第8話 二つの感情~アイラ


部屋に女の子が一人いた。


明るい色の部屋だ。


壁も床もピンクに染められている空間の中で、女の子は鏡の前に立っている。


現実には存在していない。アヤの中にしかない部屋。


アヤの心の中の世界。内界の中にある部屋。


女の子は鏡の前で鼻歌を歌っていた。リズムもメロディもバラバラな鼻歌。歌の中身は伝わらないけれど、楽しそうな感情だけは伝わってくる。


服の裾から見え隠れしている肌には内出血の独特の色。女の子は泣かない。代わりに鼻歌を歌っている。


「クロちゃんは歌わないの?」


鼻歌を止め、女の子がいきなり質問をしてきた。誰もいないはずの部屋。しかし女の子の目線の先にはもう一人女の子がいた。


黒い服を着て、椅子に座っている。「何の歌か知らない」と頬杖をついたまま、突然現れたその子が平然と答える。「知っているはずだよ」と女の子が、突然の侵入者に驚く事もなく、はしゃいだ声をあげた。日常の事なのだろうか。


黒い服を着た子が退屈そうに口を開く。


「ねぇ? アイラは何で楽しそうなの?」


アイラと呼ばれた女の子は「う――ん」と額に指を当て「何でかな」と口を結んで考え込み「あ」と人差し指を立てた。


「分かった」


「何?」


「アイラが楽しそうに見えるのはね」


「うん」


「きっと歌を歌っているからだよ」


黒い服の子が笑う。薄く目を細め、唇を曲げた。


「そんなに傷だらけなのに?」


アイラの肌に浮かぶを傷を眺めながら、黒い服の子が指摘する。アイラが指を左右に揺らし「チッチッ」と、つたない音を鳴らす。


「クロちゃん、分かってないね。歌は元気になる魔法だよ。あ、魔法と言ったらケーキもだけど」


黒い服の子が頬杖をついたまま肩を揺らし、くすくす笑う。


「アイラは我慢強いね」


「うん。アイラは偉いでしょ?」


アイラが手を腰に当て、胸を張った。黒い服の子の目線が一瞬、アイラから外れ、呟いた。


「……偉いという基準は何だろうね」


「ん? あ――しゃちょうさん、とか?」


「役職の順位じゃなくて人自身の偉さだよ」


「え――」とアイラが口を尖らせた。


「そんなの分かんないよ。クロちゃんは?」


「寝たら、ちゃんと起きる事」


「何それ。クロちゃん面白い」


 アイラが「あはは」と大声で笑い、言葉を続ける。


「だったらクロちゃんはずっと起きてて偉いね」


クロちゃん。と何度も呼ばれた事に不満が出たのか黒い服の子の笑いが消えた。むっとした表情を浮かべる。


「アイラ」


「何?」


「そろそろ、その名前で呼ぶのを止めて」


「その名前?」


「クロちゃんって呼ぶ事」


「どうして? 可愛いのに」


「可愛くない」


「だってクロちゃん、名前ないんでしょ? 名前があった方が面白いよ」


「面白くない」


女の子は否定を気にせず笑っている。黒い服の子はつまらなさそうな表情なままだ。


「じゃあ、アイラの名前も付けていいよ」


「意味分かんない。アイラは産まれた時からアイラという名前があったでしょ?」


「そうだよ。何でクロちゃんは名前がないんだろうね」


「知らない。必要ないからじゃない?」


黒い服の子が椅子から立ち上がる。無言で部屋のドアを開けようとし、女の子から「もう行くの?」と聞かれた。「アイラを見に来ただけだから」と黒い服の子が素っ気なく答える。


アイラが笑った。


「また来てね」


「何で?」


「クロちゃんが来てくれると楽しいから、ちゃんとまた来てね」


「ふ――ん」


黒い服の子が一瞬だけ虚空を見つめる。


「アイラは何が一番楽しいの?」


「一番?」


女の子が真剣な表情で唸り始める。だが考える事に飽きたのか、すぐに笑顔に戻った。


「分かんない」


「あ、そう」


黒い服の子の手がドアノブを回す。女の子が大きく頷いた。


「うん。でもね、クロちゃんといると楽しいよ」


「何も考えないでいるからじゃない?」


「クロちゃん、可愛いし」


「小さい子の姿になっているからね」


「クロちゃんは友達だから」


黒い服の子の瞳が揺れた。それは瞬きと同じくらい短い時間だったが、黒い服の子の瞳が確かに揺れた。


「アイラは面白いね」


平らで感情のない口調。さきほどの揺らぎを誤魔化そうとしているのか、黒い服の子の顔つきは元に戻っている。無関心と無感情を塗り重ねた表情。


「うん。アイラは面白いでしょ?」


「そうだね。アイラは面白くて我慢強いね」


黒い服の子がドアを開けた。温い光と空気が体を通り過ぎていく。


「また会いに来てね」


手を振る女の子に黒い服の子がくすくす笑う。そのままドアが閉められ、気配と温度が静寂に溶ける。


女の子は閉じたばかりのドアを見つめ、鼻歌を歌い始める。部屋に一人分の音が響き、散り、無音になっていく。


女の子の肌に浮かんだ内出血の色が少し濃くなり、大きくなっていた。


女の子は鼻歌を歌い続ける。


楽しげな声は簡単に部屋に染みて、消えていった。


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