おぞましい怪物



 マブトゥールとオルドール。二人は師弟関係にあった。それは先代のムーラルト家当主に深く関係している。

「ただいま戻りました」とマブトゥールは敬礼した。

「ご苦労だった。首尾はいかがか?」

「はっ。演習とはまったく違った熱気と恐怖を感じました。こちらの戦略通りに局面が動かないことは至極当然で、一つの気の弛みが不利をもたらし、即座に末端の兵たちの命を失ってしまう恐れがあることを学びました。勝利に貢献した自負はとうとう得られませんでしたが、己の未熟さは十二分に理解できたつもりです」

「よろしい。至らなかった点は一つ一つ補っていけばいい。これから精進しなさい」

「はっ……ところで先生、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「申せ」

「どうして和睦を結ばれたのでしょうか? 若輩者ゆえ恐縮ですが、あのまま進軍を進めていけば、約定を結ばずともカボクを征服できたと思うのですが……」

「陛下がお決めになられたことだ」

「先生が描かれた絵図ではなかったのですか?」

「ああ」

 女王の意図が、マブトゥールには分からない。むろん、師のことも。

「……イリシア様がカボクへご出立されたと耳にしましたが、和睦の件と何か関係があるのでしょうか?」

「それはお前が関知することではない」


"カボクへの侵攻には裏がある"


 頭によぎるその言葉は、遠征前にある男から密に忠告された一部。当時は師に相対する者の煽動と軽く受け流したが、終戦後に届いたマエーラ村惨劇の報せ、そして懇意にしている第二王女の周囲の慌ただしさから、今では妄言と思えなくなっている。

 同時に、長年畏怖してきた師への忠誠と信頼が、次第に揺らいできていた。

「先生。ルーさ……女王陛下への謁見をお取り次ぎ願えないでしょうか?」

「ならん。お前は自宅に戻り戦の疲れを癒せ」

「ですが、早急にお話したいことが──」

 厳然たる眼差しが沈黙を強いる。

「分をわきまえよ。陛下もお前も、もうあの頃のような子供ではないのだ。ムーラルト家の嫡男として、亡き父に恥じぬ行いに務めよ」

「……はっ」

 弟子の後ろ姿を見届けてから、オルドールは大階段を上っていく。二階に上がれば王の間は目前だが、彼が向かったのは西端。ノックした部屋は王の執務室だ。

「どうぞ」

 女の応答を受け、扉を開ける。中は鮮やかなブラウニー調の広々とした造りで、ピカピカの床には読み捨てられた本が散らばっている。扉からすぐ左手に革のソファーがあり、真っ白なローブを着た若い女が仰向けになって本を読んでいる。奥の机では同じ歳頃の女が鼻歌にリズムを合わせながら、山積みの書類にせっせと押印している。使っているのは国璽こくじ(国の判子)。オルドールは我が目を疑った。

「あっ、おつかれ~オルドール」

 本がずれ、その笑顔が露になる。艶のある長い黒髪に、透き通るように白い肌。そして、穢れなど何一つ知らないと思わせるほどに美しい、赤茶色の二重の瞳。

「ねえねえ、お仕事終わったら遊びに行ってもいいよね?」

「なにを……している……?」

「見たら分かるでしょ、本読んでるの」

「……ルー様にではなく、ニーネルナに申しているのです」

 オルドールは唖然とせざるをえない。彼女たちに驚かされるのは常だが、さすがに今日のは悪ふざけがすぎる。

 鼻歌を歌っていた女が、オルドールに気づいては取り乱す。

「ん……げっ、叔父おじ様!?」

「なにを、している」

 慌てふためくのは、彼の姪で女王側近の侍女のニーネルナだ。

「あわわわ、その、ちっ、違いますよ!? これは一種の人助けというか予行演習というか──」

 ローブの女が楽しそうに口を挟む。

「ニーナがね、暇そうにしてたから代わってあげたの。一度押してみたいって前から言ってたし」

「ちょちょちょっ、ルー様ぁ! ウソ言わないでくださいよぉ! かったるいから代わってって言ったのルー様じゃ──」

 叔父の厳格な眼差しに気づいた姪は、直ちに手を止め机のそばで直立した。それから退室を促す(命じる)視線を浴びると、猫に追われた鼠みたいに室外へと駆けていった。

 その様子を見ていた女王はケラケラ笑う。特別な光景ではない。彼女の素顔を知る者にとっては。

「あ~、残念。せっかく楽してたのに」

「お戯れが過ぎますぞ」

「だってぇ、こんなのただ判子押してくだけでしょ?  誰でもいいかな~と思って」

「ルー様」

「はいはい分かった、わ~か~り~ま~し~た~」



 女王と大公(ザンブロアでは公爵の上に位置付けされ、事実上のNo.2)の関係は深い。それはどこの国でも一緒だが、ことこの国、この二人に関しては一蓮托生とも言える根強さがある。

