ただよう雲に遮られ
あれは、いつのことだったかな、と兄が尋ねた。
10歳ぐらいだったかな、と弟は答えた。
瓦礫と亡骸が四散する道を歩みながら、双子は人生を顧みる。たくさんの死を見届け、つくり、そのたびにささやかな願望を手放してきたけれど、今の彼らはひどく落ち着いた顔つきで、結末を静かに受け入れようとしていた。
冷たい風が、北から南へと一気に吹き抜けていく。
苦しい過去ばかりだった。それでも、すべてがそうだったわけではない。一つ年上のヨルシュと共に生きていた二人は、幾ばくかのぬくもりを思い出しながら、死地へと足を進める。
まだ世の穢れを知らなかった時分、分家の血を引いた少年たちは、同じ少女に恋をした。
兄は、ヨルシュに微笑む彼女の横顔が好きだった。
弟は、ヨルシュに投げかける彼女の声が好きだった。
俗世の人間たちは、こういった時、どんな衝動に駆られるのだろう。分からなかったが、兄弟は満足していた。打ち明けられることのない想いを胸に抱きながら、後の当主と、その伴侶になるであろう少女のやりとりを、微笑ましく眺めていた。
それが、幻想だと気づくまで。
宗家が滅んだあの日、ヨルシュが変わったように、兄弟も変わらざるを得なくなった。それはまるで当主の影のように、必然的な付き添いだった。もし二人が俗世の価値観を持っていたのなら、命懸けで拒めたのかもしれない。けれど二人は紛れもなくイルーシャであり、そして、ヨルシュと父だけに重荷を背負わせて生きていけるほど、冷たい人間にはなれなかった。
当主の側近として生きていくと告げた時、父は泣きそうな微笑で小さく頷いた。今思えば、彼は息子たちに、昔の自分を重ねていたのかもしれない。
側近といえど、その立場は当主の責務や制限とは一線を画している。服従を厳守した上でなら、他のイルーシャ同様、人としての営みを持つことは十分に許された。
だが二人は、やはり悲しいことに、当主の影であった。無理強いされたわけでもなく、感情に抗ったわけでもない。兄弟は、己の血をよく理解していただけだった。ヨルシュが身軽さを選んだのと同じく、いつでも鉄砲玉になれる人間関係を保った。
あの子が当主ではない男に娶られ、そして病に倒れた時、ソロ・グリーンウッドを追っていた兄とは別に、弟はヨルシュのそばにいた。もう動かなくなった彼女に目を落とした彼の横顔は、今でも胸を締め付けるくらい、頭に固くこびりついている。
だから、戦えるんだろうな、と弟はそっと口元をやわらげる。
イルーシャの陰である分家。
その実像は、公的な書物に残されることもなければ、他家に口伝されることも許されていない。
まさしく影のごとく、照らされたものの背後で息づき、誰にも知られることなく、薄れ消える。
そんなの、悲しすぎるだけだと思っていた。
それなのに、今はどこか晴れ晴れとした気分だ。
ああ……これが、そうか、と兄は思う。
うん……これが、そうなんだろうな、と弟は頷く。
開戦から14分。
黒衣を纏ったイルーシャが目の前に現れた意味。それは、下段でハの字に両の剣を構えた姿勢がよく示していた。
ソロの瞳が青白く、その覚悟を彩る。
不思議な気分だった。故郷の村を滅ぼした相手、間接的な母の仇……それなのに、きらめく瞳は負の
やっぱり俺も、イルーシャだからなのかな……、とソロは自分なりの答えを出しては、怒りも憎しみも生まない戦いへと臨む。
どんよりと流れる雲の下、割れ目から差し込む月明かりに照らされた舞台の傍らで、ソプラ人たちはじっと息を殺し、目を見張る。人種や性別の立場・価値観の入り込む隙間の無い、どこか形而上的な感慨とおごそかな空気が、女たちをおのずと傍観者へと化した。
きりきりと痛む肋をさすりながら、ミサは固唾を呑んだ。ここは、
ウォーレン母子もまた、固く唇を結ぶ。まさに歴史の立会人さながらの厳格な面持ちで、イルーシャのこれからを目に焼き付けようとしていた。
タニア邸に兄弟が現れてから数十秒。
遠くで逃げ惑う人々の喧騒すら細やかに千切れていく静寂の中、男たちはまるで語り合うかのように、その場で目を交わし続けていた。
炎が風に揺れ動くように。たった一つの言葉が、さまざまな意味を従えてしまうように……双子の揺るぎない眼差しが、ソロにおぼろげな背景を垣間見せる。
その静かな視線の交錯は、
だがこの数秒後、ミサは逃げ出したいほどの悪寒に襲われる。
兄弟たちは懐に手を入れる前、そっと、互いの顔を見合わせた。短い視線の合致だった。以心伝心のもたらした覚悟が、儚い微笑をかたちづくり、出した手を開くと同時に、風に吹かれた花弁のごとく散らせる。
その瞬間、継承者の血が、ぞくぞくと体内を駆け巡った。
兄弟の手にした灰色の紙包みを目にするや、ソロは無意識に剣の柄を強く握っていた。開かれた紙包みが、二人の鼻先へと近づけられると、彼の本能は警報のごとく、攻撃意欲を発し続けた。
だが、ソロは踏み込んで行けなかった。
