たいまつのいろ
開戦から15分。
ララは路地裏を駆けていた。フードを深々とかぶり、闇夜に紛れ、なるべく人通りの多い道を避けながら、西壁を最短で目指した。
西門に近づくにつれ、より慌ただしさが聞こえてくる。南地区の住民たちは予想通り、東西へと避難していたのだろう。門は開いているのだろうか。胸壁に繋がる階段は破壊されていないだろうか……。黒髪たちのように屋根を飛び移って移動できない無力さに唇を噛みながらも、姫は懸命に駆ける。
この戦いの大局に照らし合わせたとおり、自分の単独行動はやはりスムーズに進んでいる。敵たちの狙いは、破壊工作と大臣殺害、そしてマブトゥールの奪取だった。彼を攫った者たちの背後にいるのは、おそらく、いや間違いなくオルドール。大勢に影響を与えない自分は、どの視点からも度外視されている存在なのだ。屈辱を感じないわけではないが、自由に動ける点ではこの上なく都合がよかった──。
と、そういった戦況を自分に言い聞かせることで、足を前に進められているということを、彼女はまだ気づいていない。マブトゥールを見つけられる確証を一つも持たないことはもちろん、自分一人でいったい何ができるのかといった不安……そして、これまでの彼から鑑みられる気がかりが、はやる肉体とは裏腹に、心に影を落としていた。
その影響が、さまざまな想いに迷いを伴わせていく。徐々に足を重くさせたのは、胸壁が屋根の隙間からちらほらと見えてきた頃だった。
そもそも、自分は本当に、彼を連れ戻すことを望んでいるのだろうか。
幼なじみを助けたい……その気持ちに偽りは無い。だが"助ける"という言葉の輪郭は、あやふやに揺れ動いていた。
自分のしていることは、本当に、彼の助けになるのだろうか。
答えの見つからない疑問に足が止まりそうになった時、西の方で爆発が起きた。たまらず見通しの良い大通りへと、被爆地の確認に走る。
およそ300m先で煙が高々と上がっていた。まだ残党がいたのかという驚きと、やはり人混みを狙っての爆発の効率性と暴虐さへの怒りから、ララは目を吊り上げた。
程なくして、いくつもの灯りと共に、悲鳴混じりの喧騒が雪崩さながら耳目に飛び込んできた。慌てて建物の壁に背中を張りつけ、その混乱に息を呑むも、人々の逃走に弾かれては、もとの路地へと逃れるように押し出された。
膝をつきながら、彼女はその光景に目を白黒させた。
人群が脇目も振らず、我先にと大通りを東へ駆けていた。遅い者は容赦なく突き飛ばされ、転んだ者はまたたく間に退避の波にのまれていく。
めまいがしそうだった。おびただしい恐怖が一心不乱に生へとすがる様は、血生臭いどころではなかった。そこには尊厳も博愛も見当たらなかった。いくつもの駆け足に見舞われた弱者たちの、血や肉や骨が、ぐちゃぐちゃ、ぬちゃぬちゃと石畳に伝わる音は、彼女の五感を激しく乱し、正気を失わせようとした。
叫換と恐慌に染められた松明の昂り、そして路地に転がり容器の割れたランタンの中で消えゆく火は、まるでこの世にしがみつく者たちと去った者の対比みたいに、姫の目には映った。
たまらず前屈みになり、口元を押さえる。まぶたを強く閉じながら、幼なじみと傭兵たちの顔を思い浮かべる。気を強くもって、顔を上げる。
けれど再び、群衆の下敷きとなる者たちの姿が目に入る。顔のよく似た、赤毛の似合う母子だった。固く繋がれていた手は、後方から押し寄せた人波に弾かれ、倒されるや数多の踏みつけを浴びた。うつ伏せに転んだ母親の背中が、雑踏に骨を砕かれていく。それでも何とか片手でうなじを守りながら、這って進む。折れた小枝のように首をぐったりさせて動かない娘の方へと、怒涛の隙間から手を伸ばすも……。
