第二部 楠木明松
第19話 統括室へ至る道1
海上都市ヨルノクニには、果たして、いくつの部門が存在するのだろうか。
行政、経済、司法、販売、仕入、教育、学園、建築、交通、開発、医療――その一覧を見たところで、せいぜい覚えていられるのは、そのくらいだろう。
しかし、ヨルノクニに生まれた者は、必ず一度はその一覧を目にする。
――必ず、高校一年の春に、目を通したくなるのだ。
誰もが、その権利を、その時から三年間だけ持つことができる。
統括室へ入るための権利だ。
各部門が頂点ならば、その更に上に統括室は鎮座している。内情はともかく、その最大権力は、十五歳から二十五歳の十年間しか所属できず、その権利が目の前に落ちていたのなら? 誰だって、一度くらいは試してみようと動く。
その、ある種のお祭り騒ぎの試験内容は、昔からずっと変わっていない。
各部門の社長、その人のサインを集めろ――ただ、それだけだ。
統括室、現室長である
逆に言えば、同年代で二人も出る方が珍しいほど、サイン集めは難しい。何故かというと、そもそも、サインをするかしないかは、社長の判断だからだ。
退勤時間に待ち伏せをしたところで、そんな相手にサインをするような人物ではない。
――その日、経済部門社長、
ある種の絡め手だ。本人にコンタクトが取れないなら、そこに近い人間に接触を図る。
「早いわねえ。お見合いの話なら、残業を見つけるわよ?」
「いや社長、俺に新しい奥さんができたわけでもありませんよ」
ははは、なんて笑いながら、四十に近い禿頭の男は、己の後頭部を叩きながら、そんな冗談を言った。軽く明るい男に見えるが、これが仕事となると目の色が変わる。そうでなくては、専務の地位に就いてはいない。
「というか、私は今年だけの社長なんだけどねえ」
「だからって、辞退はできませんって。で、どうです? 食事のお誘いですが」
「玉木から見た相手はどうなの?」
「どうって、なかなか面白いヤツですよ。少なくとも俺に、社長を誘おうと思わせるくらいには。同行もしますよ」
「そうね……じゃ、まあ、行くだけ。食事もついでにできるし」
「諒解です」
繁華街まで出なくとも、企業街にはそれなりに落ち着いた食事処がある。案内されたのもその一つであり、冬芽も会合で二度ほど使った記憶もあった。
「おう、玉木だが」
「いらっしゃいませ、奥の座敷でお待ちです」
「そうか」
玉木が頷きを一つ、だから冬芽が先に奥へ向かう。座敷なので靴を脱がないといけないので、それが少し面倒だった。
この時に冬芽が抱いた印象は、――若い、ただそれだけだった。
学生なのだから当然だろう。しかし、この瞬間には冬芽には相手が学生だ、という認識が少しだけ欠落した。着ているスーツは新入社員など比較にならないほどの着こなしであったし、風貌こそ若いものの、正座をしながら迎える姿には、威圧ではないにせよ、存在感があった。
「ご足労願いまして、誠にありがとうございます、柊社長。私は
上座を示されたので、自然とそちらへ動いた冬芽に対し、やってきた玉木は一度足を止めた。
「失礼。玉木専務、このたびは無理を言って申し訳ありませんでした」
「いや、隣室でゆっくりさせてもらおう。社長、この部屋の記録は?」
「構わないわ、しなさい――で、いいわね?」
「はいどうぞ」
隣室はやや狭くなっており、いわゆる控えの間だ。
テーブルの上に差し出された名刺を受け取る。そこには名前と連絡先だけ。所属がないなと思った冬芽は、ここで、相手が学生だという認識を改めて生む。
「失礼、お酒は大丈夫でしたか? 軽食と一緒に頼んでしまいましたが」
「ええ大丈夫よ」
そのくらい調べろ、とも思ったが、まあいいと――そこから、会話が始まった。
料理が運ばれてきて、日本酒を丁寧に注がれ、食事が開始した時点で、冬芽はこれが接待であることを自覚する。職業柄――いや、立場上、こういう接待はよくあるが、個人的にはあまり好きではない。食事は楽しめないし、酒もセーブしつつ相手の話を聞くのが主体ともなれば、疲れる。
しかも、ただの会話ではない。言葉の裏を読みながら、便宜を図る必要性などを考慮し、それを拒絶するか肯定するか、それもまた言葉に含みを持たせなくてはならないのだから、こういうのを日常にしている行政部なんかには、頭が下がる。
彼は、どうだ?
