第3話 朝七時三十分~ソウタ


 アラームが鳴った。


 無機質で冷たい音。唸り声で文句を伝えて布団を頭から被った。


 音は消えてくれなかった。消えるどころか無視された事に怒るように音量が大きくなる。


 音量が最大レベルまで上がってきた時に「分かったから」と目覚まし時計に降参する。


 頭と腕だけ布団から出し、目覚まし時計のボタンを押す。部屋が無音になった。空気が消えたような静寂に満足し、布団の温もりを味わい始める。


 またアラームが鳴った。


 あれ? と思う。


 さっきとは違う種類の音だ。半分だけ目を開け、音の正体を探す。スマホが鳴っていた。更に震えてもいた。ベッドに耳障りな振動が響いている。


 いつもはスマホに目覚ましは設定しない為、疑問が生まれる。


 眠気に包まれた視界を何往復か左右に動かし、首を捻り、欠伸をし、そして思い出した。目が完全に開いた。


 二重にアラームをセットした昨夜の自分の考えが頭を走り抜け、そのままベッドから飛び起きた。


 急いで制服に着替え、洗面所に行き、寝癖の付いた髪を急いで洗って直す。


 母親が、朝から騒がしく動いている俺に困ったように「ソウタ、朝ご飯は?」と聞いてきた。


「いらない」と答え「もう学校へ行くの?」には「行かなくちゃマズイ」と言い、玄関に向かった。


「ご飯食べる時間くらいあるんじゃないの?」の言葉には返事をせず家を出た。


 朝の独特な空気が肌に触れる。


 ざわつき始めた街の音や鈍い陽を横目に足を速める。


 昨日、たまたまいつもより早く家を出たらクラスメイトのアヤを見かけた。なのに、声を掛けるタイミングが分からないまま、遠くから後ろを付いていく形で学校に着いてしまった。向こうはたぶん、俺がいる事にすら気付いていなかったと思う。


 凄い後悔をした。


 せっかくのチャンスを潰してしまったと思った。だから今日は、昨日と同じ時間に家を出て、またアヤと会える事を期待していた。


 ストーカーみたいだ。


 早起きの理由を今更ながら客観的に見ると、ずいぶん気持ち悪い。


 アヤとは同じクラスだから学校に行けば会える。朝早く起きなくても姿を見る事は出来る。でも外と学校で会うのは、何と言うか、特別さが違う。


 角を曲がる。目が人波を見つめる。


 スーツ姿、上下に揺れるランドセル、電話をしながら歩くブルドッグに似た顔つきの婦人。その中に見慣れた後頭部を見つけ、心臓が激しくなった。長く息を吐いてから近付いていく。


「アヤ、おはよう」と言い、肩を叩いた。


 その瞬間、面白いくらいにアヤの肩が跳ねた。


 小動物を連想させる目つきでアヤが振り向く。


 表情が固まっていた。両腕を胸に当て、肩に力が入っている。


 怯えて泣きそうになっている顔つきに俺の方が戸惑ってしまう。


 アヤは肩を叩いてきたのが俺だと分かると長めの瞬きをし「ソウタ、おはよう」と言ってきた。「お……おはよう」と返し、アヤの隣に並ぶ。


「いきなり叩かれたからビックリしたよ」


 怒っているのか、アヤの口調が少し冷たい。


「それは……何かごめん」


 アヤの振り向いた時の表情を思い出し、素直に謝る。もしかしたら、脅かす系が苦手なタイプなのかも知れない。


「次から叩かないでね」


「いや、うん。……ごめん」


「そんなに謝らなくていいよ」


「うん」


 お互いの口が閉じた。重い無言を味わいたくなくて急いでアヤへ話し掛ける。


「そう言えば……同じ道通ってたんだね」


「うん。そうみたいだね」


「あ、アヤはいつもこの時間に通るの?」


「時間は気にしてないけど、そうかな」


 アヤが淡々と話す。


「そうなんだ」


「うん」


 アヤがすぐに相槌をし、会話が終わる。沈黙が溜まっていく。水中に潜ったような息苦しさが肺を圧迫していく。


 頭を掻き、視線をあちこちに飛ばす。無言なまま二人並んで歩いている。距離は近いはずなのに近くに感じない。「先に行っているから」と言って、さっさと離れた方がいいのかも知れない。


 頭を振る。せっかくのアヤとの時間を終わらせたくない。何かないか。アヤの興味を引き、ちょっとでも距離が埋まりそうな話。下を向き、考える。こうしている間も学校が近付いてくる。


「あのさ」と声を掛ける。アヤが「うん?」と振り向く。


「昨日、何かテレビ観た?」


「昨日は眠くて、すぐ寝たよ」


「そうなんだ」


「うん」


 アヤが笑う。可愛いが、営業スマイルなのは、いくら俺でも分かる。肺を圧迫している息苦しさが限界を迎えそうになる。


 アヤの周りを包んでいる空気が厚い壁に感じる。


「俺、先に学校行っているから。何か腹の調子が悪くてさ」


 腹に手を当て、もう片方の手でアヤに手を振る。アヤも「うん。分かった」と小さく手を振り返してくれた。かなり可愛い。


 小走りで学校に向かう。本当は痛くも調子も悪くない腹から手を外し「ダメか」と呟く。あまり話せなかった。


 アヤは俺と同じクラスで、学年で一番、少なくとも俺の中では学校で一番可愛いと思っている。当然、他にも狙っている奴がいて男達から色々話し掛けられる事も多いが、アヤが男と盛り上がって話をしたところを見た事が無かった。いつも必要最低限の会話しかしない。女友達は多いらしく笑った顔は良く目にするが、さっきと同じ感情のない営業スマイルだ。本物の笑顔だと勘違いして、告白して振られた奴も何人かいる。


 一部の男達からは同性が好みなんじゃないか――。と噂もされている。


 足を止め、振り返る。朝の曖昧な光に照らされて歩くアヤの姿が幻想的に映る。女神にしか見えない。可愛さと美しさの塊が一枚の絵のように俺の視界の中央にいる。


 同性が好きでも良い気がした。早起きをした甲斐があったと思った。


 前を向く。


 朝日に照らされて自分の影が細く、弱々しく伸びていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る