その手が届くことはなかった。
ララは声を失っていた。動かなくなった彼女たちを今なお踏んでいった一人には、小さな男児を抱えて走る男もいた。
「……ここは──」
これが……人の世か……? とララは呼吸を忘れる。
これが……人なのか……、と耐え難い事実に圧倒される。
叫び出したくなったその時、ララと同じように路地へと突き飛ばされた者がいた。10歳ぐらいの少女。弾かれた時に顔面を石畳に打ちつけ、寝間着のような白のワンピースの胸元を、鼻血がぼとぼとと赤黒く染めていく。
その痛みすら気づかない顔で、少女は路地から手を伸ばしながら、お母さんお母さん、と何度も泣き叫んだ。
「あぶない! ダメ!」
通りに駆けようとした少女を羽交い締め、代わりに道角から顔を出す。少し先の露店の柱にしがみつきながら、こちらに向かってなにかを繰り返し叫ぶ女が見えた。
考える前に、ララは少女を抱きかかえ、大通りに出ていた。後続の腕や肘に肩と背中を強く打たれるも、女がこちらにうなずきながら手を差し伸べたのを見るや、必死で少女の盾となって、建物の壁に沿って進んでいく。
姫の理性と本能は、この時、バラバラにうごめいていた。
自分は、何をやっているのだろう。そんな疑問から、いくつもの自問自答が頭を埋め尽くしていく。
どうしてこうも、散漫とするのだろう。
マブトゥールを取り戻すために飛び出してきたのに。
心のどこかで、彼を諦めている?
いや、違う。
本当は、分かってる。
ソロには四人で成すことを勝利だと口にしたが、本当の願いは、もっと、ささやかなもの……。
私は、誰一人死んでほしくないのだ。
本当にマブトゥールが、ザンブロア人に攫われたのだとしたら、きっと彼の命は助かるだろう。
制裁は受けても、量刑には忖度が生じるはず。彼の後ろ盾は、あのオルドール。大公が懇意にしている
本当は、分かってた。
このまま、彼を祖国に帰した方がいいと。
私では、本当の意味で彼を助けることなどできないと。
マブが、生きてくれるのであれば……。
今私がしているこれは、助けるってことだと思う。
どうしてソロがすんなり自分を行かせてくれたのか、少し分かった気がした。
私にできることと、できないことが、一人になった今なら、とてもよく見えてくる。
自分の力の無さに、憎しみすら覚えてくる。
それを痛感しているのに、こうやって、脇道にそれてしまう……。
本当に、どうしようもない。なんて嫌な女なのだろう。
衝動で国を飛び出し、今また、衝動で自分勝手な振る舞いをしている。
一緒にいたい、このまま四人で、前へ進めたら……それはたぶん、私のエゴに過ぎないのだろう。
ソロの言葉が頭をかすめる。初めて彼と口論した。苦しくなるのは、彼の言い分がすべて正論だと理解しているから。
私が必要としているのは、マブのために何かをやったという、自己満足なのではないのだろうか。
私がこの子を助けているのは、己の無力さをごまかすための、悪あがきに過ぎないのではないだろうか。
私は、いったい、何をしているのだろう。
自己嫌悪に挫けそうになるも、ただ一つの明確な感情にすがって、ララは動き続ける。ハッキリしていたのは、こんな別れは嫌だ、ということだけ。
では、どんな別れなら納得できるのだろうか。
さまざまな理由を乱雑に並べてまで幼なじみを追うのは、こういった苦しい時、いつだって彼に助けられてきたからだろうか。
あなたは頼りなくなんかない、と伝えたかった。ごめんなさい、ありがとう、って。そして……こんなこと言える立場じゃないって分かってるけど、どうか、元気でって……。
それも、結局は自己満足なのだと、気づいていながら。
