袖振り合うのも多少の縁
ヒビキはカラミティに言いたいことだけは言えた。それはエイジが待つ答えにほど遠いかもしれないが、よい答えになるだろうと思って、玄関を出た。
平たく言えば面倒臭がった。
確かに誘導すればカラミティは納得し、雇われになることはできる。ただ頷くと分かっているものを誘導するのもバカな話で、そんなことよりも他の欲を実行してしまおうと考えた。そのために少女も1人残してきたが、ヒビキは色気のある話がしたかった。
風吹に似たリリィが朝食を食べに来なかったのが残念でならなかったのだ。想定では彼女が用意された食事に目を輝かせたところを、ほっこりとするはずだった。
しかし来たのは一番小さい子のマオ。彼女が言うには、会わせる顔がないそうだ。昨夜、頑なに目を合わそうとしなかったし、話そうともしなかった。何か気恥ずかしいことがあり、エイジがいる前でそういうことはできないというなら、しっかり話すべきだと考えたのだ。
ヒビキが亡くした妻に対して願掛けをしていたのは確かだ。だがカラミティに関わったことで、その掟は緩和されたと言っていい。女遊びなど以ての外と以前は考えていたが、親しくするぐらいなら構わないだろうと考えた。
また、リリィが風吹と似ていたことがヒビキの掟を緩ませた。風吹とできなかったことを彼女としたい、という気持ちが高まっていたのだ。それは、関係が高じて男女の肉体関係になっても構わないという下心もあったのだ。
表向きは落ち着きながら、内心ではウキウキで、隣の部屋の呼び鈴を鳴らす。しかし返事はない。マオの言葉からして、普段は彼女やフレアがこちらの部屋に住んでいるはずだ。昨夜だけリリィはこちらの部屋に寝泊まりしただけだろう。
頭に疑問符を浮かべながら、もう一回呼び鈴を押す。
「はいはい、何の用だよ」
扉を開けて中から出てきたのは年頃の女の子にしては無防備な姿をしていた。下着もつけていないだろうタンクトップを着て、男物っぽいハーフパンツを履いた女の子。短い黒髪は男の子っぽいが、女の子の匂いがそれをボーイッシュと表現させる。前にフレアと名乗った、暴力的な女の子だ。前は見た目清楚に見えたが、素はこういうズボラなのだろう。
「久しぶり。リリィちゃんどうした?」
無防備に出てきた彼女についてヒビキは何も言わない。気にしないのではない。後々ネタにできると思って心の中で反応しまっておくのだ。女の子の素を見られて過剰に恥ずかしがるなら面白いし、女の子が見られたことをどうでもいいと思うならヒビキは男性としてどうでもいいという存在ということが分かる。
どうせここで厄介になるなら、何かしら絡みがある。今は男として何とも思わなくても、生活していれば見えてくることもあるのだ。結果的に、あった事実は使えるのだ。
「あいつなら、あーでもないこーでもないってめかし込んでて動かないぜ。何か用かよ?」
と、彼女は大の大人を前にして何も気にしない。分かり切っていたことかもしれない。以前付き合ってから彼女は女の子らしいところはまるでない。まるでそうせざる得ないかのように振舞っている。
目的のリリィの方はマオの言う通り動けないようだ。やはりヒビキに対して意識し過ぎているのだろうか。用事の半分は達成できなくなってしまった。回れ右して戻るのもかっこ悪い。ともすれば色気は無いが、彼女に頼むほかない。
「この辺の地理教えて欲しい。買い物しに行きたいんだ。」
「買い物ぉ?」
彼女は面倒そうに顔をしかめた。
「これから世話になるんだ。君たちのために料理を披露しようと思ってね。」
ヒビキが大人数でないと料理しないのは単に2人程度では面倒だからだ。あとカラミティが男だからということもある。女の子相手なら喜んで作ってあげる。
本当はリリィと2人でデート気味に保養区を回るほうがよかった。それが果たせないとなると主目的である料理のための材料集めをしなければならない。
朝食を作る時に冷蔵庫や棚を漁ったのだが、インスタント食品の多いことにため息を吐いた。エイジもリリィも料理できないことを知り、やらねば、と決意したのだ。
「何作ってくれんの? どんなの?」
おそらくインスタントやファーストフードしか食べていないだろう女子は話に食いついて来た。予想通りの反応だ。
「それはこれから考える。で、付き合ってくれるか、ダメか。」
ヒビキの抽象的な答えに彼女は視線を外して少し考えたようだった。とはいえ、考えたのも束の間だった。
「ちょっと待ってろ。着替えてくる!」
流石にその格好のまま出るのはマズイのか室内に入っていく。2、3分ほどだろうか。時間が経たぬ内に彼女は部屋を出てくる。姿はさほど変わらない。タンクトップの上から白い襟付き半袖シャツを着ただけだ。日中は寒くない。健康的で結構な事である。
「待たせたな。行こうぜ。」
暇さえあれば暴れていた彼女は、純粋な笑顔でそう言った。
彼女と共に下りたマンションの先は日光が降り注いでいた。整備された道路。整理された区画。ゴミ一つ落ちてない空間。何より、人気がない。
彼女は相当身軽なようで、先を歩いて行った後に、ジャンプ一つで塀の上に乗ってしまった。いや、どう見てもおかしい。
「筋力か体のバネ強化の魔術か?」
「そうだぜ。強化しても、おめーみてーに体捌きが上手いと当たんないんだ。」
彼女はあっさりばらす。魔術というのは秘密にするものだと思ったが、そういう常識はないようだ。
「別に隠すほどじゃないしなー。自然に備わってるってことよくあるらしい。」
天然の魔術持ち。そういう常識は聞いたこともある。カラミティと旅をしていた時に会ったこともある。決まって彼らは迫害される。大半の魔術師が犯罪行為に手を出していると喧伝されているのだから当然だろう。
「オレのは隠せるっちゃ隠せたしな。ちょっと他人より強くなれるだけだ。」
塀の上を歩く彼女の表情は分からない。
「だが、その年齢で公安に関わりがあるってことは、間違いはあった、と。」
「まーな」
塀の上を歩くのが飽きたのか、彼女は下りてくる。結構な高さだったが、危なげなく着地する。身体的に身軽であることは確かなようだ。
「1年前ぐらいになるかな。カッとなって強化込みで両親殴って家出しちまったんだ。生きてるかどうかは分かんねー。」
彼女はその場で正拳突きのまねごとをしてみせる。少しも悲劇性はない。
「その後強盗しながらホームレス生活してたら、タカネにバインドされて捻られちまってなー。それから協力関係ってわけ。あ、タカネってリリィのことな。」
彼女にとって、それは軽い身の上話だろう。それはヒビキにとってもそうだ。
ただの不良娘の武勇伝にすぎない。ありふれた話だろう。そんな話の中で、リリィの本名を知ってしまうのがよほど悲しいところだ。
「何でキレちまったんだ?」
彼女がボカした話にツッコミを入れる。すると彼女はパンチラッシュの動作を停止して押し黙った。
「そん時ショックなことがいっぱいあったんだ」
打ち明けた彼女の声音は小さかった。あまり思い出したくないのだろう。ヒビキはそんな彼女の左腕を取って、自分の右腕に絡ませてしまう。
「お、おい」
「嫌なことを思い出すのはやめておけ。腹が減っても食えなくなるぞ。」
初めて会ったときよりもしんみりしていて、腕を組んでも強く拒否してこない彼女の女の子ぶりを確認できた。ヒビキにはそれだけでよかった。
「さぁ食いたいものは何だ。好きな食べ物は無いのか。」
「改まって言われると分かんないな」
「そうか」
彼女の返答に、何も否定はせず、ヒビキは頷いた。そして微笑んだ。
「なんで笑うんだよ」
「お前みたいな年頃は皆そう言うんだよ」
思えば風吹もそんな風に言っていた。子供の時はどんな料理も美味しいらしい。だから改めて考えるとどんな食べ物が好きか、迷ってしまうらしい。贅沢な話かもしれないが、それがいつも食えるという喜びなのだろう。
カラミティもたまに作る料理のせいで、『ヒビキの作る料理は全部好き』などと答える。
「そこそこ暑くなりそうだし、さっぱりしたのにするか」
「ってか、そろそろ離れろよ。こんなつもりじゃねーよ。」
彼女は恥ずかしくなったのか、自分から腕を抜く。
「カノ」
離れた彼女は短く言った。
「
「そうか。カノ、よろしくな。」
本名を明かして少しは歩み寄ってくれたのか。ヒビキは右手を出し、握手を求める。彼女はその手を自然に握り、渾身の力を持って握ってくる。
「あ、ま、い、わ」
「てめ、このやろ! やせ我慢だろ!」
万力で握り込んでくるので痛みはある。それを我慢するのが大人の男というものだ。少女の他愛のない悪戯が通用せず、彼女はようやく明るい表情を取り戻した。
「ガラガラだな」
カノの案内でやってきたスーパーはひんやりとした冷気が漂って来た。スーパー特有の明るい音楽が流れるものの、店内の客足はほぼない。
「保養区の人間は買い物しないで配達で済ませてるからな。わざわざ買いに来るのは保存食ぐらいだぜ。ほら、モノがケースにほとんどないだろ。」
彼女の言う通り通常の出物である商品がない。並べられているとしてパックされたハーブやキノコ類などであろうか。ただパック類とはいえ、生ものや肉類は置かれていない。
「商売、じゃないのか」
「まーな。経営してるんじゃなくて配達のために店開いてるんだってよ。」
野菜や肉類を買い求めて来たわけではない。その点では幸いだったが、しっかりとした食物での一手間料理するのであれば気にしないといけないかもしれない。
麺類の乾物や缶詰をいくつか、そして発酵食品をプラスチックカゴへと入れていく。一応カゴの中に目を光らせていたのだが、カノがこっそり菓子を入れることはなかった。彼女はつまんなそうについて来ていたが、ヒビキの買い物については興味深そうに眺めていた。どんなモノを作るか興味あるのだろうか。
「料理はできないとは言っていたが、お前自身はしたことないのか」
ふって湧いた疑問をぶつけてみる。がさつなこの少女のことだ。答えは火を見るより明らかなのだが、興味があるなら聞いてみるのが正しい。
「あー、前に一度やったが上手くいかなくてな。それっきりだ。」
やったことがないと返ってくるかと思いきや、彼女は苦笑しながらそう答えた。
「男か。家族か。」
自分のために料理というのは、ほとんどの場合できない。何しろ自分の腹具合のことは自分自身がよく分かっている。自分が好きなものを食うのに料理なんて普通必要はないのだ。
だから必然的に料理は誰かのためになる。好きな人。誰かへの感謝。そういった純粋な気持ちの表現だろう。
風吹に、果物の皮の剥き方を教えてあげたことを思い出す。本来の実よりだいぶ小さくなったリンゴを出されて微笑ましかったのだが、笑うなと怒られたものだ。
「いや、結局食べてくれなくてさ。もったいないから自分で食って味しなかったから、結果的に良かったんだよ。」
誰かのためかは答えず、彼女はまたしんみりとした目で答えた。
10代の少年少女は多感な時期だ。時間が長く感じるのは経験することが多いからであろう。それだけに色んなことが喜びであり、色んなことが悲しみである。だからこそ、カノのような家出少女も出てくるのだろう。彼女は色んなことを受け止め切れず、他人に助けを呼べず、追い詰められたのだ。
ただそれらはよくあることとして一括りだ。カラミティにも言った。特別かわいそうなことはない。同情はすることもあろうが、そのかわいそうに順位は付けられない。
「また挑戦してみることだ。マオあたりは見る目を変えそうだしな。」
「生意気なアイツのために作るってのは癪だが、面白そうだな!」
