散花のくちづけ



 その耳は確かに捉えていた。食い縛った奥歯が鳴らす、いくつもの覚悟おとを。



 開戦から12分。



 時計塔はちょうどT字路の突き当たりにあり、黒髪は北側の通りにいた。北南に走るこの往来は、先刻戦場にしていた工房区域の路地よりもうんと広い。西側の道沿いには塔の高さを誇示するかのように、2階建ての建物がところどころに小路を挟みながら画一的に並んでいる。

 辺りに薄闇が広がった時、影たちが一斉に舞った。南側の屋根上にいた16人の3/4が平地へと降り駆け、残りは東側の路地に挟まれた工房を次々と跳び移っていく。西側の8人も並ぶように屋根上を駆けていった。

 『蝙蝠』の始動と同時に、黒髪の上体は骨を失くしたかのように脱力した。いくらか猫背になりながら、両腕をだらんと下げ、ゆらゆらと漂わせる。敵が正面と左右の屋根から迫ろうとも、そよぐ植物さながらに接近を待つ。下唇を無防備に垂らしたその顔は今にも眠りにつきそうなくらい弛緩し、それでいて力強く見開いた瞳は、まっすぐに前方の一点を見つめていた。


 風が黒く染まっていく。『腿赤鵟』に劣らない敏捷性が、ムクドリの群れさながらの連帯性を従えて、三方向から向かっていく。副隊長の下した作戦は、息をさせるな。つまりは、全員が決死の覚悟で行う攻勢。

 両辺の屋根から、尖った黒が放たれた。葉巻ほどの大きさの黒鉄。ひょう。これが機動力を生かした人海戦術を基軸とする『蝙蝠』の主武器である。

 『蝙蝠』の暗器には、先端に毒が塗られている。患部が鈍い痺れに襲われ、運動能力を著しく低下させるその性質は、持続性に乏しく致死性も皆無だが、傷口に入れば程なくして全身に伝わる驚くべき即効性があった。ゆえに彼女たちの戦い方は、いかにしてこの毒を敵に与えるかに集約される。

 欠点はいささかの臭気を放つことだが、鼻を潰された黒髪に嗅ぎ取れるものではなかった。が、それは彼の戦術に微塵も影響を与えることはなかった。

 もとより黒髪は、すべての攻撃を避けるつもりでいたから。


 全体がつるりとした黒い鏢は、闇に紛れると視力で捉えるのは難しくなる。だが反面、短剣より空気抵抗が少ないぶん、風を切る音が際立つ。常人ならまだしも、こと黒髪の聴覚の前では見えているのと変わらなかった。

 その証拠に、左右上方から放たれたいくつかの鏢に対し、黒髪は一切顔を向けることはなかった。咄嗟に前方へと駆け出しながら、やり過ごせなかった数本を柄頭で当て落とした。

 ここから攻防は、とどまることなく結末まで突き進んでいく。

 投擲した両辺の『蝙蝠』たちは、黒髪の始動に伴い屋根を跳んでいた。彼の左右、そして後方から追いかけ、包囲を狙う。縦隊で迫ってきた正面組も、すかさず隊列を『Ψ』のかたちへと反応させた。

 みるみると24対1の構図が出来上がっていく。敵は、虎口を逃れて竜穴に入った。

 その時、優れた聴覚に甲高い音が響いた。


 『蝙蝠』第一部隊は、基本一班6人で構成されている。この6という数字は、主攻・助攻・陽動・哨戒・偵察・全体補助の役割分担にあてがわれるだけでなく、臨機応変に対応できる柔軟性をも有していた。

 それは『蝙蝠』の性質に直結している。隠密を常とする公安という仕事では、いかに素早く合理的に事を進められるかを要求されるからだ。そして……。

 6人とは、陰を走る彼女たちの肉体と技量と判断力が最も機能的に働く数字だった。マブトゥールを一瞬のうちに攫った事実が最もな根拠となる。

 その班行動を統制するものが、いま突如として鳴り始めた、この音。じきに包囲を完成させるであろう四方八方から、いくつものキュッキュッという音が、不規則に黒髪の耳を打った。