幼なじみを見つけた場合、見つけられなかった場合……そのどちらの事実にも相対する覚悟を、この時のララはいまだ持ち得ていなかった。
再会に固く抱き合った母子は、服の袖で娘の鼻を拭っては、恩人に感謝の意を伝えた。対してララは「大通りは危険だ、路地裏から逃げて!」と幾度も叫んだが、自分の声すらよく聞こえないこの騒然さではほとんど伝わっていなかったのだろう。母親は最後にもう一度頭を下げると、娘と自分の手を縛りつけ、そのまま東へと駆けていった。
そうこうしている内に、退避の波も落ち着いてきていた。いまだたくさんの住民が西から駆けてきていたが、流れに逆らって走れるくらいにはおさまっていた。
そこでようやく、姫は己の立場を取り戻す。私は何をやってるんだ……そんな自戒を胸に唱えながら、再び西を向いた時、それはやってきた。
ララの頭上を、見覚えのある黒い塊が通過していく。
それは咄嗟に振り返った彼女の視線の先……もう二度と離さないと誓われた手を繋ぐ、母子の背中へと、吸い込まれるように向かっていった。
そんな。
イヤだ。
ダメだ。
それらの言葉が口にされることなく、辺りの空気がたちどころに伸縮した。
と同時に、後ろから誰かに突き飛ばされた。身体が、ゆっくりと前に倒れていく。有と無の前後を目の当たりにしていた姫の感覚は、まるで木簡に刻まれる歴史の重要事項みたいに、見聞き体感するものすべてを緩慢とさせ、彼女の心身に、まざまざと焼き付け始めた。
倒れながら、ララは離れていく母子の背中に手を伸ばしていた。
言葉にならない警報を幾度と叫ぶも、まもなく無慈悲な爆発に呑み込まれては、周辺にあったあらゆるものと同様に、弾けてどこかに消えた。
硝煙が立ちのぼり、パラパラと土埃が顔の前まで飛んできていた。
風に乗った煙が眼球をしみさせるも、剥かれた瞳は、固まって動かなかった。
うっすらと開いた口は、下唇だけを震わせながら、声にならない感情をさあさあと吐き出し続けた。
目の前の凄惨が、自分の中のなにかを、ぶちぶちと引きちぎっているような感覚に襲われていた。
その感覚のほころびから、いくつもの音が耳に届いた。
石造りの崩れる音。骨がきしむ音。あたたかいものが破け、飛散し、こぼれ流れる音……。
破壊を彩るざわめきの中で、たくさんの狂った叫声が、絶えず聞こえていた。
その隙間から、絶望を助長するような、明るい声が入ってくる。
誰かが、笑っている。
自分の後方で、気持ちよさそうに、からからと、笑い声を立てて。
ララはくうくうと起き上がり、こわごわと振り返った。
主役にスポットライトが当たるみたいに、視線の先に月光がさす。
自分と歳の変わらない女が、高笑いしながら、真っ黒な塊を片手でポンポンとお手玉しているのが見えた。
前後が、真っ白になった。
突如として込み上げた激憤は、発狂を通り越し、その空白に生まれた明確な意思をすぐさま肉体へと循環させ、澄んだ一言に代えた。
「……殺す」
まだ爆発の余韻冷めやらぬ中、ララはこれまでにない速さと静けさをもって、まっすぐに駆け出した。
殺意を隠さずやって来る女に気づいたミレイは、恍惚と唇の端を持ち上げながら、導火線をちぎって爆発時間を調整させた最後の爆弾に、火を灯した。
「おっ。やーっと面白そうなヤツが来たなあ」
そして、ララ目がけて投擲した。
「最後の一個だよーん。踊れ踊れー!」
爆発を目前に控えた黒が目前に迫ってきても、見開いた赤茶色の瞳は進む足と同じく、まっすぐに前だけを見つめていた。
つまり、ララは避けなかった。
ソロの剣に鎮火された爆弾を噴水に沈めた時、彼女は思いついていた。自分には彼みたいに、正確に導火線だけを切断する能力はない。
