英才教育
開戦から18分。
「──旅はいかがでしたかあ? 何かを得られましたかあ? それとも、失いましたかあ? 見たところ、前にも増してスッカスカになられたようですねえ」
一定の痛みを与えてからは、シエラは言葉だけを用いた。子供に言い聞かせるような口調で、力無くうつむいたマブトゥールの琴線を、嫌らしく震わせていく。
「あたしの勤める学校に、それはそれは絵に描いたようなシスターがいてねえ。彼女を嫌ってる人間をお目にかかったことが無いってくらいの品行方正だ。でもねえ、あの子は夜になると、おめかししては薄暗い路地裏を一人陽気に歩き、怪しげな館に入っていくのさ。そこで何をしてるのかって? アッハッハ、乙女に言わせるんじゃないよおおお」
拷問は、心を折るものだとシエラは考える。痛みは肉体をガラスのごとく透けさせ、精神をあらわにさせる。
あとは、そいつに合ったやり方で、ひっかいてやればいい。
「一番の卑怯者ってのは、自分を汚したくない人間。社会は汚いものを掃除する人間がいて初めて成り立つ。言ってみれば、汚れて初めて、そこに住み着く資格があるってもんさ。同じ場所にいるくせに、自分だけは別、なんて立ち位置で綺麗事ぬかしてる奴を見ると吐き気がするよお」
いまだ顔を上げられないマブトゥールには、見えていなかった。
「坊っちゃん、あんたもつい最近までそうだったんじゃないかい?」
シエラが、今、どこを向いているのかを。
「これは良い、あっちはダメ、そいつは良し、あいつはクズ……そういった話じゃあないのさあ。同じ社会で暮らしている時点で、みーんな同類だってこと。それが分かってない奴の
ぴたりと笑みを払ってから、シエラは改まった声で問いかけた。
「人の上に立つ者に欠かせないものは何だかお分かりかい? それは痛みと狂気だ。どちらを忘れても、どちらかに偏りすぎてもいけない。他人を思いやれる一方で、ためらいなく崖から馬の尻を叩けるような人間こそが上にたつべきなんだ。実際に手を汚すのは
紡がれていく言葉に、だんだんと感情が混じってくる。それが何に起因していたのかを、この時のマブトゥールはまだ知らなかった。
「あんた様はね、綺麗すぎるんだ。お顔も、体つきも、考え方も何もかもね。それじゃあ、お父上にはなれない。綺麗な器ってのは、汚れやすくて、傷つきやすいんだ。あんたのお父上は、何度も縫い直した雑巾みたいなお方だった。汚れようとも一途にまた磨き続けた。転んでも何度倒されても、
次々と述べられていく持論に、駆け引きの類いは一切無かった。
「頭のヌルい輩どもが好んで口にする平和ってのは、どこから生まれてくると思う? 友好? 博愛? 尊厳? 違う違う。ぜーんぜん違うよおおお。平和ってのはね、いつの時代も、どこの国だろうと、絶対的な力の中にのみ存在するもんさ。人は愚かじゃない? 話せば分かりあえる? 手を取り合って、みんな幸せに? はは……股間が痒くなっちまうねえ。そういう紛いごとは劇とか本みたいな場所にしか生まれないんだよお」
それは、女がこれまでの人生で獲得してきた、事実という名の経験則。
「生きるのに必要なことは何? 恥じない生き方とは何だと思う?」
嘘偽りない言葉だからこそ、青年の胸に、重くのしかかっていく。
「それは毒を喰らい、泥水をすすることさ。腐った汚水に顔を突っ込んで、目を見開いて、その中から綺麗だと思うものを一つだけ選んで、手の内に収めるんだ。そうやって、歴史は作られてきたんだよ……でもねえ、途端に生活が安定してきたら、やれ綺麗な言葉を撒き散らす輩が増えてくるのさ」
マブトゥールには、シエラの言葉を何一つ否定できなかった。
「坊っちゃん、あんたは知ってるのかい?」
だから、こぼれゆく涙を止めることはできなかった。
「ルー様を殺すために死んでいったバカの数を。ルー様を守るために死んでいった、誇り高きザンブロア人の数をさ」
それはまるで押し潰された果実みたいに、どくどくと、彼の芯とも呼べるものから滲み出ているようだった。
「首をちょん切って、糞を喉に詰め込んでやりたいよ。大昔にザンブロアを中立に差し向けたバカ共をねえ」
耳元に寄せられたその囁きには、明らかな怒りと憎悪が込められていた。
「いいですか、坊っちゃん。親の罪をかぶるのは子供なんだよ。ご存知ですかあ、坊っちゃん? 蛮行のツケを払わされるのは、いつだって後の世に生きる者たちなんだよお」
涙と共に、彼のこれまでが崩れていく。
「クソ以外の何物でもないじゃないのさ。オルドール様も、あんたのお父上様も、誰にも気づかれないところで、ずっとずーっとそのツケを払い続けてたってのにさあああ」
意志が、歪む。
まるで、幻想だったかのように。
「肝心の弟子、息子が、このザマだ」
その言葉を契機に、マブトゥールの口から願望があふれた。
「……殺して」
うつむく彼の視界の外で、女は唇の端を嫌らしく舐めた。
「心に響かないねえ。無知なボンボンの子には珍しくないんだよ。何と言いますかその、破滅的願望みたいなもんはさあ」
「殺して……」
「あんた様は、ちーっとばかし悲劇の主人公を気取りたかっただけ。思春期の町娘みたいで見てるこっちが赤面しちまう醜態ですが、まあ年齢考えたら、ある意味健全なんじゃないでしょうか。目ン玉くり抜いてやりたくなる気持ちは抑えられないけどさあああ」
