chapter Ⅱ ザンブロア

ガウェン・フェルヴェール



 ザンブロアとカボクの和睦締結から3日。

 両国の境となる川を南下すると、西側にレンガ造りの建物が見えてくる。ザンブロアの砦だ。見晴らしのいい高台と、百人以上収容できる兵舎がある。国境線を見張るため常に稼働しているが、今朝は事情が違っていた。

 閉散とする基地内に兵の姿はない。いるのは十数名のザンブロア人。青年から中年まで、その姿容には一般的という言葉が当てはまる。だが周辺を警戒する目は獣のようにギラつき、佇まいには一切の隙がない。

 彼らこそ、知る人ぞ知るザンブロアの宝。三大名家がそれぞれ抱える秘密部隊。彼らが動くときはいつだって、機密にあふれている。

 その証拠に、建物内には三人しかいない。いや、正確には二人と、一つの遺体。

 薄暗い地下室のベッドに横たわるのは、先日、黒髪と戦ったフィル・フェルヴェールだ。沈黙にとりつかれた彼の身体は青白く染まり、死だけがもたらす独特の臭いを漂わせている。

 そんな弟の姿に、レオンは口元を押さえ身を屈めた。臭いに吐き気を催したのではなく、弟へのやましさと、自身の不甲斐なさへの怒りから拳を震わせる。

 それは同時に、これから祖国が歩むことになる道程への懸念をも示していた。

「他の、二名は……?」

 当主の問いかけに答えるのは、従者でもあり『ふくろう』部隊長でもあるオットゥー。

「フィル様から離れた場所で遺体が見つかりました。わずかではありますが、拷問を受けた形跡があります。かなりの手練れです」

 あの日、フィルたちは重大な任務の最中にいた。それを知るのは、今やこの二人のみ。

「……馬や遺品は?」

「大方回収いたしましたが、馬が一頭見つかっておりませぬ」

 弟の身体には傷が三つあった。左手の親指、右膝、そして首。瞳はまだ信じられないと言ったように、その三ヶ所と寝顔を何度も行き来する。

「……相手は『蝙蝠こうもり』だと思うか?」

 オットゥーもまた、その傷を凝視しながら答える。

「私の印象では違います。むろん奴らのなかに相当な使い手がいることは否定できませんが……しかし、これは……」

「なんだ?」

 斬り口が美しすぎる、と答えるのはさすがに不謹慎すぎた。

「いえ……いずれにしても『蝙蝠』ならばこのようにずさんな後処理をすることはないかと。むろん陽動や奸計かんけいの一端ともとれますが、奴らとて数は無限ではない。それに勝手の異なる他国ではなるべくリスクを避けるはずです」

 徐々に現実を受け止めてきたのか。兄の瞳は和らぎ、謝意と哀しみを帯びていく。

「……結局、私はこの子を都合よく利用しただけになってしまったな」

「……レオン様──」

 ノックの音がする。現れた『梟』の一人から、こう告げられた。

「ガウェン様がお見えになりました」

 その名前に、静寂が緊張を従えて室内に張り付いた。

「いかが致しましょう?」

「待たせておけ」とレオン。

 フェルヴェール家の人間として、中に入れないわけにはいかない。だが当主としての判断は異なる。

「まだ中に入れるな。私が行くまで待てと伝え──」

 その男はすでに『梟』の背後にいた。揺るぎない精神を具現化したような堂々たる体躯と、いくつもの細かな斬り傷を勲章のごとく身につけた銀の甲冑姿からは、山のような力強さと寛大さが窺える。端正な目鼻立ちには好戦的かつ友好的な魅力が、無造作に伸びた長髪からは獅子さながらの気高さが漂う。両の腰に携えるのは、一般的なサイズより一回り大きい二本の剣。双剣デュアルブレードだ。

「よ~う、兄者」

 『梟』はフェルヴェール家の宝であり、名誉だ。選ばれた者だけが、あらゆるものを捧げた後、ようやくそれを名乗ることができる。どんな宝石や絵画をも上回る価値。それほどまでに磨かれた、武。

 そんな達人から、気づかれることなく背後をとることができる。それが、フェルヴェール家次男。

「久しぶりだな、一年半ぶりくらいか。少し痩せたんじゃね~か?」

 人は皆、様々な立場を持っている。レオンで言えば、フェルヴェール家当主にザンブロア国の臣。兄や夫、そして父親という立場。

 誰しも、そんな立場を使い分けて生きている。そのほうが効率的で、余計な軋轢を生まないからだ。感情を抑え、ときには偽り、立場に相応しい人格を演じている。

 それは見方を変えれば、妥協ともとれる。わがままとは真逆。障害に対しまっすぐ進めないからこそ、人は立場に身を委ねるのだ。

「おう、おめえも来てたんかオットゥー」

 だが立場に収まらないのが、この男。障害に屈することなく、わがままを突き通してきた。突き通す力を持っている。

 それが、ザンブロア筆頭将軍ガウェン・フェルヴェール。

「いつもいつも兄者に振り回されてご苦労なこった。ちゃんと休みもらってっか? 40過ぎると一気に老けてくるらしいから気ぃつけろよ」

「何をしに来た?」とレオン。

「はは、ひっでぇ言い草」

 皮肉に笑う顔も声も、弟の前に立つと嫌でも沈んでいく。

「……可愛い弟がぶっ殺されたって聞いて、顔を出さねぇ兄貴がいるかよ」

 オットゥーが尋ねる。

「……ガウェン様、たしか西国ガラドに遠征されていたはずでは?」

「ガラドは一昨日落ちました」

 現れたのはガウェンより一回り若い武人。端正な目鼻立ちは融通が利かないと思わせるほど堅く、礼節を備えた佇まいからは厳粛な誠実さが見てとれる。

「ご無沙汰しております、レオン公爵。ケルフェベント家が直系モレル家当主のリトラッセにございます。ガラドは首都を含めた東一帯をすでに制圧し、これから平定(反乱を沈め秩序を回復させること)へと移る予定です」

 早すぎる……。オットゥーのそんな胸の内が聞こえてきそうだ。ガウェンの力を熟知する彼でも、驚嘆にまばたきを重ねざるをえない。やはりこのお方は怪物だ。

 対して苦虫を噛んだ顔をするのはレオン。その理由はリトラッセの存在にある。三大名家が権力を握るこの国では、他家の直系貴族を召し抱えるのは一般的ではないからだ。ガウェンとケルフェベント家当主の関係は以前から知り得ていたが、その蜜月さを隠すことなく見せつけられたことは、自身が今置かれている状況が非常に芳しくないことを示す。自分とケルフェベント家当主には、いまだ大きな差がある。

「ところで兄者よぉ」

 穏やかな声の中には当惑と怒りが蠢いていた。冷たい頬。こうして現実に触れた今でも、今だからこそ、気持ちの整理が難しい。

「いくつか解せねぇことがあるんだが、聞かせてくれねぇか?」

「……なんだ?」

 だから分かりきっていることを八つ当たり気味に尋ねてしまう。

「どうして城内で近衛兵やってるはずのフィルが、こんなド田舎でくたばってやがるんだ? 近衛師団の指揮権を持つのはあんたじゃないはずだよなぁ?」

「私の預かり知るところではない」

 こんのタヌキ野郎が、とガウェンは唇の端を持ち上げてから続けた。

「『梟』まで駆り出してこんなところまで来た理由はなんだ? 砦の稼働予算の見積りにしちゃあ遠足気分も甚だしくねぇか? どうやってフィルの死を知った?」

 しばし兄弟の視線が交錯する。張り詰めた静寂が耳をつんざく。

 武人であるオットゥーとリトラッセには分かる。大陸最強と謳われる武将の双剣が、いつ抜かれてもおかしくないことを。

 それでもレオンは怯まない。その佇まいは兄として、また当主としても相応しい。

「私の職務の詳細について、お前に話す義務はない」

「……ま、それもそうだな」と笑みをこぼすのは、やはり兄と認めているからか。

「それより3日前、メルディーナ西平原近隣の村マエーラが襲撃を受けた。なにか心当たりはないか?」

「はぁ? んなもんあるわけねぇだろ。だいたい俺はガラドで剣振り回してたんだぜ?」

「お前はオルドール大公と懇意にしているだろう」

「さあねぇ……リト、なんか知ってっか?」

「いえ、私も戦のことで頭がいっぱいでしたから」

「だとよ……で、フィルはどこの馬の骨にやられたんだ?」

「それも心当たりはないのか?」

「あったら無知さらしてまで尋ねてねぇよ」とガウェンは顔を近づけた。

 再び視線がぶつかり合う。今度は駆け引きの類いは一切ない。互いの瞳が捉えるものは、三男を想う気持ちのみ。不純な感情は見当たらなかった。

「……目下詮索中だ」とレオン。

「そうかい……まぁ、なんだ。兄者は兄者で動いてくれや。俺も俺で探し出す。そいつをどうするかは先に見つけたほうが決める、それでいいだろ?」

「ああ」

「おし。それでは兄上、ごきげんよう。行くぞ、リト」

 退室前に、もう一度弟に触れる。現実をきちんと受け入れるかのように、青白い顔を、その冷たさをたしかめる。敗者に似つかわしくない朗らかな寝顔に、胸がきりりと締め付けられる。だが同時に、いくらか楽にもしてくれた。


"僕もいつか兄さんのように強くなりたい"


 出すものは全部出した。そんな寝顔に、ガウェンには見えた。

「バカ野郎が……だから文官になれってあれほど言ったんだ」

 二人きりになったところで、オットゥーが口を開く。

「よろしいのですか?」

「フィルの件に関してはあいつのほうが適任だ。黙っていても不届き者を見つけ出すだろう」

「では……」

「ああ。やはり一番の懸念はオルドールだ」



 300年の中立時代、ザンブロアに戦の記録はない。時折、戦災の影響で流れ着いた野盗の集団を相手に軍が駆り出されることはあれど、あくまでも領土の秩序を守る警護の一環にすぎなかった。

 ただ国としての参戦はないが、一個人として戦場を駆ける者は少なからずいた。その一人が、現ザンブロア筆頭将軍ガウェン・フェルヴェール。

 始まりは15歳のときだ。武の天稟てんぴんを持ち戦場に夢を抱いていた彼は、ケルフェベント家当主のオルドール大公(当時は公爵)の庇護の下、国から独立した遊軍部隊を結成する。主に城下のゴロツキを集めてつくられたその遊軍は、名目上は傭兵部隊として、各地の戦に参加した。ガウェン隊。その名は瞬く間に広まることになる。

 ザンブロアが軍事国家へと転換し現在に至るまで、彼には様々な冠がつけられた。化け物、怪物、死神、英雄。そして現在は、最強。今やどこに行ってもその呼び名は変わらない。自国の為政者の名は知らなくとも、ガウェン・フェルヴェールと副長ギル・ハンドレッドの名だけは大陸の誰もが耳にしている。

 ガウェンがザンブロアに戻ったのは、現女王が即位する少し前。中立脱却を事前に文で聞いていた彼だが、軍で働くことには抵抗があった。隊の居心地は良かったし、オルドール以外に自分を御せる者はいないと感じていたから。

 だが女王との謁見後、彼はその実力と忠誠を生涯祖国に捧げることを誓う。その理由は、恩義のあるオルドールの意向だけではなかった。大陸最強の武人と目されるガウェン・フェルヴェールの慧眼は、当時19歳だった第一王女を、自身が仕えるに相応しい王であると認めたのだった。



 砦から西に2kmの場所で小隊が待機していた。ガウェンとリトラッセの側近たちだ。その中に、ザンブロアからやって来たばかりの伝者の姿もある。ガウェンがガラドを発つ前に送った文の返信を持ってきたのだ。

 ガウェンはすらすらと書状を読み進めていく。中身は想定通りの内容だった。

「オルドール様はなんと?」とリトラッセ。

「『蝙蝠』が『梟』と接触した報告はやっぱなかったみてぇだ……まぁ、そうだろうな。あの斬り口は剣だ。それもおそらく一対一サシのな。『蝙蝠』のやり方らしくねぇ」

「……にわかに信じがたいです」

「あいつに武才はなかったが、それでも家柄だけで『梟』の部隊長は務まらねぇ。相手はかなりの使い手ってことだろうよ」

「剣の使い手、か……」

「なんか心当たりあんのか?」

「ガウェン様は、黒髪と茶髪の傭兵の噂話を耳にされたことはおありですか?」

「はぁ? なんだそりゃ?」

「私も詳しいことは存じ上げないのですが、どちらも人間離れした実力の持ち主であるとか。前にマブトゥールからそんな話を聞いたもので。たしか先のカボク遠征にも参加していたはずです」

「マブトゥールって誰だっけか?」

「ムーラルト家の嫡男です」

「あ~、たしかお前らタメだっけか……ん〜、全然顔が思い出せねぇな。ムーラルト家の嫡男つったら一度や二度は会ってるはずなんだが……ダメだ、まったく記憶にねぇ。姉貴のほうは美人だからよく覚えてんだけどな、ってそりゃいいや。そんで、そいつらはそんな手練れなのか?」

「長剣を扱う黒髪の剣技は、傭兵や一般兵の間では有名らしいです。3ヶ月前のランパーダとの戦では、首級をいくつもあげたといった話も聞きました。それに、カボク戦が終結したのは3日前。フィル様が亡くなられた推定日時も同じ頃……もちろん、推測の域は出ませんが」