 今でこそ先進軍事国家としての地位を固めたザンブロアだが、ほんの数年前まではいつ破綻してもおかしくない状勢だった。中立と信仰に基づいた国政は、発展や豊潤から大いにかけ離れていた。300年間戦を避けてこれたと言えば聞こえはいいが、少なくとも、新しいものを生み出したことは一度としてなかった。

 それはつまり、己の肉をかじって空腹をやり過ごしているようなものだ。もちろん、そうしなければならなかった理由はある。利益優先国から見れば、自己満足に等しい自戒、または非生産的な弁解にすぎない理由が。

 現在それを知るのは、ザンブロアの政を担う者。彼らだけが理解している。生み出すには痛みが伴うことを。痛みを恐れては、国を存続させることなどできやしないということを。

 軽々しく批判に回るのは、いつの世も無知な者だけ。知り得てなお批判する者は、大概の場合において反逆者とみなされる。そして正義を手にすることができるのは、いつだって勝者のみ。

 この大陸の正義は、いまだ宙に浮いたままだ。



「──そういえば、お弟子さんたちの出陣はどうだった?」

「どちらも問題なく終えております」

「それはよかったわね。マブトゥールなんか武功をあげたらしいじゃない」

「まだまだ未熟です」

 ルーは声を出して笑った。

「そりゃあ、あなたから見たらガウェン以外みんなそうでしょうよ」

「ところで、イリシア様がカボクへご出立されたと耳にしましたが」

「あ~、煩わしかったからお使い頼んだの。向こうのお偉いさんにお手紙届けて、って。最近あの子ウザくてさぁ。誰に入れ知恵されたのか知らないけど、やたら面白くもない冗談ばかり言ってくるの」

「レオン……でしょうな、おそらくは」

「だてにガウェンの兄は務めてないってことね」

「あれは危険な男です。視点を変えれば、ガウェンの何倍も」

「知ってる。んふふ、面白くなってきた。あ、それよりアレはどうだった?」

「狙いと距離にはいくぶん誤差がありましたが、その他は問題ないそうです。ただ、火薬の匂いが身体に染み付くこと。そして、やはり連射は難しい、とのことです。雨天の日は特に」

「妥当な報告で安心したわ。多少ズレてるっていう人間臭いところも、冷たい銀には必要よ」

「私は正直、ああいうのは好みませぬ」

「あなたらしいわね。気持ちは分からないでもないけど、確実に戦術の幅は広がる。それはあなたが一番よく分かってるでしょ」

「仰るとおりです」

「使わなくても、それがあるだけで牽制にもなるしね……っと、よっし終わったぁ! ね、ね、もう遊びに行ってもいいでしょ?」

 オルドールはため息を呑み込んでから答えた。

「では、ニーネルナをお供にする条件で」

「もっちろん! ニーナ〜、お出かけするよぉ、早くおめかしして〜!」

「ルー様」

「日が暮れたらちゃんと帰ってくるわよぉ」

「イルーシャ人の件は、このまま進めてよろしいのですね?」

 微笑が美しさを孕みながら歪んでいく。

「もちろん。あなたには期待してるわオルドール。もろもろ一段落ついたら、ようやく念願の北攻めに取りかかれる。それまでにはお願いね」

「御意」

「さ〜ってと、おやつはな〜にを食べよっかなぁ〜」

「ルー様」

「なぁに?」

「お戻りは日が暮れる前に」

「ちぇ〜っ、わ〜か〜り〜ま〜し〜た〜!」


 ルーの外出後、オルドールは押印された書類を見直した。いつもながら不備は見つからない。それどころか、記述の誤りや再考の必要があるものはきちんと脇に寄せられている。片手間にやった仕事とは思えない正確さ、そして早さ。

