1-02『その方が気持ちが良いと思って』

 鷹峰湊について記す。


 身長はさほど高くなく、猫背で目つきが悪い。性根と底意地の悪さにかけては有名で、校内で知らぬものはいないほどだ。しかしそれは客観性に欠ける間違った認識であり、真の鷹峰湊は人間愛に溢れた誠実な人柄で誰からも好かれ愛されるべき人間である。本人はそのように分析していた。


 運動部が幅を利かせるこの私立マキノ学院高校において、湊は運動部連総長山添猛やまぞえ・たけるに日々些細な嫌がらせの数々を仕掛けている。きっかけ自体は幼馴染の春日井春に対し、山添先輩がはたらいた狼藉であるが、今や湊のちっぽけながらも陰湿な嫌がらせの数々は、文化部による運動部へのレジスタンス活動として、幅広く認知されている。


 湊が久住先輩のことを知ったのは、まだレジスタンス活動の認知度が低かったころ。


 どうやら山添先輩には彼女がいるらしいという情報を手にした湊は、これは新たないやがらせの材料になると思い、リサーチを開始した。まずは写真部のツテを使って、彼女の名前と外見、その他の詳細データを入手、その後に直接の接触をはかった。ついでに写真を買わないかと言われたが、それは丁重に断った。

 久住葵は、あの野獣のごとき体躯と人相と知能と性根を持つ山添先輩とはおおよそ不釣り合いな女性であった。この二人が付き合っているのは、きっと何かの間違いに違いないとさえ思った。


 実際のところ、それが間違いであったのかどうか、今でさえ確かめる手段はない。


 とにかく、その時の湊はよくわからない義憤に突き動かされていた。

 山添先輩と久住先輩を破局させなければと思った。


 もちろん湊は並行して山添先輩への様々ないやがらせプランを実行に移しており、その日、雨の降りしきる駐輪場にペンキ入りのバケツとブロッコリーを持って訪れた。

 山添先輩が通学に使用しているマウンテンバイクをピンク色に塗り替え、サドルをブロッコリーに差し替えた。


 そこに姿を見せたのが久住先輩だったのである。


 その時の先輩は、傘を差して、長靴を履いていた。まずいところを見られたと、湊は一瞬動きを止めたのだが、そんな湊に、久住先輩はくすりと笑ってこう声をかけえたのだ。


『ああ、そうか。君が鷹峰くんか』


 はい、そうですと、湊は答えた。


『ペンキ、まだ余ってる?』


 はい、余っていますと、湊は答えた。


 すると、久住先輩は傘を持ったまま湊の方に近づいていき、バケツに浸かった刷毛を手に取った。


『ここ、塗り残しがある』


 言うなり、べちゃ、と遠慮なく自転車にペンキを塗りたくる久住先輩。雨でわずかに湿った制服ごしに、ほのかな体温が湊の背中にぐいと押し付けられる。それだけで、湊は動けなくなった。


 てっきり行動をとがめられるかと思ったのに、久住先輩がこうした行動を取ることも予想外だった。彼女は怜悧で聡明そうな横顔に、わずかな笑みを浮かべながら、同級生の大事にしているマウンテンバイクを、ピンクのペンキでべちゃべちゃにしていく。


『い、いいんですか?』


 ピンクのペンキがすっかりなくなるころ、山添先輩のマウンテンバイクは、ピンク色に塗りたくられたというより、ピンク色のスライムに飲み込まれたかのような惨状を呈していた。

 おそるおそる尋ねる湊に、久住先輩はまた、くすりと小さく笑う。


『いいんじゃないかな。わたしも今日彼と衝突したばかりだからね。これくらいなら良い気味だ』


 ピンクのペンキがはねた顔で、久住先輩は悪戯っぽい表情を浮かべる。


『とは言え、山添くんをからかうのもほどほどにね。ま、今日のわたしが言っても説得力はないかな』


 じゃあね、と言って、久住先輩は雨の中、帰って行った。傘をくるくると回していて、いくらか上機嫌な様子だった。湊は、それをぼうっと見送るしかできなかった。


 湊の悪戯に久住先輩が加担した件は、きっと伝えれば山添先輩に大ダメージを与えられるだろうと思った。湊は帰宅後、その旨を記した犯行声明を作成し、しかし最終的にはそれを握り潰した。


 それ以来、湊は、山添先輩への個人攻撃の為に久住先輩のことを持ちだすのはやめることにした。写真部に赴いて久住先輩の隠し撮り写真をネガごと購入し、以降、絶対に久住先輩の隠し撮りをしないようにと厳命した。





「鷹峰くん」


 鈴を鳴らしたような凛とした声が響いて、湊はピンと背筋を伸ばした。


 3年生の下駄箱であるから、ここに久住葵先輩が来るのは当然の話である。が、湊の予想した時間より幾らかズレがあった。具体的に言うと、思っていたよりも早かった。


「あ、お疲れさまです。久住先輩」

「なにしてるの」

「山添先輩の下駄箱に、偽のラブレターを入れています」


 下校時間まであとわずか。山添先輩は、ラグビー部の練習を終え、もうじきこの下駄箱を訪れるだろう。そして間違いなく、大量に詰め込まれた偽のラブレターを発見するという算段だ。

 言うまでもなくこれは、湊が山添先輩に対して続けている陰湿なレジスタンス活動の一環だ。幼馴染の敵討ちに始まったこのレジスタンスは、いつしか運動部対文化部というマクロ構造を内包するようになり、しかし実態は、湊の山添先輩に対する個人的な逆恨みといった側面の方が強くなっている。


「そうか。君も飽きないね」


 久住先輩は小さく肩をすくめ、それから靴を履き替えた。


 先輩の態度はあまりにも自然だった。つい昨日、強引に湊の唇を奪ったあの行為のことを、まるで覚えていないかのように。しかも久住先輩はあのとき舌まで入れていたというのに。


 いや、本当に覚えていないんじゃないだろうな。


 昨日のことを意識し始めると、湊は急に心臓が跳ね上がるのを感じた。柔らかい唇の感触と、顔にかかる熱い呼吸、蛇のように絡みついてくる舌先。すべてが一斉に思い起こされる。


「あ、あの、先輩!」


 湊は思わず、久住先輩を呼び止めていた。


「ん」

「あの、き、昨日のことなんですけど」


 勇気を出してそう切り出すと、先輩は『ああ』と言った。


「キスのこと?」

「ひゃいっ」


 まさかのド直球返答である。湊は舌を噛みそうになった。


「あれは本当にごめんね」

「い、いえ。俺も貴重な体験をさせていただきました」

「いや、なんの断りもなくいきなり唇を奪うのは悪いことだよ。反省してるんだ。これでも」


 反省しなくてもいいんですよ、と言おうとして、湊はその言葉を飲み込む。下手を打つと薮をつついて蛇を出すというか、個人的な欲望の類を口に出すという結果にもなりかねない。


 心臓は相変わらず、冷静になろうとする湊の心情を汲み取ってはくれなかった。


「とりあえず、」


 そして、そこの空気を読めないのは、久住先輩も同じであった。


「帰る方向同じだったし、一緒に帰ろうか」


 そんなことを言われた湊にできることと言えば、春に『直帰します』というLINEを送ることくらいである。しかしそれもやむないことと言えよう。





 昨日、久住先輩と出くわしたのは、駅の高架ホームでのことだ。家の方向が同じだということはその時初めて知って、先輩からキスをされたのは最寄り駅を降りてしばらくしてからだった。


「今日は調子良さそうですね」


 ホームで電車を待ちながら、湊はとりあえず話題を振った。


「うん、そうだね。だから昨日みたいなことにはならないよ」


 昨日の久住先輩は、本当に体調が悪そうだったのである。湊が先輩と一緒に帰ったのは、そんな彼女を放っておけなかったというのもある。まさかその結果、唇を奪われることになるとはまるで思っていなかったが。


 しかし、先輩の物言いからすると、体調が悪いこととキスをすることは明確な因果関係にあるかのようである。


「それで先輩」

「うん」

「なんで昨日、あんなことしたんですか?」

「昨日言った通りだよ」


 夕日が沈むプラットホームに、電車が到着する。ふわっと振り返る久住先輩からは、やけに良い匂いがした。


「わたしはね、キスをしないと死んでしまうんだ」


 はっきりとそう言い切る以上、『本当ですか?』と尋ねるのは野暮なのだろうと思われた。先輩はキスをしないと死んでしまうから、生命維持のために、やむなく湊にキスをした。


 筋は通る。


 というか、それくらいの理由がないとむしろ筋が通らない。

 さすがに湊も、久住先輩が特に理由もなく手あたり次第男にキスをするような女性であるとは考えたくないし、そこをフォローする理由として生命活動の維持は妥当である。信憑性はともかくとして。


 到着した電車に乗り込み、それでも解決しないいくつかの疑問を尋ねることにした。


「先輩が生命維持のために俺にあんなことしたのはわかりました」

「ありがとう」

「じゃあ、なんで舌を入れたんですか?」


 正面で船をこいでいたサラリーマンが、ぎょっとして顔をあげる。だが、湊は一切気にせず、先輩の方をじっと見ていた。

 久住先輩は、少しだけ困ったように目を逸らし、気まずそうに口を開く。


「うん、それは」

「それは?」

「その方が気持ちが良いと思って」

「なるほど」


 湊はおおいに頷いた。


「先輩は慧眼ですね。確かに気持ち良かったですからね」


 正面に座るサラリーマンが、居心地悪そうにしながらちらちらとこちらを見てくる。しかし久住先輩はあまり気にした様子もなく、久住先輩が堂々としている以上、湊も胸を張ったまま言葉を続けた。


