残酷な死



 女は最後に何を考え、どんな想いをこぼしたのだろう。黒髪に分かるはずもない。だが棒を抜き、仰向けにしたその寝顔はとても安らかだ。どことなく、笑っているように見えるほど……。

 玄関から拍手が聞こえてきた。茶髪だ。

「相変わらず見事だねぇ……こんなに優しい死を与えてあげられるのって、もしかしたら世界でキミだけかもね」

 嬉しくなければ、楽しくなければ笑わない。それが黒髪。普段と変わらない口調で答える。

「メシは調達したのか?」

「あらかた」

「ならさっさと行くぞ。ここは胸糞悪い」

「生み出すということは、ある種の痛みを負うことである」

「あ?」

「一人言」

 新たな声が聞こえたのは、馬に荷物を取りつけていたときだ。黒髪だけではあるが、今度ははっきりと言葉が聞こえる。なにを言ってるか分からないのは、異国の言葉なのだろう。

 分からなくても、声に滲んだ感情から察しはつく。

 憎悪と悲嘆の叫び。

「どこ?」と茶髪。

「向こうの家。いくらかこもってるから地下かもな」

 軽い足取りで向かう茶髪。

「おい、ほっとけって」

「すぐ済むから」と茶髪は一人で入っていった。

 家の中は整然とされていた。母子の死体が転がっていなければ、すぐに友人を呼んで食事ができるほど。

「……祝福の地、か」

 隣の部屋も整っているが、床に血痕があった。なにかをひきずったような、もしくはケガ人が這ったような痕跡。それはすかすかの本棚の下まで続いている。

 棚をずらすと、案の定地下への階段を見つけた。先はぼんやりと明るい。

 行き止まりは6帖ほどの石壁の部屋だった。床にたくさんの本が散乱している。どれも黒い表紙で、公用語とは異なる文字。

 イルーシャ語。

 血痕の終着点にいたのは、血だらけの老人だった。たくさんの蝋燭ろうそくを前に、ぶつぶつと嗚咽に黒き感情を孕ませながら、膝立ちで腹の前に指を組み合わせて祈りを捧げている。呼吸は荒く、今にも消え入りそうに力無い。だが刃物を生やすその痩せた背中は、憎悪が具現化したように、狂気に震えている。

「なにが間違ってるっていうの?」

 茶髪の問いかけに、祈りがぴたりと止まる。

「あんたたちはすがってるんだろ? 祝福の地にさ」

 老人は振り向かなくとも察したようだ。

 茶髪が何者であるのかを。

「我慢する人生は楽しかった? 我慢させる人生は誇らしかった? もうくたばっちゃう今なら、少しは本音が言えるんじゃない?」

 老人の背中が再び震え出す。喉を鳴らすように生まれた嗚咽が、徐々に、破滅を感じさせる笑い声へと変わる。

 高笑いをしてから、老人は狂ったようにその人生を総括した。

「……ああ、いま、ようやく、わかったよ。

教典はやはり正しかった。

やはりこの世は間違っていた。

狂っていた、狂っていたんだよ。

すべてが、すべてが、すべてが!

火も、水も、風も土もなにもかも!

私たち以外のすべてが、狂っていたんだ!

毒が蔓延していたんだよ、お前たちが豊穣だと思っていたものは毒だったのだ!

解放は救済ではなかったんだよ、掘っても掘っても掘っても、また土はかけられる!

繰り返しだ!

終わらない、終わらないんだよ!

だからうたは聴こえない!

もう、うたは聴こえない!

なぜ……聴こえない……?

神はどこへ行ったのだ?

