探しつづけたもの



 開戦から8分。



 中央部より北東に、ヨルシュたちはいた。粘土瓦の切妻屋根が建ち並ぶ、大通りに近い一画で、下では東門へと走る退避の波が建物を削る勢いで流れていた。

 イルーシャ人の特徴として、金髪碧眼はもちろんだが、視力の良さも挙げられる。夜目が利き、一般人でも半径1.5km以内ならほとんどのものを視認できるほどに。

 鐘塔の建つ中央部を見据える仲間たちとは別に、ヨルシュは我を忘れた群衆を眺めていた。あちこちで子供の泣き声が上がり、母親を呼ぶ数々の声は、逃避の駆け足に呑まれあっけなく止んだ。悲鳴と土埃がおさまった道には、群衆に踏み潰された者たちの死骸が、抜け殻みたいにいくつも転がっていた。

 ヨルシュは特に感慨もなく、涼しい顔でその光景を見つめるだけだった。


 屋根上に黒衣が一つ合流した。偵察に出ていた双子の兄が、ヨルシュに状況を報告する。

「ソロ・グリーンウッドは変わらずソプラ外務大臣と共闘しております。鐘塔西側の邸宅です」

「そうか」

 作戦指揮も、聞こえの良い言葉もすでに無かった。兄弟同然に育ち、共にこの世の"陰"に多く触れてきた彼らは、それでも澄んだ微笑を見合わせると、想いを繋ぎ合わせるかのように3人で丸く肩を組み、そっと、額を合わせた。

 トライアングルの黙祷はおよそ1分続いた。それが長いのか短かったのかは、父に寄り添う二人の背中に切なそうに目を細めたヨルシュの顔がよく示していた。

 父子の間にも、言葉はなかった。叔父は左右の手でそれぞれの頬に触れ、同じ血に温度を伝えた。息子たちも己の手を重ね、自らのルーツのぬくもりを確かめた。誰も、何も言わなかった。ただ安らかであたたかい、視線と肌の重なりだけがあった。


 双子が屋根を飛び移っていくのを見届けてから、ヨルシュは大棟に置物のように腰を下ろしていた彼の隣に座った。これまでと寸分違わず、フードを深くかぶり、長剣を抱きかかえるようにしてじっと座る彼に、どこかおかしみにも似た信頼と好意を感じた。

 ヨルシュは時計塔の方を見つめながら、彼に問いかけた。

「どう見ますか?」

 フードの男は、歓喜も恐怖もうかがえない透き通った声で答えた。

「時間の問題だ。もはや人では太刀打ちできんよ」

 一拍置いたヨルシュは、述語を省いてこう尋ねた。

「勝ち目はありますかね」

「それを聞いて何かが変わるのか?」

 フッ、と鼻を鳴らしたヨルシュは、少年のように歯を見せて笑った。

 そんな彼につられて、フードの下の口元も和らぐ。

「お前も損な性格だよ。父親そっくりだ」

 その評価に嬉しさを孕んだ悲しみをいだきながら、ヨルシュは前当主の代わりに想いを伝えた。

「……貴方に報いること叶わず、心苦しく思っています」

「気にするな。ただの運命なりゆきだ」

 なりゆき、か……。

 反論も同意も抱かず、ヨルシュはただただ、噛みしめるように小さく復唱した。そして立ち上がり、踵を揃え、へその前で両の指を組む……も、まもなくほどいた。

 最後は、人として、父たちの友に頭を下げた。

「これまでの貴方様の御献身に、心より感謝申し上げます」

「お前のやりたいようにやれ。俺もそうする」

「御武運を。では」


 出発した分家当主を追随する前、叔父は男に問いかけた。

「探しものは見つかったのか?」

「いや、まだだ」

「……いいのか?」

 フードの下で、唇がわだかまりのない微笑に染められた。

「きっと、それを見つけるのは俺じゃない。そういうものなんだろう」

「……そうか」

「ずっと、聞きたかったことがあるんだ」

「何でも話すよ」

 その問いかけは、ここにはいない誰かに、尋ねているような口調だった。

「祝福の地は、どこにある?」

 祝福の地。

 多くのイルーシャが己のほとんどを捧げて優先するそのワードに、叔父は答えを求めるかのごとく、月を仰いだ。

 彼の頭をかすめるは、あの日の記憶。暖炉でのどやかに咲いた火のように、ふつふつとよみがえる。


 イングリッド地方では珍しい、蒸し暑い秋の黄昏だった。

 報せを聞いて駆け出した、あの躍動。

 背中を濡らす激情。心を駆り立てる息継ぎ。

 躓き転んだ焦り。木枝の先が頬に与えた、生の疼き。

 期待、不安、願いを呑み込みながら、赤く染まりゆく落日。

 くたびれた家屋。蝶番の鳴る扉。唐突に、心地よい狭さを感じさせた寝室。

 真っ白なシーツ。きしめく木板。茜色にそよぐ窓掛レースカーテン

 汗ばんだ首元。額に張り付いた前髪。

 ぐったりした寝間着ワンピース、それでいてやりきった彼女の、うららかな微笑み。陽を浴びた海面さながらに、きらめいた瞳。

 取り上げた手のいたわり。

 囁いた熱さ。

 耳元のいとおしさ。

 苦い血の匂い。

 甘い汗の香り。

 何一つ穢れを持たず、すやすやと寝息を立てる、新たな命。

 心を震わされた、頬のぬくもり。小さな手、鼻、唇。

 この腕で感じた、あの子たちの小さくも確かな、鼓動……。




 月影を帯びた横顔が、色褪せたように微笑んだ。

 すべてが終わりを迎えようとしていた今夜、彼は、長い長い疑問にようやく答えを出せた。

 あの瞬間以上に尊いものが、他にあるのだろうかと。

「祝福の地、か──」

 ひたひたと胸を打つ思い出に浸りながら、彼は、穏やかにこう答えた。

「そんなものは無いよ」

 その返答に、フードの男も同じように口元をゆるめながら、静かに、自らの夢に別れを告げた。

「だったら、笑って死んでこい」

「お前もな」





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