料理自体に嫌悪を感じているわけではないようだ。悪戯心でも前向きに考えてくれるなら、いい傾向である。料理の心としては邪道かもしれないが、別にプロを育成しようとしているわけではない。それぐらいが丁度いいのだ。
「で、金あるのか」
「エイジからカード貸してもらった」
「なんだよ、つまんねーな」
一通り欲しいものをカゴに入れて会計する。電子マネーやクレジットによるセルフ方式である。出入り口には警報装置しかない。保養区で強奪するような者はいないということであろう。暴動が起きたらひとたまりもないだろうが、起きようものもないのだろう。
商品をバーコードに通し、カードリーダーにカードをかざして全額決済。このカードの中にどれだけの額があるのかだけは知りようがない。他人の金を使うというのは気安いということの同時に恐怖でもある。中身を観測しようがないのだから。
それにしてもこの少女が金についてツッコミを入れてくるとなると、ある程度財布は持たされているということだろうか。他人に自分の金を軽々しく貸せるエイジに管理ができているとは思えない。リリィは以前食事について頓着していない節があった。この線も多分ない。
「そう言うからには自分で金持ってるのか」
「オレのじゃないけどな!」
と、色取りどりのカードを見せびらかしてくる。先ほど強盗しながらホームレス生活をしていたと言った。完全な常習犯なのだろう。多分使えなくなっているカードもあるのではないだろうか。
「俺が言うのもなんだがな。そういうのはやめとけ。たとえ可能であっても、人のモノに手を出すと相当なしっぺ返しになるぞ。」
「んだよー。先生かよ、おめーわよー。」
彼女は真面目に聞いていない。当然だろう。社会的に金が電子化されたとしても、扱うのは人間である。人間の思い込みによってセキュリティの価値は変わる。
料理も同じだ。手間暇かけて良いモノを作ろうとも、満腹になるのはインスタント食品でも変わらないのだ。どちらがいいかなど、所詮思い込みでしかない。
「仮に使ったら、そこから足が付くだろ。それで迷惑するのはお前じゃなくて、一緒に居るエイジやリリィだろう。」
盗まれたり、落としたりしたら再発行手続きは基本だ。しない、できない輩は一定数存在する。そしてそもそも偽造だったりするパターンもある。一番面倒なのはこのパターンだろう。
マジン犯罪の影に隠れた、小遣い稼ぎの手段だ。他人の物を使うことに怖れを感じない魔術師やスジ者がやらかす犯罪だ。偽造したカードをさらに売りさばいて一般の人間の手に渡らせる。第3者に売った偽造カードを媒介に、犯罪者が犯罪者扱いすることも可能なのだ。いわば二重詐欺。人間の欲とは限りないものだと感心する。
そう、他人の物を使うのは憚れる、リスクがある時代になったのだ。
信用があるのは共用できるもの、独自のものだ。だからこそ、金は重要なのだろうが。
「ま、ほとんど使う気なんてねぇし? 使える奴は自分のカードに補填してあんだ。前にマオにやってもらった。さっきのは見せびらかし用。あれやると新しいカモを釣りやすくなるだぜ?」
この不良少女にしてはちゃんと考えてあったようだ。それでも悪辣だが。
無料のレジ袋を取り、台へ移動。カゴから袋へ商品を移す。
「おっさん、リスクあるの使えない性質?」
「使えたらカラミティと組んでないの」
ヒビキの場合、自分のものでも軽々しく使えない。使おうにも残高が少ないのも多々あった。カラミティと一緒にモグリの魔狩りし始めてから可能性は0になった。
「ホントにおっさんってアンラッキーなんだな」
彼女は改めて分かった風なことを言っている。リリィから説明されただけでは分からないこともあるだろう。ヒビキの不運は極めて不条理だ。理屈で説明できそうな現象もあるからだ。