「殺してくれ」
懇願を続けるその姿は、まるで斬首を控えた罪人のように丸まって、ぎゅうぎゅうに押しつぶして出された想いを、涙と一緒にぽろぽろとこぼした。
「殺して、ください……」
ずっと、罰を受けたかった。
あの時から、ずっと。
「もうやだよ……誰の死も見たくない……見届けてもらえる側でいたいんだ」
何かに導かれるように、顔がゆっくり持ち上げられていく。
錆びついた弦のように息を震わせながら、彼は脈絡なく、言葉を継いでいった。
「あの子じゃ……なかった……」
濡れた視界は、薄闇の中に一人の男を描いていた。理想の男。なりたかった、自分。それは月の及ばぬ領域から伸びた黒にそっと包まれ、音もなく消えていく。
なれなかった自分に、あの頃の憧憬を残して。
「私が……死ぬべきだったんだ……」
子供の頃、ベッドに入ったらいつも物語を思い描いていた。夢中になったのは、誰も知らぬ場所で、誰かのために戦って、誰も知らないところで死んでいく、そんな物語。どんな結末も決まって最後は、己の死で幕が閉じられた。国を守ったり、好きな人を守って……。
「どうして……?」
どうして今になって思い出すのだろう。それらの夢想は、どうしていつも、自分の死で幕を閉じられたのだろう。
「どうして……僕じゃないの……? どうして、僕なの……?」
きっと、あの日からだ。
父の葬式の日。
顔馴染みも、見たことない人も、誰もが皆、父の死を悼んでいた。
「覚えてないんだよ……父様のこと……ほとんど……」
自分が覚えてるのは、添えた花の白さ。
姉たちの、鼻をすする音。
見上げてもよく見えなかった、母の顔。
「知ってたよ……それくらい……」
誰もが、父の生を誇りに感じていた。
「分かってたよ……ちゃんと……」
ムーラルト家当主という者が、どういった存在だったのかを、あの時、子供ながらにまざまざと感じさせられた。
「僕は……ガウェン・フェルヴェールになれないって……」
ああ、そうか……。
イリシア様。
私は、カッコよく死にたかった。
私は、ずっと、死に場所を探していたんだ。
私があなたについていくのは、あなたが私に、相応しい死に場所を与えてくれると思ったから。
ララ。
あなたが負い目を感じることなんて、何一つ無いんですよ。
名家のしきたりとか、責任とか重圧とか、そんなものから解放されて、惜しまれたかっただけだから……。
死者は寛大に見られる。私は、見届ける側にはなりたくなかった。
私はずっと、カッコよく死んで、あなたに想ってほしかっただけだから……。
己をさらけ出した青年に、女は真摯な顔でこう言った。
「それでいい」
悪事を、悪と受け入れること。
人の業から、営みの残酷性から、目をそらさないこと。
それが、この世に生きる者の、最低限の務めであると、シエラは言う。そして……。
「人間、一度死にたくなってからが一人前さ。これでようやく大人の階段を上る準備ができましたねえ。でも、これだけはゆめゆめ忘れないでください──」
そして、命の代わりとなるものなど、この世には無いのだと。
「死んで許される罪なんて、この世に一つも無いのさ」
絶望の中で、脳裏にいくつもの記憶がよぎる。
姫の横顔。母のぬくもり。姉たちの笑顔。師のまなざし。おぼろげな父の、背中……。
絶望の中で、いくつもの自責が胸を苦しめる。
殺したザンブロア人の顔。貫いた肉のかたさ。廃村の風景。野うさぎを掲げる少女の笑顔。老人の言葉。野盗たちの顔。色、臭い、声。雨の冷たさ。潰れた鼻の痛み。血の味。少女の髪の色。野盗頭の言葉。冷えきった、あの肌……。
絶望の中で生まれてくる、シエラの言葉の隙間から、二人の声が押しのけるように胸へと伝う。
"お前の仕事はなんだ?"
"ヒロインぶるのはお顔だけにしといておくんなまし"
"何をしても勝て。どんなことをしてもやり遂げろ"
"ほらほら、ぼけっとしてないで動く動く"
……イリシア様。
ララ。
これが、僕。
憧れて、くじけて、追い求めて、失敗して、苦しめて、苦しんで、逃げて逃げて逃げ続け、あなたの心に居場所を求めた……それが、私。
でも……。
もう、やめます──。
さよなら。
無邪気な
絶望の中で、彼は一つの疑惑を抱いていた。
それは程なくして、彼が彼であり続けることを、拒む要因となる。
「……もる」
人生には少なからず、転換期が存在する。
ページにパンチで穴を空けるみたいに、有無をも言わさぬ事実によって。
「……守る」
マブトゥールは、そこで数々の尊いものを放棄した。
それは願いであり、地位であり、自身の未来。
そして今、彼は新たに捨てようとしていた。
「ララを……」
母が生み、父と師がかたちづくり、姉たちが育み、姫に寄り添っていた、彼らしさを。
開戦から20分。
酸いも甘いもを知り尽くした女の手によって、導火線に火は灯された。"変化"はすでに始まっている。その刻を遅らせることはできても、逃れるすべは、もう無い。
問題は、マブトゥールの中にあるのは火薬ではないということ。
炎が彼の芯に辿り着いた時、どうなってしまうのか……それは、神ですら知り得ない。
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