救済は、うたは、祝福の地は、どこへ……」

 茶髪は老人に囁く前に、蝋燭の火をすべて吹き消した。火が苦手だからか、はたまた、終わりには闇が相応しいと考えたのか……それは彼自身にもよく分からなかった。

「あんたたちは神の子じゃなかった。それだけの話さ」

 老体の瞳が虚ろに沈んでいったのは、それからまもなくのことだ。

「ある意味、幸運だったよ。今となっては、だけどね」

 一階に戻ったとき、ふと、それに目が行った。床に転がった母子。少女の口元から、なにかが出ているのが見える。

 取り出したそれは、くしゃくしゃの紙。傍らにある本の、1ページ。

 彼らが信じていた、教典の中身。それが喉の奥までいくつも詰まっていた。

 茶髪はその一つを平らに伸ばし、書かれていた一文を読み上げた。

「……生み出すということは、ある種の痛みを負うことである」

 母子の亡骸なきがらが、茶髪を望郷へといざなう。この村と同じくらいに寂れた故郷。

 脳裏に甦ったその絵は、まもなく炎に包まれ、隅から隅まで燃えていく。近所の悪ガキどもに、疎むような目を向ける大人たち、そして、大好きだったお母ちゃん。

 みんなみんな、燃えていく。

 母親の顔まで焼け落ちると、少女がなぜ最期に教典をくしゃくしゃにして呑み込んだのかが、分かった気がした。

「生きることは、その痛みを癒すことである」

 この世が狂っているかは、茶髪には分からない。分かっているのは、万物には限りがあるということ。豚を食えば豚は死に、食わねば腹は満たされない。いくら綺麗な言葉で取り繕おうとも、理不尽な不平等が大地を支配しようとも、そのルールだけは公平に、例外なく降り注ぐ。

 欲しいなら、勝ち取るしかない。欲しかったから、茶髪は傭兵になった。何が欲しかったのかは今でもよく分かっていないけれど、それでも生きて、ひたすら生きていく。

 茶髪はページを握り捨て、屋外へ出ていった。まっすぐ、前だけを見て。

「精一杯、生きていかなくちゃね」

 それが、茶髪という人間。


 村を離れた頃にはすっかり暗くなっていた。松明たいまつを片手に手綱を引き、歩いて林を抜けていく。

「聞かないの?」と茶髪。

「あ?」

「俺がなんでイルーシャ人のこと知ってるか。じいさんとの会話聞こえてたんでしょ?」

「興味ねぇよ」

「あはは、寂しいなぁ」

 いつものように陽気に笑う瞳は、いつもとは違っているように、黒髪には見えた。

 現に、"それ"は違っていた。

「俺としてはさぁ、救ってあげたつもりなんだけどね。キミがしてあげたやり方とはだいぶ違っちゃったけど」

「おい」

「なに?」

「目が光ってるぞ」

 茶色かった瞳が、今では輝かしいほどの青白い光をまとっている。

 茶髪はどこか誇らしげに笑って、目をチカチカさせて見せた。

「でしょうね、だってわざと光らせてるもの」

「お前の先祖は魚かなんかか?」

「実は俺もイルーシャ人なんだ。正確にはクォーターだけどね」

 黒髪は少し驚いたが、それ以上でも以下でもなかった。いつものように淡白に相槌をして先を急ぐ。

 そんな彼に相棒は少し不満気だ。

「ちょっとお、それだけ?」

「あ?」

「相っ変わらずリアクション薄いなぁ! もっとさあ、こう、なんかないわけ? 相棒の唐突なカミングアウトに対してさぁ!」

「俺は人種差別に興味はねぇ。俺が興味あるのはお前の実力と、変な能力にだけだよ」

 茶髪は嬉しそうに笑った。

「ん~、キミのそういうとこ嫌いじゃないなぁ」

「それ、いつでも光るのか?」

「なによ、やっぱ興味あるんじゃんか」

「夜には松明代わりになるだろ」

「疲れるからイヤですばい。ねぇ、一つ聞いていい?」

「あ?」

「キミはこの世から戦がなくなると思う?」

「さぁな。俺たちみたいなのが消えなきゃ無理だろうさ」

「あはは、たしかに」

「お前はどう思う?」

「無理だろね。人は神になれないし、ましてや神の子でもないんだから」

「そうか」

「そうそ……あ、そういえばあのおっさん、くたばったみたいだよ」

「おっさん?」

「ほら、酒場で話しかけてきた」

「あ~」


"最後にモノを言うのは自分の腕っぷしなんだよ。誰かに助けてもらおうなんて奴は救われねぇ"


「結局、キースくんの言うとおりになったね。おっさんも、あのじいさんも……」



 ザンブロアとカボク戦が終結したこの日、ザンブロア三大名家フェルヴェール家の三男が死に、一つの村が滅ぼされた。

 ザンブロア、三大名家、イルーシャ……。

 国、人種、そして血……。

 後にこれらは黒髪と茶髪に深く関連し、歴史の渦へと引きずり込んでいく。


 二人がマブトゥールと再会するのはこれより半年後。そのとき黒髪と茶髪は、己の命の使い方を決めることになる。






 chapter Ⅰ END



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