを我慢し、泣きながら抱き着いているとアヤに父親が向きを変えた。
母親は、ぐったりしていた。息で胸が動いていたから、生きている事だけは分かった。
父親がアヤに何かを言った。生意気だ。とかそういう種類の言葉だと思う。
頬を殴られた。痛くて息がうまく吸えなかった。「謝れ」そう言われているのは分かった。息がうまくできないのに、どうやって言葉を話せというのか。痛みで話せずにいると、また殴られた。「馬鹿にしているのか」そう言われた。
ループだ。痛くて、怖くて、やっと出した「ごめんなさい」は声が小さいと怒鳴られ、また殴られた。
この日はいつもより執拗に暴力を振るわれた。父親に何があったかは分からない。分かるはずがない。途中でアヤは抵抗を止め、人形のように暴力を受け止めた。
絶望が体中に染みわたっていった。
やがて殴られ過ぎて気を失ったアヤはこの世で生きる事を放棄した。
こんな思いしているのは私じゃない。
本当の私は、こんな私じゃない。
強く現実を否定し、願い、祈った。その願いを聞き入れたのは誰か。もし神様だというのなら底意地の悪い神様に違いない。
結果としてアヤの願いは叶った。
心の世界が作られアヤはそこに逃げ、代わりに私達が産まれた。
解離性同一性障碍。世間では多重人格の方が有名かもしれない。アヤと私達はそう呼ばれる状態になった。
アヤの代わりに虐待を受ける役割を担ったアイラとともに、最初に産まれた私には役割がある。アヤを、詳しく言えばアヤの体を生かすという役割。保護人格という役職名みたいな名前も別名としてあるらしい。
同時に反対の役割を持つ人格も私と一緒に産まれている。黒い服に包まれた人格。破壊人格。アヤを死なせる事でアヤを救おうとしている。
対立する為に存在しているような二人。
向こうは私の印象をどう持っているのかは知らない。性格は変わっている。力も強い。私と似ている部分は確かにある。
そこまで頭の中で反芻する。
鈍い覚醒に欠伸を噛む。
目を開けた。内界の自分の部屋にいる事を最初に確認した。
薄いエメラルド色に塗装された部屋の真ん中にベッドだけが置いてある。
殺風景な部屋だ。望めばある程度の家具は手に入る。
内界とは心の世界だからイメージ次第で何でも手に入る。でも、私にはベッドだけあれば充分だ。
先程、反芻していた内容は過去から現在に向けての過程だ。映像も切り取られた写真みたいに幾つか浮かんできたから、どちらかと言うと夢に近いかも知れない。夢だとしたら久しぶりに見た事になる。
その瞑想に近い浅い眠りが妨げられたのは内界の異変。
保護人格という役割を持った私が起こされるのは、いつも危険が迫った時だ。
ユキが内界に落ちてきた。
無理矢理戻されたのか、ユキが外の世界から内界の部屋へ落ちていくのを感じる。
ユキが内界に戻されたという事は、今、誰が外に出ている?
ベッドから飛び降りた。
急ぐ。内界と外の世界を繋ぐドアまでの長い廊下を走る。
声がした。くすくす笑う声に、顔が歪む。
目の前に女の子が立っていた。黒い髪に黒いワンピース。人形のように整った顔立ちはしているが、唇が薄いせいか、冷たい印象がどこか漂う。
「ホタル? どうしたの?」
楽しそうに私の名前を呼んでくる。「今日は忙しい日だね」と人懐っこく話し掛けられる。
「ホタルは油断するのが得意なの?」
私に近付き、くすくす笑う。
「おかげであまり良い目覚めではありませんでした。――何がありました?」
足を止め、答えを期待せずに質問をした。
「楽しい事があっただけ」
「楽しい事?」
眉を寄せる。私の表情に満足したように頷いた。
「そう。良いでしょ」
「――アイラですか」
「正解」
「何がありました?」
「だから楽しい事だよ」
会話が進まない。「分かりました」と話を打ち切る。
黒いワンピースの裾が軽やかに舞った。移動しようとする私の前に立ち、またも進路を塞いでくる。
「すみませんが、そこをどいてくれませんか?」
「何で、そんなに慌てているの?」
黒い大きい目が不思議そうに瞬きをする。純粋にも見えるその目に私の姿が鏡となって映る。
若干垂れ下がった私の目が、苛立ちで陽炎のように揺らめいている。
「内界を守るのが仕事ですから」
「のんびり寝ていたくせに」
「それは謝ります」
「アイラをいつまでも甘やかせるのは良くないと思うな」
「あの子はあの子なりに大事な役割をもっていますよ」
「アヤのせいで?」
「アヤのせいというよりはアヤが望んだからです」
「そうかな」
「そうです」
「アヤが望んでいる証拠は?」
「それは――」
次の言葉がすぐに出てこない。目線をあちこちに動かす。常識的で当然の理由が頭で並べられ、説得力の無さの為に削除される。
結局は「アヤに内界を任されましたから」と中身の無い返事をしてしまう。くすくすと笑われた。ワンピースの裾も感情を表すようにゆらゆら揺れる。
「曖昧な答えだね」
「アヤの代わりに産まれたのが、アヤの生きる意志の表現だと思っています」
「それは本能的な意志でアヤの想いじゃないよ」
断言される。力強い口調に思わず同意しそうになる。
「どうでしょう。本人に聞くのが一番だと思いますけど」
「本人は何もかも話す気がないでしょ」
「何が望みですか?」
聞いてから自分に呆れる。そんな質問の答えなんて分かりきっている。
「私はアヤが心配なだけ」
無機質な笑みで首を傾け、私をゆっくり通り過ぎた。意味ありげに私を見つめたまま廊下を曲がり、消えた。
内界に僅かな震えが起こった。空っぽの花瓶に水が注がれていく。あるべき所にあるべきものが入って行く。
外に出て行ったアイラが内界に戻ってこようとしている反応だ。
ユキと違い、アイラが戻ろうとしているだけで内界はこんなにざわつく。
アイラが古い人格の為、内界への影響が強いからなのか。アイラが昔のトラウマに反応して反射的に外へ行き、心の傷を増やして戻ってくるからなのか。
この内界で最初から存在している私でも内界の反応や変化には説明出来ない部分が多い。所詮は私達の世界というよりはアヤの世界だから当たり前かも知れない。アヤの心は私達でさえうまく見えない。私達はアヤの代わりにこの世界に存在し、アヤの代わりに生きている。
遠くから「ホタルさん」と慌ただしい声が聞こえる。
振り向く。ユキだ。柔らかい顔と髪から若さが強調されているが、前髪を切り揃えてあるのも拍車をかけている。体型も顔もアヤに一番似ている気がする。
「ホタルさん、ごめん。何か良く分からないけど内界に戻されて……」
両手を合わせ拝むように謝罪される。
「ユキは悪くないですよ」
首をゆっくり振り、ユキを安心させる為に微笑む。ユキも私に返事するように軽く笑顔を浮かべ、外の世界へ繋ぐドアを睨みつける。
「今バイト中なの。行かなくちゃ」
私の言葉を待たずにユキが急ぎ足で、内界から外の世界に通じるドアへ向かって行った。
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