1-01『ゾッコンってことですね』

 久住葵くずみ・あおい先輩について記す。


 少しうねり癖のあるショートヘアで、背が高く美人である。同時に変わりものでも有名で、校内では知らない者はいない。スタイルは密かによく、水泳部の活動中に撮影されたと思しき隠し撮りの写真が、写真部から流出していた。湊も一枚だけ持っている。

 同じクラスの山添やまぞえ先輩と付き合っているという噂があったが、ここ最近はそれも聞かない。別れたのか、最初から付き合っていなかったのか、あるいは今も交際は継続中なのか。


 理想的なのは2番目だ。1番目でも悪くはないが、最悪なのは3番目である。

 頼むから山添先輩と久住先輩は付き合っていないでくれと、湊は天に祈った。


 何しろ湊は、久住先輩とキスをしてしまったのである。


 湊と久住先輩は、これまでそう接点があったわけでもない。昨日たまたま、帰宅途中の駅のホームで出会い、ひと気のないところで2人きりになり、そして唐突にキスをされた。

 キスをしてきたのは先輩の方であり、言ってみれば湊は被害者の立場に相当する。だがこの言い分は通らないだろう。湊は、久住先輩の水着隠し撮り写真を後生大事に生徒手帳の中に隠し持っており、キスをしようとした久住先輩に大した抵抗をしたわけでもない。トドメに湊は昨晩、久住先輩の出てくるドギツいほどエロい夢を見た。


 これらの事実を客観的に総括すれば、湊に久住先輩のキスを受け入れる意思があったのは明確で、あれは双方の合意のもとに行われた行為ということになる。


――鷹峰くん、わたしはね、キスをしないと死んでしまうんだ。


 あの言葉には、どういう意図があったのだろう。


「………」


 部室の天井を見上げ、湊はぼーっとしていた。あれから丸一日、ほぼ何も手に着かない状況だ。なにをしていても、不意にあの唇と舌の感触がよみがえってきて、まるっと意識を席巻してしまう。夏休みも終わっていよいよ二学期だというのに、これでは何も捗らない。


 湊の所属する都市伝説研究会は、旧校舎のひなびた部室棟の一角を部室として活動していた。もともと文化系クラブが冷遇されがちなこの学校において、創立1年未満、所属人数2人の同好会であるから、扱いはなおのこと悪い。


「湊くん、ぼーっとしてないで手伝ってくださいよ」


 ひとり、机に向かって粛々と作業を続けていた部長の春日井春かすがい・はるが、唇を尖らせた。


「うぅーむ……」


 腕を組んで目を瞑る湊。


「あっ、上の空ですね」

「うん」

「ずいぶん悩んでますね。難しい問題でも?」

「うん」

「じゃあ、あたしに烈風堂のクレープ奢ってくれますね?」

「それは嫌だ」


 春はなおのこと唇を尖らせた。そのまま嘴になりそうな勢いだ。


 彼女は先ほどから、でこぼこした机の上に模造紙を広げ、市内の簡単な地図を模写している。まるで小学生のやる夏休みの自由研究といった趣だが、実態もそれとは大差がない。

 模造紙の上の方には、彼女にとっての目下の研究課題が記され、それは『市内における血塗れ怪人の目撃情報』とあった。


「あたしはこうして、文化祭に向けて準備を整えているのにですよ。湊くんは何もしてくれない」

「俺だって文化祭に向けた準備くらいはしてるよ」

「でも湊くんがしてる準備って……いやまぁ良いです。何かあったんですか?」


 春は説明を求めている。どう説明したものだろうか。湊は天井を見上げながら少し悩み、そして、結局ストレートにわかりやすく、順序立てて説明するのが良いと結論づけた。


「まず、俺は昨日キスをしたんだけど」

「なるほど……なるほど!?」


 春がびっくりしたような声をあげた。がさがさ、と机の上の模造紙を畳み、それから身を乗り出すようにして喰いついてくる。都市伝説研究会なんぞをぶち上げるだけあって、この女はもともとゴシップ好きなのだ。


「キスって、あのキスですか!? 唇と唇をくっつけるやつですよね!?」

「それだよ。一般的には手の甲とか頰とかにもするけど、俺がやったのは唇だった」

「相手は?  ちゃんと女性なんでしょうね? ああいえ、男性とそういうことをしたいという気持ちがあるなら尊重いたしますが、それはそれとして」

「三年の久住葵先輩だ」


 ぱちぱちぱちぱち、と、春が拍手をした。


「おめでとうございます。お赤飯、奢らせてください」

「お赤飯って奢るもんなのかな……」


 頭を掻いてぼやきつつ、湊はさらに続ける。


「ただどのみち赤飯は早い。俺は、大人への階段は登ったけど、事態の発生はきわめて偶発的だった」

「なるほど。再現性は低いんですか」

「そこを吟味している」

「なるほどぉ」


 湊の言葉を聞いて、春はしきりに頷いた。


「再現性が低いのであれば問題ですね。これは重要な質問ですが、湊くん的には再現性が高い方が良いんですか?」

「俺は高い方が良いなと思っている」

「わかりました。話を聴きましょう。あたしも女として、お力添えできることがあるかもしれません」


 言うなり、春は部室の隅から新しい模造紙を取り出して、机の上に広げた。黒のマッキーでデカデカと、『湊くんのファーストキスとその再現性』と書き立て、興味津々といった様子で湊の顔を伺っている。

 校内一の美人である久住葵先輩から接吻を賜るという珍事。湊はこの出来事をどう受け止めるべきか、真剣に吟味する必要があった。しかし女性に唇を奪われるなどという出来事は、湊の16年ぽっちの人生で培われたキャパシティをはるかにオーバーしており、考えが一向にまとまらない。


「ひとまず状況を整理しましょう湊くん。いったい何がどうなってそんなことになってしまったんですか?」


 とは言え。とは言えだ。


「いやー、やっぱ話したくねぇなぁ……」

「そうですか?」

「こういうの、あまり人にべらべら話すもんでもない気がするし」

「なるほど」


 春は頷くと、広げたばかりの模造紙を、またぐるぐると丸め始めた。


「ならまぁ、あまり深くは聞きませんよ。湊くんの問題ですからね」

「おまえ、物わかり良すぎて時々怖いんだよな……」


 再び春は、血塗れ怪人に関する研究成果をまとめた模造紙を、机の上に広げて作業を再開する。湊も自らの作業を再開するべく、書きかけの書類を、自分用の机の上に広げた。

 こぎれいな便箋に可愛らしい文字で内容が綴られており、湊はそれを1枚1枚確認しながら、買ってきたばかりの封筒に入れていく。


「湊くん、なんですかそれ」

「山添先輩の下駄箱に入れる偽のラブレターだ」

「またそんなことをして……」


 春は呆れた声をあげた。


「ちゃんと書けたんですか?」

「畢生の出来栄えだな」

「なら良いです」


 このように、湊が本来の研究会から逸脱した活動をとっていても、春は目くじらを立てない。理由はふたつ。

 ひとつは、湊はもともと研究会の創立にあたり、数合わせで名前だけ貸したメンバーであるからだ。基本的に春は手伝ってくれれば楽だと思ってはいるものの、それを湊に強制しない。

 もうひとつの理由はもっと単純で、湊のこうした山添先輩への細かないやがらせが、他の文化部から圧倒的な支持を集めているためである。おかげで都市伝説研究会は弱小部でありかつ、学校側から冷遇される存在でありながらも、文化部連合から手厚い保護を受けていた。


「そういえば、久住先輩と山添先輩が付き合ってたって噂、どうなったんですかね」

「その話は今は聞きたくない。心が乱れる」

「あ、そうですか」


 便箋を封筒にしたためる作業には乙女のような繊細な指使いが要求される。いまそのことを思えば、山添先輩への過剰な憎しみが、封筒にハートシールを貼る手つきにまで影響し、山添先輩を罠に嵌めんとする湊の狡猾さが隠しようもなくなってしまうだろう。それはまずい。


「でも湊くん、山添先輩が久住先輩のことを好きなのは事実ですよ」

「だから?」

「湊くんが久住先輩とキスをしたという事実は、山添先輩にダメージを与える方法として極めて有効だということです。強力な武器ですよ」


 封筒にハートシールを貼る湊の手が止まった。


「それは、そうだが……」


 そう呟いて、港は胸ポケットのあたりをぎゅっと掴む。中には生徒手帳が入っており、その生徒手帳には、競泳水着をまとった久住先輩の艶姿が、お守りのごとく後生大事に格納されている。


「それを武器にして山添先輩を攻撃するというのは、ついでに久住先輩も傷つけることにならないだろうか」

「ふむ」


 そんな湊をちらりと見て、春は得心がいったように頷いた。


「はいはい、ゾッコンってことですね」


 したりがおで呟く春に異様に腹が立ったので、湊は机から身を乗り出し、彼女の頬をつまんで思いきり引っ張ってやった。

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