 『蝙蝠』は普段、首から下げた呼子笛を服の中に隠しているが、任務中はまず使用しない。仮面で顔を隠すからだ。

 ゆえに『蝙蝠』の仮面には、口元に2本の小さな縦線が彫られている。その縦穴は裏側の突起に繋がっており、咥えて吹きかけると高い音を鳴らすことができる。

 『腿赤鵟』の『小波』では、主に死角からのジェスチャーをメインに伝達していたが、『蝙蝠』はこの音のみをもって意思疎通をはかる。

 これが、何を意味するか──。

 

 正面組の先鋒が黒髪の間合いを目前に控えたその時、列を作っていた後続が左右に広がった。影の群れは入り乱れ、敵の逃げ道を塞ぐかたちで臨戦態勢に入った。

 黒髪の視界内の者たちが、陽動(盾)・助攻(遠距離攻撃)を受け持ち、死角にいる者たちが主攻(毒攻撃)と哨戒(発信)を請け負う。

 それら役割が、黒髪の行動(顔の向き)に即して入れ替わる。音の発信によって、ただちに。それは班内のみならず、他班との横の繋がりをも可能にする。24という個が、瞬時に解読不能のさまざまな隊形(狙い)をもって敵へと攻め込む。壁の無い場所で敵の行き場を塞ぎ、パターンを読ませない手練手管をもって仕留める。これが700余年の歴史に培われた『蝙蝠』の必殺の戦術。

 班と班が入り乱れる、一見バラバラな隊列の中に、目には見えない規則性があった。敵の死角に位置した班長(発信者)が音で指揮を出し、あちこちに散らばった班員たちはその都度選択された役割に走る。

 これが、多対一、対強者相手には絶大な効果を発揮する。

 通常、班編成には個人の素質や気質が大いに参考とされるが、シエラ率いるこの第一部隊は彼女の経験と意向から、すべての能力がバランス良く鍛えられた隊員たちで構成されている。よって『腿赤鵟』同様に、誰もが主攻や陽動を担える実力を備え、編成や音の法則性は情報漏洩の対策から度々組み替えられる。月齢に沿って入れ替わるこのシステムを、『蝙蝠』では総じて『盈虧えいき』と呼ぶ。

 音の伝達のみをもって、役割を入れ替える……『蝙蝠』は知らなかったが、それは聴覚に頼る黒髪にとって非常に厄介な相性だった──。

 だがそれは、今までの黒髪、の話である。


 前方からの発信と共に、黒髪の背後にわずかなスペースが生まれた。それは投擲の合図。立ち塞がった前衛が陽動となり、助攻である後衛が鏢でアシストする。その際に生まれた隙を、短剣を握りしめた主攻が死角から斬りつける。

 黒髪にかすり傷の一つでもつけた時点で彼女たちの勝利が確定するこの状況下。『蝙蝠』の感覚では、完全に"詰めろ"が成立していた。それを"必至"に昇華させようとした今、女たちの時が止まった。

 放たれた6本の鏢が、北側の闇へと消えていく。敵の後方斜め左右から攻撃をしかけた主攻の前には、黒髪の背中……ではなく、正面から陽動を受け持っていた2人の身体が、首から血を噴き出しながら前のめりに倒れてきた。

 女たちは目を疑った。敵が鏢をかわし、瞬時に2人を斬り捨てたから、ではない。黒髪がすでに、そこにいなかったから──。

 包囲したこの状況下で、誰もが彼の姿を見失ってしまったから。

 残り、22人。


 高い音が神経質に響いた。哨戒の1人が敵を発見した合図。黒髪は包囲を抜けた先の、西側の建物の前にいた。その経路にいた3人が、先程の前衛と同じように倒れていく。

 残り、19人。

 驚愕も束の間、女たちの対応は早かった。『盈虧』最大の利点は、穴(役割)が空いてもすぐ修繕できるところにある。すかさず鳴った音に反応するや、息もつかせぬうちに二の矢・三の矢を繰り出す。近くいた者がそのまま陽動として接近し、後続から彼女たちの間隙を縫って鏢を放つ。他の者たちは建物に標的を追い込もうと、半円状に陣形を形成しながら、主攻と助攻に備える。