二人の立つ塀上まで15m以上。ソロの脚力と瞬発力をもってすれば、間合い詰めるまでそう時間はかからない。けれど、行けない。これからなされる敵の行為が致命的な隙となるにも関わらず、彼は微動だにできなかった。
悪手とも呼べるその静観は、ソロ・グリーンウッドとしての意思ではなく、彼の中で確かに流れるイルーシャの血が、そうさせていたのかもしれない。
されど、それもまた、ソロ・グリーンウッドの本質であった。たとえ、神がいまだ未来を決めかねていたとしても。
灰色の紙包みに乗った、灰色の粉末。
かつてヨルシュが叔父から受け取り、使用したそれより何倍もの量の、分家の研鑽。
兄弟は鏡に映ったみたいに、一挙手一投足を、同時に行った。
二つに折り曲げた紙包みを左鼻孔に近づけ、右手親指で右鼻翼部を押し付ける。
そして二人は、一気に吸い込んだ。
ザンブロア南方に息づく蛮族。
そのヌド族は、思い込みによる精神の昂りを用いて、肉体のリミッターを外す。
対して分家は、悠久の考究によってたどり着いた知識を用い、限られしあるモノと引き換えに、身体能力を飛躍させる。すなわち──。
物理的に、人体の仕組みを変えるのだ。
人が決して手を出してはならない、禁断の叡智によって。
鼻腔を駆け抜けていく粉末が、粘膜にすっと溶けていく。
まもなく肩から生まれた震えは、またたく間に大揺れとなり、箍が外れたみたいに頭が振り回される。
その光景に、強い不安が背中を這っているのを確かに感じていたソロだったが、やはり動けなかった。
恐怖? 好奇心? それとも、同じ血の責務? 分からなくとも、ソロは無意識に悟っていた。自分は、見届けなくてはならないのだろうと。
だから彼は、憐れみたっぷりの微笑を浮かべながら、ため息を吐かずにはいられなかった。
「……ああ──」
ソロにはまるで理解できなかった。それでいて、彼は心のどこかで、二人の選択を尊重していた。
「人間……やめちゃったんだね」
分家の悲嘆の歴史を吸い込む間際、兄弟は、相反する感情に包まれていた。
それは、帝国第一皇女に向けられた想いに通じるものがあった。
生き方、価値観……それらは決して相容れないと思いつつも、彼女の今に至った経緯には、一定の理解があったことを無視できなかった。
自分が、自分であるために。
想いを、知られぬまま消さないために。
我々は、まぎれもなく、イルーシャ。
だがその前に、一個の人間としての心も、確かにあるのだと……。
体内に混入されたさまざまな物質が、既存の細胞を砕き、新たに並べ替えていく。
意識が朦朧とし、過去と現在があやふやにうごめき、不確かな未来が、視界の淵から生まれ広がっていく暗闇に呑み込まれていく。
今にも崩れ落ちそうな自我が、さまざまな想いを胸に去来させる。
いくつもの言葉。
おびただしい願い。
果たされなかった、あらゆる想い。
兄は、誰かの繁栄のために誰かが失い続ける現実を憎んでいた。
弟は、誰かの希望のために誰かが絶望する未来を嘆いていた。
それでも、二人は今ここにいる。
挫けそうになったことは数え切れない。この手を汚し、掬えなかった想いを泥水で流さざるをえなかったたびに、いったいどれだけ、心にひびを走らせただろうか。
そして今、とうとう、これまでの自分をも捨てる。
それでも、忘れられないものがある。
亡き母のほとぼり。
父の手のぬくもり。
共に笑い、泣き、手放してきた、
確かな過去が、崩壊へと向かう自我を押さえつけ、新しい自分たちをかたちづくる。
神経が歪み、血管が膨らみ、骨が軋み、筋肉がこわばり、培った人格がさまざまな色を失くしていこうとも、血に溶けた想いが暗闇に一筋の光を走らせながら、二人はかつてない苦痛にじっと身を委ねる。
そんな我々を、"人"は、どう呼ぶのだろう、と兄弟は思う。こんな僕たちを、どんな風に感じるのだろうか。
どれだけ頭を開いても、分からないことばかりだった。
僕たちの想いは、夢は、希望は、いったいこの身体の、どこにしまわれていたのだろう。
どれだけ中身を覗いても、決して見つけることはかなわなかった。
それでも、これは、ここにある。
確かにあると、実感できる。
心は、想いを与えて育まれていくと、兄は思う。
心は、与えられた想いを抱いてつくられていくと、弟は思う。
もう一度、あの頃のように笑えたら、どんなに素敵なことだろう。
母は、祝福の地にたどり着けただろうか。
そこには、いったい何があるのだろう。
自分たちはいるだろうか。
はたして自分たちは、そこに行けるのだろうか。
せめて、父だけは、母のそばにいてくれてほしいと願う。
彼がどんなに彼女を想っていたかを、ずっと、見てきたから。
そんな願いにしがみつきながら、兄弟は、イルーシャの血に殉じた。薬を吸い込んでからおよそ30秒。静止した頭をゆっくりと持ち上げた二人は、これまでの彼らではなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます