道連れの血戦
地上まで45m。身体が浮いたと認識してからの二人は迅速だった。互いが目的に応じた手段を繰り出す。
先手を取ったのは、上方で勢いに乗っていた副隊長。道連れの覚悟をまざまざと瞳に焼き付けながら、掴んだ左手で引き寄せる反動を利用し、右の掌底を黒髪の顔面へ強く打ち付けた。
ただの掌底ではなかった。激痛と共に、左側の視界に赤黒い色が滲む。虎の爪のごとく立てた指先が一つ目に入り、角膜をひっかかれた。
地上まで36m。副隊長が右手を背中に回そうした時、黒髪の左手が伸びる。腰に備えていた調理用の
脇腹を狙うべきだった、との反省も置き去りに、二撃目は何とか首をひねって眼球を守るも、唇が裂け、止まりかかっていた鼻血がまたあふれ出した。
それぞれの目論見が膠着を維持しながら落下していく。利き手の自由を取り戻し、脱出を狙う黒髪。そんな敵から手を離そうとしない副隊長。地上まであと25mを切った。
黒髪が短剣の柄をぐりぐりとえぐるように揺らす。彼女の食い縛った奥歯から、くぐもった熱い息が漏れる。
地上まで17m。それでも副隊長は左手を離さない。が、激痛に緩んだ一瞬に、黒髪は力を込める。利き手が剥がされるや、女は相討ちを諦め、男の腹部を足場に見立てて蹴飛ばした。そのまま塔にぶつかり、立てた指と左半身でずるずるとレンガに指紋と衣服を削りながら、落下を減速させ、いち早く受け身の体勢へと移った。
地上まで9m。黒髪はみぞおちの衝撃に肺が締め付けられながらも、転回を試み、左足首へと剣を振った。掴んでいた『蝙蝠』の左手、親指と人差し指のつけ根がぱっくりと裂ける。左足がようやく抜けるも、地面はすぐそこまで来ていた。
黒髪は転回の勢いそのままに、頭を下に向け、仰向けになった『蝙蝠』に、丸めた肩を乗せた。
まもなく、骨の砕けた音と、肉の弾ける音が飛散した。
くるくる、ドタドタと、衝撃を四散させるように黒髪が石畳を東へと転がっていく。落下地点には中身を撒き散らした『蝙蝠』の寝そべった姿があり、塔のすぐそばでは、副隊長が着地していた。
黒髪は起き上がるや片膝立ちの姿勢を取り、すかさず時計塔に目を向けた。一つの深呼吸の間に、不敵な笑みをこちらに向けながら短剣を腕から抜く彼女と自身の状態を確認する。暗さとぴたりとした黒い服のせいで外傷は見えづらいが、漂う息の白さから、軽傷で無いことは明らかだ。対してこちらも、爪を入れられた左目は視界の一部が赤黒く歪み、鼻は後頭部を木槌で叩かれてるような鈍痛を発した。厄介だったのは、左脇腹。受け身は完璧に取れたものの、およそ50mの高さから落ちた代償が、左の第6・7肋骨を損傷させていた。吸い込むときりきりと刺すような痛みが息に混じり、少しでも上体をひねると、ぎしぎしと神経が悲鳴を上げた。
経験上、折れてはいないがヒビは入っている。だが黒髪は意に介さず、副隊長の息の根を止めるべく即座に駆け出した。
戦いにおいて、弱点を晒すことは自殺行為だ。だから戦士たちは出血の目立たない格好をし、
そんな彼の斜め上から、新手の武器が飛んできた。それは咄嗟に気づいた黒髪の後退を追いかけるように、短剣の雨となって、金属の震える音を石畳に次々と鳴らしていった。
「……間に合った、か──」
副隊長は得意げに黒髪を指しながら言った。
「命懸けの時間稼ぎ、成功」
繰り返した後方転回から再び片膝立ちの姿勢に戻した黒髪の口元に、濃い白が漂ったのを、彼女は見逃さなかった。そしてすかさず『蝙蝠』としての経験値が、苦笑混じりにその答えを見出す。
「肋、かな……まったく、つくづく可愛げが無い男ね……よくもまあその程度で済んだものよ……」
投剣の出現方向へと顔を上げた時、黒髪は副隊長への追撃を諦めざるを得なくなった。そして、南側の屋根上に集まっていくその影を数える。1,2,3……10を超えたところで数えるのをやめ、まもなく始まるであろう死闘に備え、痛みを堪えながら深呼吸を繰り返し、体力の回復に努めた。
月明かりが射し、影たちがありありと照らされていく。その光景に、黒髪は鼻を潰されたことを心底うらめしく感じた。屋根上に群がった『蝙蝠』の、そのタイトなフォルムの数々に、たまらず笑みをこぼさずにはいられなかった。
「……はは──」
なまめかしい線に沿って引き締まった肉体は、胸部と臀部のたおやかな膨らみを魅惑的に表現し、赤茶色の髪を後ろでなびかせるその抽象的な模様の仮面は、見る者に言い様のないおぞましさを与えた。
「ここで死ねたら最高だろうな……」
神の悪戯か、悪魔の呪いか……。
ケルフェベント家が発祥してから700余年、『蝙蝠』の系譜は女児しか誕生せず、またその体系も、すべて女で構成されていた。
大きな雲が月へと流れていく。程なくして月影は夜陰にまぎれ、そこからいくつもの殺意が黒髪へと群がっていくだろう。
もう一度時計塔に目をやると、副隊長の姿はすでに無かった。建物の陰に隠れた彼女は止血に損傷箇所を縛りながら、首にぶら下げた呼子笛を短く三度、二度、三度、締めに長くピーッと吹いた。
「2分……いや、1分でいいから、稼いでね──」
笛は作戦指揮だった。その内容は、死闘の火蓋が切られると同時に明らかとなる。
「私が、必ず、仕留めるから」
雲の額が、月の顎をかすめようとしていた。空気がちりちりと張り詰め、痛みを伴う呼吸が重苦しく変わっていく。
雲に遮られる前、燦々と降り注いだ月明かりが、仮面に描かれた模様をまるで火のごとく、めらめらと揺らめかせたように、黒髪の目に映した。
雲が月を飲み込む寸前、黒髪は最後にもう一度、大きく息を吸った。
「みてろよ……イズナ──」
彼の全身から、硬さという概念が抜けていく。
「今日、ここで、お前を越える」
月が完全に雲に隠れた。これを機に、黒い翼が一斉に、闇夜を駆け出した。
開戦から12分。
一つの局面が終わり、新たな死闘が始まる。
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