 多対一の常識として、足止めがある。文字通り、敵に足を使わせないこと。跳躍でもさせれば、人は着地まで自由に動けない。

 そのため助攻に回った6人は、腰からもう一つの遠距離武器を手に取った。鍋敷きを思わせる、螺旋状に丸められた黒い縄をほどき、敵の回避方向を捉えようとした、その時──。

 ギィンギィン、と石造りにいくつもの金属音が響いた。と同時に、再び黒髪の姿を見失い、接近した陽動の2人がまたしても、首からおびただしい流血を撒き散らしながら倒れていくのが目に映った。

 残り、17人。


 発信音がけたたましく飛び交う。黒髪は西の建物から南へと、曲線を描くように移動していた。水のように流れるしなやかな動きで、経路上の女たちの反応を次々と置き去りにしながら、一振りで無力化していく。

 残り、15人。

 離れた位置にいた者たちにも、今度はその様を目で捉えることができた。それが、余計に女たちの血相を変える。見えているものと、見えていないものがある。いや、それ以前に、どうやってあの鏢の雨を回避できたのか……。そのあるまじき事実に、ありえない、と誰かが小さく口にした。

 黒髪はソロと違い、優れた目を持っていない。そもそも二つ以上の投擲物を同時に目で追いかけるなど、常人には到達できない領域だ。

 それは黒髪でも例外ではない。優れた聴覚をもってしても、投擲されたすべての鏢を正確に把握するのは不可能だった。

 だから彼は、"投げられる前にかわしている"。言い換えれば、敵の意識が投げると決定する寸前に、すでに始動している。

 これが、何を意味するか。

 戦術とは、利を見つけ、または生み出し、引き寄せ、その手で掴み取ること。

 黒髪は、もう、その次元にはいない。


 驚愕が困惑を引き連れる前に、次手をいざなう音が鳴り響いた。この頃を境に、固いものが削れるいくつもの音を、優れた聴覚は拾っていく。

 先刻の中衛を担っていた主攻班が、クワガタのハサミさながらに黒髪の両辺から挟撃をしかける。後衛にいた助攻班は先鋒の影に潜みながら移動し、6人同時に縄を放った。

 6方向から、先端に鉤のついた縄がそれぞれ独特の軌道をもって黒髪へと飛びかかる。これがマブトゥールを攫った『蝙蝠』の縄術。

 自らの手のごとく操られた黒い縄は、最短最速で伸びるものもあれば、生き物の躍動性を従えた、掴みどころのない動きをするものもあった。針先で毒を与える本槍と撹乱入り混じった6本の鉤縄は、たとえ回避されようとも四肢にしがみつき、または他の縄と宙で絡まり、瞬時に網となって標的の肉体にまとわりつく──。

 まとわりつく、はずだった。黒髪が、そこにいれば。

 網と化した6本の前半部が、空をむなしく縛りながら収縮していく。操者たちは組み合わさった鉤をほどくのも忘れ、見失った標的を探す。その時、縄の1本が先に力無く地面に落下した。皆がその先に視線を移した時、縄の持ち主が糸を切られた人形のように、真横へと倒れていった。

 残り、14人。

 またもや愕然とした困惑が『蝙蝠』を襲う。ありえない……そんな思いが波紋のように広がっていく。

 女たちの視界や記憶からは、黒髪が回避する瞬間が抜け落ちていた。ありえない。どんなに視界が悪くても、相手がどんなに速くとも、包囲した標的を見失ったことなんて今まで一度足りとも無かった。それほどまでに、この男は速い? それこそありえない。そんなに速く動ける生物など、この世にいるはずがない。

 何よりも彼女たちの肝を潰した事実があった。縄が、すべて伸びきっている。斬られていないのだ。物理的な遮断を用いらなければ決して抜け出せない角度アングル瞬間タイミングで放ったにも関わらず、斬られた形跡が一つも無い。その事実に誰一人、血の気が引いていくのを止めることはできなかった。

 新たな血飛沫が舞う。まばたきを忘れた黒い瞳と、女たちの鼓動さえ聴こえてきそうなくらいに研ぎ澄まされた聴覚は、まるで戦況を真上から、俯瞰的に眺めているかのような判断力を授け、瞬時に選択された正着手の数々を、今の肉体が滞りなく実現させていく。