基本的には冬芽が持っている過去の業績、特に成功例を挙げて褒め、どこが良かったのかを詳しく口にして持ち上げつつも、自分ならこうする、みたいな主張を必ずそこに含ませる。だが、押しつけがましくなく、軽い助言でしかない。冬芽が戯れに質問を混ぜても、返答に迷うことも、ほとんどなかった。
――だからだ。
ここでまた、相手が学生であることを忘れてしまったのは。
上手すぎる。
手慣れていると言っても良い。おそらく、二度三度の経験があるはずだ。苦手である冬芽が、顔には出さないがそれなりに疲労してしまったのも、真に迫っている。
長引かせたくない、それが本音だったろう。
食事を終えて酒だけになった頃合いで、冬芽は深呼吸を一つした。日本酒もあまり得意ではないのだ。
「――本題に入りましょう」
その一言で、おやと目を丸くした彼だったが、すぐに姿勢を正す。
「本題、ですか?」
「ええそう。あなたは学生で――」
学生で。
そう口にしたのに、その意識はほとんどない。
「――統括室に入るため、私のサインが欲しい。そうでしょう?」
「……」
その問いに、彼はどこか困ったような顔をして、返答をしない。だが否定もまた、そこにはなかった。
「どうやって玉木を動かしたのかは知らないけれど、学生の身でここの費用を持つのは大変でしょう? それを対価にして、私にサインを求める……そういう流れでしょ」
「……そうですね、大筋は」
「では、サインが欲しいのね?」
「必要ありません、とお答えしたら、どうなりますか?」
彼は笑っている。顔に張り付けた営業用の笑顔だ、本心はわからない。
「そうね、じゃあここの費用は私が持ちましょう」
「なるほど」
「わかっているわね? つまり、あなたの対価がなくなるという意味だけど」
「サインを書くのが柊社長ならば、その価値を決めるのは社長自身。ここの費用はその対価になりうる――ですか」
「もちろん費用だけじゃ足りないから、私をここまで動かしたことも評価に上乗せしているわよ。学生にしては、上手いことをやると思ったもの」
そして、ようやく。
そうだ相手は学生だと、一息を落とした。もっと評価すべきか、とも思う。
「――なるほど」
だが。
頷いた彼は、口元を弓のようにして。
「では費用の件、お願いします」
「いいのね?」
「ええどうぞ。――しかし」
ようやく終わりかと思った冬芽は、その言葉で動きを止める。
彼はその笑みのまま、テーブルの下から大きめのケースを取り出し、テーブルに置き、認証式のロックを解除すると、冬芽に開けろと示すよう、軽くケースを押し出して見せた。
「……これは?」
「対価です」
「……対価?」
「私が学生であると、社長はおっしゃりました。であるのならば、私は学生なのでしょう。つまり政治的な意味合いもなく、献金や賄賂にはならない」
「中身がお金だと、その限りじゃないわよ?」
「それは私がよく知っております。それに、ここの費用が対価になるのならば、こういうものも構わないのでは?」
「……、そうね。私はそう言ったわ、記録にも残ってる。だったら、これを差し出すから、私にサインを書けってこと?」
「失礼ながら、私はこれを対価とする――そう申し上げました。確かに、サインが欲しいことは否定しません。しかし、書くかどうかは、社長がお決めになることだと、先ほどおっしゃられました。その上で、価値を決めるのも社長である――と。であれば、私からはこれ以上、説明は不要かと」
回りくどい言い方だ。
「開けて判断しろと?」
「行動の判断をするのも、私ではございませんので」
よくわからないが、自信があって挑戦権を叩きつけているように感じた。
対価を用意した、これが通用するのか? 中身を見て確かめてみろ――と。
普段なら、冬芽は断っただろう。けれど、相手が学生であるのならば、社長という立場から、簡単に断ることはできない。
後になって考えれば、それこそが、冬芽の失敗だったのだろう。
相手は学生だ、そういう認識が油断になった。
「いいでしょう」
言って、開いたらもう遅い。
驚きに口を開き、それを閉じる時には奥歯を噛みしめるような渋面になる。
――どこで失敗した!?
頭の中にはそんな言葉がぐるぐると回る。
ボトルが二本、入っていた。
ウイスキーだ。
キジェッチ・ファクトリーのフリーランス。三十年ものと十五年もの。
まず冬芽が考えたのは金額だ。フリーランスの三十年ものが、日本円にして七十万円ほど。十五年ものはおそらく、五十万に届かないくらいだろう。これが接待の形であり、経費で落とせるのならば、支払える金額だ――が。
それは、あくまでも販売価格でしかない。
フリーランスと呼ばれるウイスキーの、最大の問題は、そんな価格に意味がないことだ。
キジェッチのウイスキーは実に有名であり、今もまだ製造されているが、実物そのものは少ない。少ないどころか、名前だけは知ってる大多数と比較したら、いないも同然の扱いになる。
販売店には卸さず、あくまでも個人消費者にしか売らない。ごくごく一部の人間が嗜好品として飲む酒であるが故に、流通に乗らず、そしてラベルの偽造はありえない――見れば、この二本にも通し番号が刻まれている。
つまり。
この二本を手に入れるために、何円かかると問われた場合、それは億や兆でも無理だと、そういう答えが返ってくる。
酒飲みとしての考えは浮かばない。
献金ならば、断れる。賄賂ならば通報騒ぎだ。
だが、これは対価である。
しかも学生から、冬芽が決めたルールの上で出された物品でしかない。
どうすればいい、どう対処するのが最善だ?
ルールならば、この対価に対し、冬芽は価値を決めて、同等のものを返さなくてはならない。この場所の記録を許可している以上、見なかったことにして返すことは、不可能だ。それをした時点で、社長たちの中で、冬芽の立場が一気に下がる。それは、経済部門の発言権が下がるのと同じことだ。
ノーだ、できない。
逃げることだけは、できない。
笑いものになっても、敗北を認めても、それだけは、あってはならない。
詰みだ。
「――玉木!」
テーブルの下で拳が強く握られた。しゃれっ気もないので爪も伸ばしていないので、悔しさのぶんだけ強く握られる。
「はい?」
「各部門の社長に、今までの映像を土産にしてサインを求めなさい。あなたの判断で貸しを作っても構わないわ」
「……、それが社長の判断で?」
「そうよ」
そうするしか、ない。
見合う金銭は、そもそも用意できないし、用意したらそれは商売になる。ケースを開いた以上、冬芽に手段はない。
そう――開いただけで、あらゆる可能性を潰され、その上を行った。
「わかった、すぐやりますよ――が、おい」
「お気に召しましたか、玉木専務」
「おう」
冬芽が顔を向ければ、実に厭らしい笑いを浮かべた玉木がいて。
「充分だ。こんな悔しそうなツラを見るのは二度目だ、良い報酬だよ」
「そうですか」
「玉木?」
「失礼、手続きに入ります」
すっとぼけて逃げた。睨んでも無駄なようだ。
「では柊社長、そちらはどうぞ、お収めください」
「対価としては多すぎるわ。サインを全員分でも、足りないくらい」
「ならば、私の名刺をいただけますか」
「名刺?」
言われ、冬芽は胸のポケットから取り出して、改めて目を通してから返せば。
「これで充分です」
その名刺を、彼はあっさりと破った。
「では改めまして、私は
「――楠木? いや、どうして、あえて偽名なんかを? そんなの、調べればすぐわかることじゃない」
「その前に、玉木さん。映像の記録は続けていてください」
「おう」
「理由は二つあります。一つ目、社長は私の母と面識があったはずです。教員として働いていた際に、教えを受けていたかと。そうすると必然、母を通して私を見ることになるでしょう? 余計な推察材料を見せないこと、妙な勘繰りをされないことを考えました」
「まあ、そうなっていたら、そうかもしれないけれど……もう一つは?」
「今、証明しました。キジェッチファクトリーのフリーランスが二本、その価値はもちろん私もよく知っています。つまり、柊社長が対価が足りないとおっしゃることを、最初からわかっていました。そのため、私は一部門の社長に対し名前を偽る、という行動を、一つの対価として潜ませていました。実際、調べて偽名だとわかった際の損害は、かなり大きなものでしょう? それがこの場限りでの、対価です」
存在を偽るのなら、発覚した際に騙す行為とイコールになる。下手をすれば立件するような騒ぎだ。