さて、不良少女の犯罪遍歴を知った所で帰り道は楽だ。流石に道が分かると違う。ただある程度日が昇っても、道に人通りはない。車通りもない。ほぼ無人のような気さえする。あのマンションですらそうだ。誰かが住んでいる気配はない。
「ここらへん、人間いるのか?」
「さあ?」
返ってくるのは不明の言葉。保養区の住宅事情など知ったことではないが、複雑な事情があるならなおのこと知ったことではない。
この国の人口が近年でどれほど減ったのか。あるいは一日に何人死んでいるか。もはや分からない。ヒビキは死なないから関係ないが、短期アルバイト中に死亡連絡が来たのは1回や2回ではないからだ。
だからこそか、家族との繋がりも薄いのかもしれない。血のつながった人間を殴ってくることより、血のつながりの無い者同士で姉妹関係を名乗ることのほうが大事なことはあるだろう。
「おっさんさ」
「ん?」
彼女の先導ではなく、ヒビキが先を歩いている。彼女はトコトコと並走して声をかけてきた。
「タカネのこと、狙ってんの?」
「いや、そういうことじゃない」
ヒビキは言われてみれば、という顔をした。見ていると微笑ましい顔になっているから、好いてるんじゃないかと勘違いされてもおかしくない。
「死んだ娘によく似ててな」
娘であり嫁であるが、言うほどのことではない。
「おっさん娘いたの!? 結婚してたってこと!?」
「まぁな」
嘘は言っていない。娘と嫁が同一なんて話、通常はありえない。彼女は大きく勘違いしているだろうが、誤解を解こうとすれば面倒になるのは間違いない。
「あれ? 男に先立たれた女は未亡人だろ? 逆は何だっけ?」
「男やもめとかいうらしいが、特定の単語がねぇな」
「悲しいおっさん。略してかっさん。」
「悲しいけど、今は悲しくねぇよ」
実際の所、そうだ。カラミティが特にそうだ。図体がでかいだけで子供のようなものだ。そして今、手の届く所に女の子が3人もいる。楽しいだけで悲しいことなど一つもない。
「それにしても何だ。俺がリリィを気になったらマズイのか。」
「んまー、あれで豆腐メンタルだし? 普段鬱屈してるから、ああいう格好が好きなんだってさ。縛ったりとかしばいたりとか。ただおっさんみたいなのに優しくされちゃうとダメっぽいわ。酒飲みながら写真ずっと眺めたりして、ハッキリ言ってキモいわ。」
身内の楽しいネタが見つかったかのように、存外早口で喋る。そういう事実は、生活しながら知りたかったが、どうもこの子は口が軽いようだ。身内ネタで。
「ま、嫌われてないようで何よりだ。あの後、生死不明だったしな。」
ヒビキが直接会ってないのでカラミティの又聞きになる。ともかくあの夜、あの場にリリィがいたようだ。【呪いのカラミティ】で一面ほぼ更地にしてしまった。
生きていたとして、恨まれるかもしれないなと思っていた。昨夜、最初以外ほぼ目を合わせてくれなかった。嫌いになったわけではなさそうだったが、反応がおかしすぎた。
「でも、おっさんがタカネと結婚するなら悪かねぇぜ?」
「いや、それはねぇよ」
いくら悲しくなくなっても、いくら心休まることが多くなっても、ゆずれない一線というものがある。だから片耳だけイヤリングなんかしているのだ。
マンションのセキュリティは、部屋のキーと共通。キーのどこかの作りとで連動しているのだろう。それ以上は考えない。面倒である。
ともあれ帰ってきたら、元の部屋に戻る。カノもついて来ているが、そもそも昼飯を食わせるという話だったし、問題はない。
扉を開けて戻ると、ガキ2人の姿はなく、ソファーで横になっているリリィの姿だけがあった。リリィの前には空になっているだろう缶ビールが2本ある。
「何であいつ昼間から酒飲んでんだ。ヤケ酒か?」
「知るか」
カノの分からないことはヒビキにも分からない。気になるが、料理を作っていれば起きるだろう。どうも寝ているわけではなく、上の空かぼーっとしているか何かで一点だけ見つめているようだ。