 それはある種の予知とも言えるくらいに圧倒的だった。一方的に相手を屠る彼の動きは、オーケストラを率先する指揮者のような、結末の定められたあみだクジの道程を強制されているかのような、はたまたリードされてステップを奏でるダンスのように、完全に『蝙蝠』の意識と行動を支配していた。

 わからない。その言葉が女たちの頭をいくつもかすめていく。この男が、いったい何をしているのかが、まるで分からない。とびきり速いというわけではない。なのに、誰も捕まえられない。目では見つけてるのに、見失ってしまう。まるで高いところから落ちている浮遊感にも似た、空間の伸縮とも言える奇妙な現象が、彼を速くさせる……それとも、私たちを、遅くさせている……?

 波打つ困惑はすかさず動揺を従え、恐怖という大きな波を引き寄せる──。

 だが、彼女たちは『蝙蝠』。

 残り、13人。


 離れた屋根上から戦況を見張る副隊長には見えていた。双方の基礎運動能力フィジカルに差はほとんど無い。なのに捉えられないのは、黒髪が自分たちよりも遥かに高い次元にいるということ。

 動きの繋ぎ目、息継ぎのほころび、意識の隙間……常人には決して見つけられないそれら瞬間を、怯えを無くした黒い瞳は瞬時に見出し、意志に従う肉体が風のごとく、利を刈り取っていく。一度覚えたら忘れない泳ぎ方のように、今の彼は目まぐるしく移り変わる利の数々を、たやすく手中に収められた。

 副隊長の胸に、複雑な感慨がこみ上げる。この敵は、昔想いを寄せた男をあっという間に抜き去り、今なお、武の頂とも呼べる祖国のあの二人のもとへと、急速に駆け上がっているのだ。

 怪物の誕生に立ち会っている気分だった。敵は、まごうことなき化け物……けれど、打つ手が一つも無いわけではない。こうして離れて観察していると、それがよく分かった。

 多数の相手の意識を置き去りにしていくその神業カラクリは皆目検討もつかないが、敵は意図的に、斬った相手から大きく距離を空けているのが見て取れる。それは十中八九、時計塔で足を掴まれた経験からきているものだ。

 経験豊富な戦士たちは、死んでも動ける人間がいることを知っている。正確には、生命活動を終えても尚、肉体が寸前まで受け取っていた脳の指令に従順でい続けるという事例があることを。

 それは今の黒髪の鋭敏な感覚を持ってしても察知できず、また蝋燭の最後の灯火のように、信じられない力を発揮するケースも少なくない。

 だからこその大きなフットワーク。獲物が致命的な隙を見せやすい攻撃の前後に、黒髪は神経と体力を十二分に注いでいた。

 だからこそ、これが生きる、と副隊長は確信した。だからこそ、開戦と同時にこの全員突撃カードを切ったのは間違いではなかった。現に深い息継ぎを許されない黒髪の体力は、遠くから見れば一目瞭然なまでに、疲弊の一途を辿っていた。




 どれだけ集団戦法が進歩しようとも、捨て身に勝る攻撃力は無い。それが大多数におよんだ場合、牙を掻い潜る手段は皆無──。

 そんな混沌の中で、黒髪の姿を捉えられる者はいない。見えてはいる。だが、視えてはいない。輪郭をつかめてはいても、その本質はまるで煙のごとく、女たちの意識から薄れ消える。そしていつの間にか、利を取られる。およそ逃げ場の無い、雨天にも似た空間で、利を支配した彼のみが、相手の時間だけを止めているかのように勝者でい続ける。息を殺し、もみあげを湿らせ、精神をギリギリまで張り詰め、星のまたたきさながらに肉体の消費を一瞬一瞬にとどめながら、死の刃をくぐり抜け、命を攫う。

 一見、何の成果も上げられず、無残に散り行く同胞たち……だがそれでも、敵の体力は間違いなく限界に近づいている。女たちは、そこに懸ける。女たちは、そこにすがり、命を捧げる。いくつもの奥歯が覚悟を鳴らす。かたちにされることのない言の葉の風を、男は斬り抜ける。黒髪が利を手にした刹那、仮面に描かれた抽象的な模様が、炎のごとく熱を帯びる。それは首から噴き出された血飛沫を浴び、仲間の死と自身の想いとが混ざり合ってはさらに混沌と化して、内なる火を激しく昂ぶらせる。命の躍動が黒髪を削り、恐怖を振り払った決死の突撃が、まだ見ぬ次手へと繋げる。