それを最初に支払っていたのならば、この状況を見越している。
つまり。
冬芽の読み負けだ。
「玉木とは?」
「去年に知り合いまして、社長を悔しがらせることができたのならばと、そういう対価を」
「玉木……?」
「順調ですよー」
いつか残業で泣かすと、冬芽は心に誓って、日本酒を自分で注いだ。
「なんで私だったの?」
「確かに、酒好きの方もいらっしゃいますからね。しかし、それだと対面が崩れ、賄賂に限りなく近くなりますから」
「ああ、
「柊社長を選択した理由は多くありますが……言い方は悪いですが、一番簡単だったので」
「簡単?」
「比較して、の話です。ただ今回の条件は三つだと考えていました」
「聞きましょう」
「まず一つは、学生としての認識を揺らすことですね。私自身は間違いなく学生なのですが、私から申し上げるのと、社長自身が定義するのとでは、差異が生じますね。この点は、主導権の錯覚にも通じますが……」
「確かに、学生だってことを途中で思い出してたけど、主導権は私になかった?」
「さて、どうでしょう。続いて二つ目ですが、こちらは対価を意識することです。あるいはその価値、ですね。柊社長がリスク管理をする方だとは、事前情報で知っていましたので、自分がサインを書くことへの対価を思い浮かべるよう、多少の誘導は必要でした」
「まあ、接待としての体裁が保たれてるから、裏を読んで私から口にするのは、自然な流れ――に、なったわよね」
「三つ目、それらすべてが私の望みであることを、最後まで気付かせないことです。つまり、最初から落としどころまで、誘導を入れていたことを、です」
「ん……どう誘導してた? そういう気配は感じなかったけど」
「すべてを明かすことはできませんが、そうですね……たとえば、社長が本心では好まない接待を演出して、やや苦手な日本酒をチョイスしたことですか」
「……計算してたのか。調査不足だと思ったけど」
「そう思っていただけたのなら、油断も誘えますよ。ただ、雑談に関して嘘や偽りは混ぜておりません。あえて波風を立てるような物言いは避けましたが」
「――参った、負けよ」
「そうでしょうか。そう思わせたら勝ちですが、実際にはそうでもありません」
「そうかしら。ちなみにキジェッチのフリーランスなんて、どうしたの」
「これから私の経歴を調査する過程でわかるのでは?」
「お見通しか……いや、手の内が筒抜け?」
「どうでしょう。ただ、仕事の報酬で受け取ったものだ、とだけはお伝えしておきます」
「統括室じゃなく、うちの交渉課にこない?」
「ははは、仮に就職できなかったら、その選択肢も考えておきます」
「卒ない対応ね」
酒を飲み、大きく吐息を落とし、足を崩した冬芽は少し、天井を見上げるようにして思考の間を作った。
「……、一番良かったのは、食事を終えた段階で、今日はありがとうとにっこり笑顔で席を立つことね。この場合は?」
「想定していましたが、その時は別部門の社長に接触します」
「あら、二度目はなし?」
「違う手札を改めて用意するよりも、先に用意しておいた手札で別の人を狙った方が楽ですよ。ただし、それでもせいぜい、三度が限界です。この試験が行われている状況下で、三人もの社長と顔合わせをしながらも、サインを貰えていない時点で、私の負けは確定します」
「そう? 三人くらいなら珍しくもないと思うけど?」
「全員分のサインを集める、という前提ですから」
「ああそうね……今期統括室の主任でも、高校一年の時に半分くらいで、だいぶ話題にはなったもの。時間が足りないし、難易度が高すぎる」
「――そうでしょうか」
「ん?」
ここにきてようやく、明松は少し相好を崩すよう、苦笑を浮かべた。
「私は面倒が嫌いなんです。最初から、サインを全部集められる人に、頭を下げて頼んだ方が早いことはわかっていました。そのために」
彼は言う。
「一年を費やして情報を集めたんです。失敗しなくて助かりましたよ」
学生でありながら、一部門の社長と対等に渡り合ったのは、記録に残る。しかも、油断の一つで社長側が負けた。
だがそれは、結果だけ。
当人は、交渉ごとなど領分じゃない、なんて言葉を言って断りたいくらいの気持ちだったのだが、それを知るのはもっと先になってからだ。
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