だから彼女は、投じられた爆弾へとさらに加速し、両手で掴み取っては、あと僅かとなっていた紐をその炎もろとも、指で引っこ抜いた。
その対処法に、ミレイは歓喜を上げずにはいられなかった。
「すげえええ! 言われてみればだなあ! そうやって防ぐのかあ!」
爆弾を後方に放り捨てたララは、そのまま一直線に駆け走り、指の腹がいくつか焦げた右手を、左腰の細剣の柄に乗せた。
そして、死ねクソ女、と冷たく念じながら、かつてない速さで抜剣し、ミレイの首目がけて突きを放った。
右腕が伸び切り、剣身が肉を割いていく感触が、手のひらに伝わる。
ミレイの右耳の上部……対耳輪から三角窩までが、斜めに切り取られながら、するりと宙に浮いた。
ララのターンは止まらない。剣を引いた手が、前足と共にすかさず角度を変える。肘から先を鞭のようにしならせながら繰り出す次手が狙うは、正中線に位置するみぞおち。酌量など必要ないと言わんばかりに、その手捌きは自身の殺意を従順に技量へと代えた。
「おすい」
だが不意な衝撃が、右側頭部を襲う。体勢がよろけ、視界が一時的にぼやけ、
たまらず距離を空けたララは、右目を強くつむりながら、右耳を抑えた。きりきりとした耳鳴りが、次第に鈍い痛みを引き連れてくる。
がむしゃらに攻めていたララには見えていなかった。頭を左に振って剣先をやり過ごした敵が、その勢いのまま、反撃に転じたことを。右半身で突きを放ったこちらの死角から、円を描くように左腕を振り、がらあきの右耳へと掌底を打ちつけたのだ。
手のひらに空気を集められた掌底は、ララの鼓膜を破るには至らずとも、その三半規管を大いに揺るがし、足元をぐらつかせた。
どろどろと、白いコートの肩に血が滴り落ちていくも、ミレイはまったく意に介さない様子で笑った。
「いいねいいねえ。蟻を踏み潰すのにも飽きてたところなのよ……って、あんたザンブロア人? ザンブロア人が何でこんなとこにいんの?」
ララはしきりに右耳の上を手のひらで叩きながら、平衡感覚を取り戻そうとしていた。
「無視かよ。ま、別にいいけど。戦争中だもんね。お芝居なんかだとくっちゃべりながら戦ってるけど、バカじゃないのって思うよね。私には使命があるんだーとか、愛する者のために負けられないんだーとかさ。中でも最悪なのはアレ。いざ倒されそうになった悪役が、自らの不幸な生い立ちや境遇なんかを語って、これまでしてきた悪事にもっともらしい理由をつけて免罪符を得ようとするやつ。アレ大っ嫌いだわ。そういうのはせめて、戦う前、悪事を働く前から大義名分にしとけよって感じじゃね? お前が負けそうになった時だけ被害者ヅラして同情引いてんじゃねーよ、ってさあ」
おしゃべりの間に、生存者たちの避難はだいぶ先まで進んでいた。喧騒が離れた今、ミレイの声は片耳でも拾えていたが、ララが受け答えをすることはなかった。
「頼むからさ、あんたもそういうのだけは勘弁してよね」
ララは踵を尻につけるように、両足を何度か持ち上げてみた。問題ない、もう動ける──。
このゴミをさっさと排除して、マブのもとへ急ぐのだ。
言葉なく冷淡な顔と剣先を向けたザンブロア人に、イングリッド人は心の底から笑みをこぼした。
「気が合うなー。互いの主張なんて
楽しそうに細剣を抜いたミレイに、ララは眉を寄せた上目遣いを向けながら、もう一度、意思を明確に示した。
「殺す」
「そうそう。それがイイ女のセ・リ・フ。さ、踊ろうか」
開戦から20分。
五つ巴の死闘は、これより佳境を迎える。
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