 それは、残り8名を切った時だった。温存に徹していた黒髪が、死闘の最中で初めて、歯を食い縛りながら肺に大きく空気を吸い込み、止め、先の先へと転じた。惜しみなく最高速を用い、最短決着を目指す。それに伴い、『蝙蝠』の戦法が即座にヒット・アンド・アウェイへと移る。小さな爪で削り続けた外皮が剥がれ、ようやく中身を見ることのできたその時、女たちは命の使い方を変えた。

 それは黒髪にも分かっていた。だが男も女も、打つ手はもう変えない。賽は投げられた。あとはどちらかの炎が、消えるまで。

 程なくして黒髪の息が上がる。『腿赤鵟』との戦いのツケが、ぜえぜえと辺りを白く染めていく。女たちは巧みに距離を取りながらも、息継ぎの隙間を見つけるやささやかな攻撃をしかける。決して休ませない。散らせた命のぶんだけ、男の体力を削る。


「──優しいなあ……」

 いまだ戦況を眺める副隊長の唇は、くすんだ紫色に変わっていた。呼吸はどんどん濃くなり、視界はうっすらとぼやけてきていた。

「あんなに……綺麗なまま殺してくれる男が……いるんだね……」

 出血過多。右腕や顔左側面の出血はすでに落ち着いている。致命傷となったのは、左脇。塔から道連れを誘おうと黒髪の右腕を抜かせた際に、切れ目を入れられた動脈が、止血をものともせず残り時間を吐き出し続けた。

「一緒に……いけたらいいなあ……」

 抗いようのない寒気が全身を伝う。タイムリミットがそこまで来ている。自分も、この死闘の結末も……。

 気を抜けば意識が朦朧とする苦痛の中、彼女は懸命に息を整え、その時に備えていた。それでも痛みは、人を挫く。耐え難い苦しみは、火に撒かれる水のごとく、あっけなく意志を曇らせる。

 だから女たちは、思い出す。もう一度、心に描く。大切なものの絵を。自分がなぜ今、ここにいるのかを。

「愛してたよ……今でもちゃんと……愛してる……」

 家族の絵が、肺を大きく膨らませる。減り続ける血液が、それでも懸命に酸素を全身に運び続ける。

「いつか……わかってね……」

 この世の何より尊い娘たちの笑顔に、胸が締めつけられる。

「あなたたちを愛した、わたし……わたしが……わたしでい続けた……意味……」

 それと同じくらい、遠くで女たちを屠っていく男に、腹底を熱くうるませる。

「人は……愛だけじゃ足りないんだ……」

 この男を殺して何が変わるかなんて、自分には分からない。自分も恩人シエラと同じだ、と彼女は思う。人が頑張る理由なんて、なにかを守るためと、誰かに好かれるためでしかないのだから。

 無精髭を生やした男の横顔が脳裏に浮かぶ。もっと早くにお前を理解できていたら、どうなっていただろう。この命は、今とはもっと別の生き方を選んだりしたのだろうか。

 己の大切なもののために、尊いなにかをこの手で犠牲にする……そんな自分を、とうとう好きにはなれなかった。

 けれど、そんな生き方は、嫌いになれなかった。だって、生きるってそういうことでしょう?