「気持ち悪いよりも気持ち良い方が良いですから、合理的な判断と言えます」

「うーん。でもやっぱり良くなかったよ」


 久住先輩は、正面のサラリーマンのことは気にしていないようだが、代わりに湊に対してはやけにばつが悪そうにしている。


「え、あの、俺、下手でした?」

「そういうことではなく。そもそも君はされるがままだったからね。上手いとか下手とかじゃないよ」

「あ、はい」


 次の駅に到着すると、サラリーマンはそそくさと席を立ち、慌てて外へと出て行った。それを目で追いつつ、さすがにいまの話は聞かれたくなかったと思う湊に、久住先輩は続けた。


「いきなりキスをしたのは止むを得なかったにしても、舌を入れるのは良くなかった。びっくりしたでしょ」

「そりゃまあしましたけど」


 そこで湊はひと呼吸置いて、久住先輩にこう言う。


「しましたけど、あんまりイヤじゃなかったですよ」

「うん」


 湊が勇気を出してそう言ったわりに、先輩の反応は割と淡白なものだった。


「君がそう言ってくれるのはありがたい。鷹峰くんがわたしを嫌っていないようでほっとしたよ」

「俺はそう簡単に先輩のこと嫌いにはなりませんよ」

「そう? なら、なおさらほっとした」


 久住先輩は、だいぶ憑き物が落ちたような顔をしていたが、湊のもやもやが晴れたわけではない。まだまだ気になること、聞きたいことはたくさんあった。


 久住先輩が湊にキスをしたのは、彼女の本意ではなかった。キスをしなければ死んでしまうので、やむを得ず、緊急回避的にキスをしたというだけのことだ。では普段、先輩は誰とキスをしているのだろうか。


「あの」

「うん」

「普段先輩は、山添先輩と……」


 電車が家の最寄り駅へと到着する。ぷしゅ、という音がして、扉が開いた。


 久住先輩はすぐには降りず、じっと湊を見た。そして湊もまた、久住先輩を見つめ返す。彼女の大きな瞳は、わずかに青みがかっているようで、月並みな言い方だがじっと見ていると吸い込まれそうな気がした。


「山添くんとはしないことになってるんだ。彼はそういうの嫌がるからね」


 ほっとしたような、まだモヤモヤが残るような、そんな気持ちだ。久住先輩はこんなことで嘘をついたりはしないだろう。なにせ湊に対して取り繕う理由がない。だがその言葉は、言外に山添先輩との関係の深さを匂わせるものがあったし、結局、久住先輩は生命活動のために誰かとキスをしているのは変わらない。


「降りようか。電車が出ちゃう」

「あ、はい」


 発車ベルが鳴り終わる前に、湊と久住先輩は並んでホームへと降り立った。


 これからどうしようか。駅を出ても、もうしばらくは同じ方向へ歩く。

 さすがに、昨日キスした人通りの少ない公園まで行くと、湊もなんというか、落ち着いてはいられなくなるだろう。モヤモヤだって募るままだ。


 ちゃんと意識を切り替えねば気まずいままだと思う湊ではあったが、結局、それはせずに済んだ。


 不意に、久住先輩の鞄から軽快なメロディが鳴り響いたのである。先輩は鞄に手を突っ込み、スマホを取り出すと、その画面を見てわずかに顔をしかめる。


「ごめんよ鷹峰くん、急用だ」


 こんな時間に妙なものだと思ったが、久住先輩はそこに言及の余地を残さないほどきっぱりと告げた。


「あ、はい」

「ともあれ今日は君と帰って正解だった。返す返すも、鷹峰くんがわたしを嫌っていなくてほっとしているよ」


 そういう言い方は、言葉以上のものを期待させるのでよくないですよ。


 と、湊は思ったが、これはまぁ自分の稚拙な感情の押し付けに過ぎないから、口に出すのはやめておく。代わりに、足早にホームを去ろうとする久住先輩の背中に、別の言葉を投げかけた。


「久住先輩!」

「うん」

「あの、またなんかあったら、俺を使ってもらって構わないんで!」


 先輩は振り返ると、驚いたように目を見開いて、それから少し、目を細めた。


「舌を入れてもらっても良いんで!」

「わかった。覚えておくよ」


 久住先輩は小さく微笑んで、改札を出て行った。





 翌日、久住先輩は学校を休んだ。くわえて、それから数日の間、湊は学校で彼女を見かけることはなかった。

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