「ふむ……まぁ、今んところそんくらいしか手がかりはねぇか」

 ガウェンは新しく書状をしたためると、親指を強く噛み、浮かんだ血を末尾に押し付け、リトラッセに手渡した。

「俺は一旦ガラドに戻る。お前は帰国してこれをオルドールに渡せ。じいさんが首を縦に振ったら『からす』を使ってそのなんとかって二人の傭兵からフィルのことを聞き出せ。クロだと判断したら俺んとこ連れてこい。『鴉』の指揮権も一時的にお前に預けるよう書いといたからよ」

「私が、『鴉』を」

 名家お抱えの部隊を指揮する……それはまだ経験の浅い彼には身に余る役目。また、友の金庫から勝手に宝物を持ち出すみたいで気が引ける。

「やれっか?」

 だがそんな葛藤も、憧れの男の前では二の次だ。

「やらせていただきます」

「おし。ウチは軍でも城ん中でも一筋縄じゃいかねぇのが多いからな。今のうちにイカれた奴らの扱い方ってのをよく身に付けとけ。つってもオルドールが許可を出せばの話だがよ」

「はっ……ところで、二人を連れてこいというのは、生かして、ということでしょうか」

 こいつ真面目だな、とガウェンは苦笑いした。

「俺の好みはだいぶ分かってきただろ? そこら辺はお前に任せるわ」

「承知いたしました」

 リトラッセたちが出発しても、ガウェンはなかなか動かなかった。馬上から空を仰ぎ、散らばった想いを一つ一つ丁寧に繋げていく。

 完成した絵は、いま、目に映る景色と同じ。ザンブロアの快晴。白い雲が青い空をゆっくりと泳いでいく風景。

 それはあの日、弟に馬の乗り方を教えていたときに見た空。同じだ。穏やかな風に、土や芝の匂い。欠けているのは、恐怖に負けじと懸命に手綱を握っていた、あの小さな背中だけ……。

「あんなにムカついてたのになぁ……」

 死神と称されたことがあるように、ガウェンはその両腕で何千もの敵をじかにほふってきた。命じた戦略による功績を合わせれば、これまでに奪った命は万を軽く越える。だが同時に、その数にひけを取らないほどの仲間を失ってきた。

 そんな彼にとって、死は肌着と同じくらい身近な存在だ。特別なことじゃない。何も感じないと言えば嘘になるが、それを乗り越える強さは十分に持っているし、現に乗り越えてきた。

 それでも肉親の訃報は、可愛がっていた弟の死は、哀しみの渦に彼を引きずり込んだ。怒りを頼りに抜け出すも、今度はその火に腸を焼かれた。癒してくれたのは、弟の顔。なにもかも出し尽くしたかのような、澄んだ寝顔。

 それは戦場で生きてきたガウェンがいくつも見てきた、男の最期だった。

「いつの間にか、男になってやがったんだなぁ」

 大きく息を吸って、吐く。

 繰り返すうちに、思い出が鮮明にまぶたの裏に現れる。初めは泣き顔が多くて、次第に笑顔が増えていく。同時に凛々しい顔も。一番喜んでたのはいつだっけか。たしか、そう、一人で馬に乗れたときだ。槍を褒めてやったときも嬉しそうだったな。褒めるたびに、男らしくなっていったんだ。ああ、そうだ。そんな風に強くなっていく顔を見てるのが、俺も楽しかったんだ。

 日差しに目を細める。心は現実いまへと戻り、それをたしかに受け止める。その顔には一つの陰りもない。弟の成長と人生を誇るために、感謝するために、笑う。

 故人への称賛は、心から笑って見送ってやること。

 それが戦場で生き、勝ち抜いてきた、ガウェンの流儀だ。





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 音のない歩は、深紅の絨毯じゅうたんがなくても変わらないのだろう。

 ザンブロア城内一階、南棟の廊下を男が歩いている。白の混じった短髪に、シャツの裾をパンツにいれた細い身体は地味だが清潔感にあふれる。老いも所々で目につくが、その鋭い眼光は衰えることを知らない。静寂を伴う所作は慎み深く、それでいて威厳に満ちている。

 彼こそが、ケルフェベント家当主オルドール。この国の主柱的存在である。

「先生!」

 大階段を前にしたオルドールに声をかけたのは、今しがた帰国したばかりのマブトゥールだ。緊張にこわばる顔には、疲労とは別種の色も滲んでいる。それは軍を置き去りに真っ先に戻ってきた理由と深く関係していた。

 そして、異国のある村が襲撃されたことにも。



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