 誰かが生きていくために、誰かがやらなければならない。

 誰かが生きていくために、誰かを犠牲にしなければならない。

 だから今、わたしたちはここにいる。

 だから今、わたしたちはここで、命を燃やしている。


 人生とは痛みだと、わたしは思う。人は皆、痛みながら生み、痛みながら死んでいくのだ。

 だから、そこに少しだけ……ほんの僅かでいいから、痛みを忘れさせてくれるものを添えたいと思うのは、傲慢? ううん、違うはず……。

 生きるとは、己の愛したもので、傷を塞いでいくことなのだ。

「さようなら……グレン……」

 ようやくお前に、別れを告げられた。

 誰に理解されなくとも、わたしはわたし。わたしは──。

「私たちは、『蝙蝠』だ」

 必死に生死を掻い潜り続ける男を、必死で追い詰める女たち。自分も最期はそこにいたいと、彼女は思う。

「ああ……」

 さらさらと明かりがこぼれ落ちる。再び顔を覗かせた月へ、女はひとときの瞑目にこれまでのすべてを込めてから、出陣した。

「濡れるわ」



 ギリッと、いくつもの奥歯が鳴る。死にたくない、という澄みきった一滴は、まもなく立場と血、そして自分たちが辿ってきたつみ物語おもいという濁流に呑み込まれ、その足を加速させる。一人、また一人と仲間が倒れるたびに、彼女たちは意志を燃やして敵へと飛び込む。

 みんな、こうしてきたのだと、言わんばかりに。

 残り、6人。

 激動の攻防は、徐々に戦地を工房の路地へと戻していた。短い音がいくつも飛び交う。その信号が何を意味するのかを、黒髪は知らない。だが彼の意識には一片の波及すらない。敵のサインにとらわれることなく、目の前の命を刈り取ることだけに奔走する。ガッチリと結びついた理性と本能が、ただそれだけのために全神経を操作する。

 残り、5人。

 キュッキュッという音が消こえなくなった。そこからはもう、戦術と呼べるものは一つも無かった。女たちは己のすべてをもって、男を削りつづける。

 黒髪の動きに、だんだんと隙間が生まれてくる。ぽつぽつと、次の判断の前に0コンマ何秒が挟まれていく。

 南側から、呼子笛による長い音が聴こえてくる。女たちはさらに死にもの狂いで駆ける。男の間合いを保つ足運びが、斬った後のステップが、目に見えて縮んでいく。女たちは、そこに手を伸ばす。一つ向こうの路地で横たえた遺体のそばを、副隊長が体勢を崩しながら駆け抜けていく。斬られた女が、倒れゆく中で男の衣服に触れる。次に血飛沫を上げた一人が、今度はそのシャツの裾を掴みそこねる。

 残り、3人。

 ずるりと掻い潜ったその間隙を、次の一人が突く。男の肩に掛けられた帯剣ベルトを掴んでは、意識を失っても放さない。上体を引っ張られた黒髪は、懸命に身をよじりながらその場を脱する。息絶えた手のそばで、ベルトに繋がれた黒い鞘が横たわる。

 残り、2人。

 建物の戸口を三つ過ぎたところで、意志に研がれた爪が、倒れざまに男の右顎に三本の赤線を刻む。ずり落ちていく手はその爪を剥がしながら、敵のパンツに通されたベルトを掴む。男の左腰が、壁に繋がれたように重くなる。

 残り、1人──。


 『蝙蝠』は使命を果たした。24人の命と引き換えにして、ようやっと、黒髪の足を止めた。と同時に、工房の建物を背にした彼の正面の屋根から、副隊長が駆け降りてきた。

 下段に位置する彼女の両手の、指の隙間には、8本の鏢。それらを跳躍と共に、両腕を交錯させるかたちで投擲する。

 路地の幅、およそ4,5m。頭が回らない。足が動かない。左腰を掴んだ手が離れない。息継ぎの足りない脳は利を見つけられない。

 うっすらと垣間見えた濃い黒を避けるように、黒髪は無我夢中で上体を振った。8本の鏢は、彼の左膝と右上腕部の肌を刻みながら、壁に金属音を鳴らした。

 副隊長が跳躍してから、時はゆっくり流れていた。二人の時間は、今では同じ速さをもって、途方もない長さの中にあった。

 黒髪の間合いの目前まで来ていた副隊長の体勢は、投擲後のままだった。彼に手のひらを見せるかたちで、両腕を顎の前でクロスさせている。黒い瞳が見開いて固まる。後の先? 首への警戒? 柔? 打撃? 狙いが分からない。正着手が見えてこない。

 がら空きにされた胴から、明らかな罠の臭いを感じた黒髪だったが、足を止められた今、他に選択肢は無かった。すかさず柄を手中で滑らせ、横向きにした刃先で突きを試みる──。

