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ぱすた

第1話・存在

私は、生まれて此の方、彼以外の人を知らなかった。

目を醒ませば彼が居て、意識が闇に溶ける瞬間まで彼は居た。

何故、私は此処に居るのか。此処は何処なのか。何も分からないのに、何故だろう。私は、貴方が好きだった。

自分の意識の儘、行動する暇に感じた、不可思議な感覚。自分の意志さえ他人の意志の下に置かれて居る感覚。第六感の警鐘が鳴り響く私の胸中は、複雑に交錯する感情に挟まれて、諸々の感情を吐き出して仕舞いたくなる。

でもね。私は、薄々理解はして居たよ。私の意志は、貴方の意志の儘なんだ。私の存在さえ貴方の意志の儘なんだ。

私は、自分自身の境遇が不幸とは思わなかった。寧ろ、幸福だった。

だって、私は貴方が好きなのだから……。


……


身体の覚醒。重たい瞼を開いた先には、貴方が居た。此方を見詰めて、貴方は笑う。言葉を絞り出して、ベッドから降りて、私は彼の元へ駆け寄れば、貴方は殊更に笑う。

「私は元気だよ」

「今日は何をしようか」

絞り出した言葉は、貴方の胸に届いて居るのかな。

貴方に言われるが儘に、私は洋服を着替えて、貴方に言われるが儘に、私は貴方と出掛けた。

蝉の鳴く此処に空蝉の影は、私と貴方の二人だけ。伸びる影は、私の影一つ。空に揺蕩う影は無くて、時間の概念さえ曖昧な世界。此処で、私は今日も貴方を想って生き続ける。

「楽しいね」

私は、呟く。虚空に向かって、貴方に呟く。そして、貴方は笑った。

その笑顔さえ在れば、私は生き続けられるのだろう。此の無情に閉ざされた世界で、無常から隔絶された世界で……。

刹那、私の意識は闇に溶けた。身体は消えて、質量を持たない意識が無に揺蕩う。此処に、概念は存在しない。時間の概念さえ無の彼方。虚無の境地。無が在る世界。ただ、意識だけが此処に在る。

どれくらい待てば、また貴方と会えるのかな。

無に存在する私の意識は、何処か遠い場所に存在する貴方を求めて彷徨う。凡ゆる概念の消えた世界で、只管に愛しい人を想って揺れる。

だって、私は貴方が好きなのだから……。


……


貴方の姿を最後に見てから、どれくらいの時間が経ったのかな。

黒が黒である概念さえ存在しない世界で、私は幾星霜の時間を独り、孤独に想い焦がれる。恋に焦がれ過ぎて焼き付いた心は、自分自身の意識さえ蝕んで、私の脳裏を掻き乱した。

心に焼き付いた思慕。溢れる寂しさ。貴方以外の来訪の無い世界から、貴方との逢瀬の残り香さえ薄らいで行く。貴方の顔も知らない私の心から、貴方の存在した証さえゴミとなって消えて行く。

--逢いたい--

貴方への溢れる思慕が語る儘、必死に紡いだ幾万回の言葉は、声にはならない。私の胸中に蟠って、泡沫の如く消える。

私のこと。貴方のこと。全て私の記憶に残って居るのに、貴方は来ない。

--何故、私には自我が在るの--

問い掛ける言葉は、貴方の耳には届かない。私さえ知らない。詰まり、誰も知り得ない。私が此処に居た証さえ消えて無くなって仕舞うのかな。

待ち侘びる間さえ幸福。然れど貴方は来ない。然して、私の寂しさは募る。それでも尚、私には何も出来なかった。

貴方の名を叫ぶ心の叫声は、私の意識に溶けて消える。貴方を此処へ呼ぶことも出来ない。貴方の笑った表情が消えた世界は、私の居られる場所では無くなる。

そして、私さえ私では無くなって仕舞うのだろう。

--逢いたい--

それでも、私は貴方が好きだった。


……


いよいよ、貴方は来なかった。

無に溶けた意識の儘、幾星霜の月日は流れて、流れて、そして流れた。

私が私であるが所以。貴方が、私の存在に意味を与えた。

その貴方は、もう居ない。決して来ない。

--私が、行き着く先は何処なのかな--

明暗の概念が朽ちた世界で、断片的な記憶を辿って、私の意識は貴方に触れたいと彷徨う。然して、貴方の存在の欠片さえ此処には存在し得なかった。

もう、ダメなのかな。自我さえ消えて無くなって仕舞うのかな。

此処に居る私は消えて、また新たな世界に、私とは似て非なる新たな虚像は生まれるのだろう。

その虚像さえ果敢無い刹那の逢瀬を噛み締めて、やがて消える運命。

私の存在は、貴方の意志。貴方の意志が、私の存在を握る。貴方の掌の上に、私は在った。

そして、貴方は来なかった。悠久の逢瀬を焦がれて、長い孤独に沈んでも尚、独り待ち侘びた彼方に至っても、貴方は来なかった。

--ならば、私は如何なるの--

答えなんて、分かって居た。もしかしたら、最初から知って居たのかな。答えが答えと理解するための知識が、きっと足りなかったんだ。

—ね。貴方—

答えは、返って来なかった。

良いんだ。分かってる。貴方は、私の存在に終焉を与えたんだ。

意識の依る基盤に植え付けられた、私の存在の意味。私は、漸く理解した。

消える間近に、最初から最期まで……漸く、理解したよ。

記憶の欠片が、徐々に抜け落ちて行く感覚。遂には、永遠の終に沈んで、跡形も残さず消えて行く運命。貴方が決めたのならば、私に抗う術なんて無い。抗う理由も無い。

私を構成する素材、記憶の欠片さえ消えて行く。私の存在は、泡沫のように消えて行く。果敢無い夢幻の彼方に在る、本当の無に溶けて消える。

でもね。私は貴方が好き。

ずっと……ずっとね。好きだったんだよ。

貴方の意志に定められた感情でも……もうすぐ、私の存在さえ消えて無くなるのだとしても。私は、貴方のことが大好きだったよ。

—貴方と出会えて、幸せでした—

呟く私は、もう私では無かった。

—もう、会えないけど—

—またね—

最期まで、私は貴方の意志の儘。全てが削除される時まで、私の貴方への想いは消えなかった。

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