第7話 普通への憧れ~ユキ
店に着くと、ちょうど店員が店の入り口の鍵を開ける所だった。
「アヤちゃん、おはよう」と挨拶され、「おはようございます」と会釈をする。気安く「ちゃん」付けされるのには内心、抵抗がある。顔には出さず「今日もよろしくお願いします」と笑顔で言うと、店員の鼻の穴が広がった。
裏口から店内に入り、女性用の更衣室で着替える。開店まで約三十分に迫った頃には、だいたい全員が揃い、心構えを唱和し、今日の注意事項を聞く事になる。平日に比べればいくらかは混むが、今日はセールも話題の映画の入荷もない為、そこまで混雑しそうにはない。後は開店まで掃除し、開店時間になったら自動ドアを作動させるという流れになる。
「アヤちゃん、久しぶり」
あたしがモップで床掃除をしていると、一人の店員がわざわざ話しかけに来た。
「ハヤマさん、お久しぶりです」
営業スマイルを顔面に貼りつける。口笛が鳴った。
「相変わらず可愛いね。ねぇ、いつになったらデートしてくれる?」
「いやいや可愛くないですって」
手を振る。ついでにモップも振り回してハヤマの茶髪頭を叩きたかったけど妄想で我慢する。
「それでアヤちゃん、今日は何時に上がるの?」
「十六時までですね」
いつも、その時間に上がっているだろ馬鹿。と心で罵倒する。
「十六時か。マジか。俺もその時間に上がろうかな」
「ハヤマさん、途中で抜けたらみんな困るじゃないですか」
「やっぱり? 俺、出来る人間だからな。アヤちゃん分かっているね」
親指をぐっと突き出してくる。面倒くさい。「あはは」と社交辞令で笑い、相槌を適当に打ち、話を流す。
自分だけの体だったら良いのに……。とハヤマの襟元から覗くゴツゴツしたネックレスを眺めながら思う。明るめの茶髪も、目立つネックレスも、何回も店長から注意されているのに直そうとしない。反抗してる俺って格好いいとか思っているんだろうか。ありえる。
子供の大人を相手にするのはストレスでしかない。出来れば完全に無視したい。
――でも出来ない。この体の記憶のせいで、男の人を不機嫌にさせて怒らせるのが怖い。
怒り、怒鳴られ、暴力を浴びせられた経験はトラウマという呪いになって、私達の心をずっと縛っている。特にハヤマみたいに怒らせると何をするか分からないタイプの人間は、アヤの父親と重なってしまう。だから無意識に機嫌をとってしまう。怖いのだ。本当に。
そもそもバイト自体やりたくなかった。
ましてや接客のバイトなんて、好んでするわけがない。でも、店長とアヤの母親が知り合いで、人手が足りないと相談されて断ることが出来なかった。虐待を繰り返す父親と別れてから、女手一つで育ててくれた母親を困らせてはいけない。
この体はアヤのだ。いつか――。その日が来る事自体が怪しいけど、アヤが自分の意志で生きたいと思った時の為に、人間関係はなるべくなら円滑にしておきたい。
今はあたしが我慢しなくちゃならない。それがアヤの代わりとして生きている、あたしの役割で、ユキという人格の責任だ。
「アヤちゃんさ、せめてご飯くらいは行こうよ」
ハヤマがしつこく誘う。
「ご飯ですか?」
「ドライブでもいいよ」
「ハヤマさん、車持っているんですか?」
「おいおい、アヤちゃん。馬鹿にするなよ。今度俺の愛車を紹介してあげるから」
いえ、いいです。と言いたくなる。あはは、車持っているの羨ましいです。と水分の抜けた砂のような声で返す。開店前に、何でこんなに疲れなくちゃいけないのか。店内の時計を盗み見るとまだ開店まで少し時間がある。
「やっぱ、アヤちゃんも助手席に憧れている感じ?」
ハヤマはまだ立ち去る気配がない。泣きたくなる。「ちょっとアヤちゃん?」と声を掛けられた。困った表情を作りながらも視線を私達から外さずに店長が近付いてくる。
「時間ないの分かるでしょ? 掃除ちゃんとやって。あとハヤマ君はトイレ掃除まだやってないでしょ? 急いで」
手に持っている書類をうちわのように振り、ハヤマを追い出す。ハヤマのナンパから解放はされたけど素直に喜べない。同類として怒られた。「すみません」と謝りつつ床掃除を再開する。「ハヤマ君も困ったね」
ハヤマがゆっくりトイレに向かう姿を腕組み、見届けた後に店長が言う。
「アヤちゃんも絡まれて大変でしょ」
「いえ、そんな事は」
「何かあったら言ってよ? 相談に乗るから」
「ありがとうございます」
あたしのお礼の言葉に店長が満足そうに頷く。その目つきに生々しい感情が映ったように見えて、あたしは目を逸らした。
「あ、そうそう」
店長が呟き、持っていた書類をあたしに向ける。視線を落とす。履歴書だった。
「その子、今度面接するんだけど、同じ学校でしょ? どんな子?」
履歴書の写真は見た事がある顔だった。頭の中の記憶を巡らし思い出す。ソウタだった。どんな子? 同じクラスで、朝にたまに会う、顔も身長も平均的な、つまりは――。
「普通の子ですね」
「普通の子か」
あたしの当たり前な回答に、店長の口調が機嫌の良いものへと変わる。
「普通がベストだよね。アヤちゃん、ありがとうね」
あたしは笑顔をただ浮かべる。音楽が鳴り、自動ドアが動いた。時間が流れる。日常が退屈と普通を巻き込みながら流れていく。あたしは、うまく流れていけるだろうか。
「いらっしゃいませ」
客が入ってくる。あたしは頭を下げ、挨拶し、笑う。
ソウタの中で、あたしはどんなイメージなんだろう。普通に見えているのだろうか。
客への挨拶を続けながら、そんな疑問を持った。
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