 その時だった。

 視界が二重にぼやけ、二の腕の患部からぶわっと熱がこもった。腕が重くなり、握力がまたたく間に抜けていく。

 斜め上から副隊長が間合いに侵入した。体勢は変わっていない。考える時間はもう無かった。本能が、戦地を生き抜いてきたその肉体が、咄嗟に右半身に構え、貫くに十分な膂力を従えるため、柄を両手で握らせる。

 全神経が込められた剣先は、彼女の右胸部を斜め下から突き刺し、肉をみるみると裂き分け、肋骨の薄い隙間をくぐり抜けては、心臓を貫いた。たおやかな体躯は長剣のガードまで埋まり、体重が黒髪にのしかかる。首の前で交錯していた両腕が、力無く垂れ下がっていく。激痛に歪んだ顔が彼の肩に落ち、オーガズムとは真逆のうめき声が鼓膜に響くと、黒髪は苦悶に満ちた顔で、大きく息をついた。

 極限の疲労が、黒髪の反応と判断力を鈍らせていた。彼女はじきに死ぬ……だが、それは今ではなかった──。


 すべては、今、この時のためにあった。


 そう言わんばかりに、黒髪の顔の横で白い歯がこぼれた。と同時に、彼女の両腕が、彼の上体を両腕ごと外から抱き締めた。

 それはおよそ女の、瀕死の人間とは思えない程の、信じられない力だった。

 血流に乗った痺れが全身に伝わっていく。力が入らない。引き剥がせない。両腕が抜けない。突き刺した剣も動かせない。

 ひとときの膠着の最中、黒髪の脳は必死に答えを探していた。狙いは、何だ? これじゃ王手になってない。まだ仲間がいる? 近くにいるはずがない……いや……それより──。


 この、嫌な臭いは、どこからだ?


 黒髪は歯を食い縛りながら、血の詰まった鼻で大きく吸い込んだ。鼻腔から喉に流れた鉄臭い味に紛れ、嗅いだことのある臭気を捉える。まもなく息継ぎによって鮮明になった聴覚が、その正体へとたどり着く。

 燃えている。

 じりじり、ちりちりと。

 すぐそこで、燃えている。

 破壊の道へと突き進む、炎が。


 女の左肩に顎を乗せると、その正体が見えた。左の尻ポケットに、眩むほどの黒々とした塊が詰められている──。

 その火は、もうまもなく、そこに辿り着こうとしていた。

 黒髪が一心不乱に抵抗する。だが剥がせない。炎がその紐を短くするにつれ、自らの力も低下していく。もはや立っていられない程の痺れと疲弊の中で、何とか柄を握るも、締めつけられた肉に遮られびくともしない。

 ゴボゴボッ、と大量のあたたかいものが、男の背中を濡らす。熱い吐息の中から、くぐもった声が首筋に当たる。

「月並みだけど……一度言ってみたかった──」

 吐血に彩られた声は、一文字一文字濁点でも付けられたかのように濁り、それでいて、内なる意志をありありと表現した。

「死んでも離さない」

 女の脈が、男のそれと重なる。尻ポケットに詰められたものに、背中から伝った赤が染み渡る。それでも、その火は消えない。彼女の覚悟に辿り着こうと、必死にそのみちを進む。

 残り、11秒。

 かろうじてまだ自由の効いた左手を、やわらかい胸へと滑らせながら、女の首を掴む。

 残り、9秒。

 絞める力はすでになく、彼女の顔を目の前に持ってくるのがやっとだった。

 残り、6秒。

 すべてをやり尽くした女の顔は、これまでのどんな異性のそれよりも、透きとおって、健気で、ひどく美しいものに、黒い瞳には映った。

 残り、4秒。

 痺れ毒のせいか、極度の疲労のせいか。

 やわらいだ口元は、澄んだ微笑をかたちづくりながら、その言葉を口にした。

「あんた……いい女だな」

 残り、2秒。

 女は唇を悔いなき微笑に染めながら、そっと、答えた。

「よく言われる」

 残り、1秒。引き寄せられるように、二人の唇が重なる。そしてまもなく、きらめいた光の束が轟音と赤黒い熱を引き入れながら、最初で最後の男女のくちづけを、盛大に囃し立てた。





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