「おぞましい怪物、か……」

 談笑にいざなわれ、窓を覗く。南棟から城門までの広い前庭を、ルーとニーネルナが並んで歩いている。おしゃべりに花を咲かせるその様は、友のように親密で、実の姉妹に足る絆が伺える。

 今では珍しくなくなった、女王の素顔。そんな光景が、脳裏に波紋を広げる。波打つ水面は時を遡り、10年前を映し出す。自身とこの国の分岐点となった、あの日を……。


"あれは、人ではない"


 前庭には、当時の女王とその妹、そしてムーラルト家嫡男の姿があった。ルーは雑草に隠れた花みたいに控えめに笑って、剣術の稽古をきどって遊ぶ二人を眺めていた。

 そんな彼女を執務室から眺めていたのが、オルドールと、先代の王。

 王は実の娘を、こう称した。

「──あれは、人ではない」

 渇いた瞳と抑揚のない声には、なんの色もなかった。恐怖も、そして歓喜も。王はただ、淡々と、目に映る現実をオルドールに述べていく。

「かたちは14の少女だが、一枚皮をめくればおぞましい怪物が息を潜めている……私には分かる、あれが、あの子の本質なのだと」

 オルドールが沈黙に殉ずるのは、病体の友を気遣っていたのか。それとも、異論が見つからなかったからか。

「もしこの世に戦がなければ、人が争わない生き物ならば……私は間違いなく、次期国王はイリシアに決めるだろう。何も迷うことなく、誰の意見を聞くことなく、即座に、心から正しい行いであると信じて。なぜなら、イリシアは人で、あれはそうではないからだ」

 後者なのは、王も察していた。

「イリシアはきっと、立派な人間になれるだろう。その定義が環境によって変わることを踏まえてもな。だが、あれはおそらく……いや、必ずそうはならん。なれん。あの子の持つそれは、本質は……人のそれとは大きな隔たりがある」

 ありふれた才器を前にしたとき、人は形而上的な表現に走りがちだ。およそ手の届かないもの、どうしたって自分に備わらないであろうものを、悪魔的もしくは悲観的に捉えてしまう。

 己のちっぽけな器から目をそらしたいがために。

「だが、それは、王の資質に相応しいものだ」

 だが彼は、目を背けなかった。自身の冴えない器量にも、王としての立場にも、そして目の前の現実おそろしさからも。

「人は争い、奪い、つくり、奪われ、憎み、失い、哀しむ……それはおそらく、未来永劫変わることのない宿命のようなものなのだろう。この美しいザンブロアの地が、諸国から妬みの目で見られていることも、その宿命に値するのだろうな」

 それはきっと、彼が見てきたからだろう。娘の才覚にも劣らない怪物を。幼少の頃からずっと、そばで……。

「あれは、人ではない……だからこそ、優れた王になるであろう」

 その怪物こそが、現ザンブロア大公、ケルフェベント家当主オルドール。

「オルドールよ。娘を頼む、などと言うつもりはない。お前の意のままに判断してほしい。この不肖な王を……ザンブロアを、ずっと守り続けてくれたお前に答えを出してほしいのだ。それが私の……王として、また、一人の友としての最後の望みだ」


 あれから10年。あらゆるものを変えたこの歳月と、今目にできる二人の背中を、オルドールは染々と噛み締める。

「お前は正しかったよ、サインツ」

 そして、再び、胸に誓う。

「ルー様は間違いなく怪物だ。そして近い将来、間違いなく、偉大な王になられるであろう。そのためなら私は、悪魔と呼ばれることに一切の躊躇をもたん」



 オルドールが公務に戻ろうとしたとき、城門のほうから馬がやって来るのが見えた。格式高い前庭を乗馬で駆けていい人間は、特別扱いのガウェンを除けば一人(一種)しかいない。伝者だ。それも火急の場合のみ。

 案の定、鉢合わせたルーは伝者を従えてUターンしてくる。大公は足早に南棟門へと急ぎ、女王を出迎えた。

「お早い御帰宅でしたな」とオルドール。

「あらあら、相変わらず勘が鋭いわね」

 伝者は息も絶え絶えに敬礼し、こう告げた。

「帝国が軍を起こしました。数は3万を越えております」

 オルドールはその固い皺にうっすらと笑みを滲ませて言う。

「ルー様の読み通りでしたな」

「あはは、思ったよりずっと早かったけどね」



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