第2話 朝七時~ユキ
冷たさで目が覚めた。目元に指先を持っていくと濡れていた。嫌な夢の余韻があった。誰が見た夢なのかは予想がつく。父親に虐待される夢の中でアイラが泣いたのだろう。
部屋のカーテンから陽が滲んでいる。「朝だ」と呟く。狭い部屋に声が簡単に吸い込まれていく。もう一度「朝が来た」と言ってみる。
静寂は変わらない。
だけど、その色の無い空気に混じって音が微かに聞こえた。何かが重なり、何かが開き、それらを足音や鼻歌が追いかけている。
耳を澄まし息を止め、音の正体が食器や電子レンジだと分かって、やっと顔に温度が戻った。母親が朝ご飯の準備をしている。
いつもの朝の、変わらない音だ。
慣れ親しんだ音に連れられるようにベッドから上半身だけ起こした。
そろそろ起きなくちゃいけない。
腕を上に向け、体を伸ばし、欠伸をする。改めて時計を見てパジャマを脱ぎ、制服に着替える。
カバンの中身を整理しながら全身鏡の前に立つ。
一瞬見ただけで可愛いと分かる姿が、そこに映っていた。
生まれつきの茶色がかった髪は細く柔らかく、肩にかかるセミロング。大きな目。整った輪郭。だけど、あたしの顔じゃない。
体はあたし。同時にあたしの体じゃない。くだらない、なぞなぞみたいな表現だけど本当の事。
鏡のあたしに笑いかける。柔らかい綺麗な笑顔に嫉妬しそうになる。
「ま、中のあたしの顔も負けてないけどね」
舌を出す。顔を思いっきり歪ませ不細工にする。不細工な表情のまま制服におかしな所がないか確認する。
皺、汚れが無いか一通り見回し、短く強く息を吐いた。
長い今日が始まる。疲れるだけの苦痛に近い時間。憂鬱な気分が内側から膨らんでくるのを感じる。部屋のドアを開ける。
何であたしが。何であたしばかり。
毎朝思う不満を言葉にせずに飲み込む。頭を振る。どうすれば前向きに生活できるようになるか考え、仕事だと思えば割り切れるかな。そう思いつき、仕事という言葉自体に前向きなイメージがないような気がして悩む。
仕事をするというよりは演技をしているようなものだから、ごっこ遊びみたいなものかな。
だとしたら、とてもリアルなごっこ遊びだ。
あたしの名前はユキ。そして、この体の名前は――。
「アヤ起きた? パンに何塗るの?」
母親の大きな声の問い掛けに「チョコ」と躊躇なく答える。
あたしはユキ。でも、この体の名前はアヤ。
あたしはアヤという自分の代わりに生きている。
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