覚えがある。あれは何か無くした目だ。風吹がいなくなってしばらくあんな状態だったように思う。そしてふとした時に気付くのだ。こんなことしていても何も変わらないのだと。ヒビキは手持無沙汰で神社を出て来た。心の整理がついたわけではない。心にぽっかり穴が開いたままで、人の多い街に出た。そして、自分の不運の最凶さを思い知った。余計、絶望が深かったことを覚えていた。
よくもまぁ、あの時カラミティを信じたものだ。風吹のお願いさえなければ、この場所にはいなかった。ヒビキは嫁の笑顔を思い出して感謝した。
ただ嫁の笑顔を思い出したおかげで、気も変わった。買い物のレジ袋をテーブルに置くと、ゆっくりとリリィに近づく。
「おい」
リリィに声を掛けるが、返事は帰ってこない。まったく無反応である。
心ここにあらず。深刻である。大抵の者は放置する。ヒビキの自称母親もそうだった。彼女は自分が黙ってれば愛される人物であると思っている。馬鹿すぎる話なので、いつの頃か無視するか生返事しかしなくなった。
ヒビキはふと思いついて、横になる彼女の側に跪いた。そしておもむろに、彼女の唇に触れるか触れないかというソフトタッチ気味に自分の唇と合わせた。
「うぉい」
カノが声を漏らした。彼女の年齢からすれば唐突すぎるか。とはいえ、誰が見ても唐突だったろう。ヒビキはそういう人間だ。後先を考えない。どうせ不運だったからだ。通りすがりのカラミティを助けたのもそんな理由だ。
「は?」
我に返ったのかリリィが唇を中心に顔を手で覆っている。今自分に何が起こったのかが理解しにくい状況にあるのだろう。
「よし、作るぞ」
「この状況で!? おっさんマジか!」
カノのツッコミは極めて正当である。だが、ヒビキは一切聞こうとしない。買って来た乾麺と缶詰を手にしてキッチンに向かう。
起き上がったリリィは状況を掴めず、しばし呆然としていた。
「ど、どういうこと?」
「いや、オレにも分からん」
そしてカノに聞くのだが、彼女にも分からないのだった。
「いやだって、その、やっぱり私って遊ばれてるのかしら」
「ワケ分らんし、聞けばいいんじゃねぇの? オレは知らん。」
カノは匙を投げた。彼女はソファーに座り、テレビの電源を点ける。この時間にやっているテレビ番組といえばバラエティ仕立てのエンターテイメント番組か、昔のドラマの再放送しかない。彼女ぐらいの年齢だとニュース番組など興味がない。
とりあえず見られる番組に回してから落ち着き始めてしまう。
「いやだって、ヒビキさん、奥さんに先立たれたって」
「それ聞いたわ。何も問題ねぇじゃねぇか。」
カノにとっては何も問題ないことだ。とはいえ、奥さんがいたとしても問題ない。カノにとっては仲良くなれそうなおじさんでしかない。そこに恋心はない。彼が初恋の相手だったら大事故だったかもしれないが、彼女にとってそれはもうありえないからだ。
「奥さんが心残りだったら、私なんて見てくれないじゃないの」
「いや、脈はあるだろ。死んだ娘に似てるから気になるって言ってたぜ。」
「むすめ!?」
カノはいちいち大げさなタカネのリアクションに引き気味になるが、タカネの方にとっては重大な問題である。
「ええい、うざったいなぁ! とっとと聞けばいいだろ!」
仕事中は冷静で理知的な姉貴分をカノはめんどくさがって蹴りだした。
タカネは蹴りだされて、恐る恐るキッチンへと向かった。
大理石の床と違い、キッチンはレンガ張りの床になっている。すぐ左はバルコニーになっており、洗濯物が干せるようになっている。ヒビキは入って正面の流し台で、大鍋に水を貯めていた。
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